16.あなたがかわいいと言ったものが、私の中のかわいいの定義だ
残暑の厳しい九月の終わり、私は日曜の朝一番に先輩と待ち合わせをしていた。
今日はヒザ下丈のデニムのボトムスにピッタリしたシャツ、上からフーディを羽織ってきた。さっぱり動きやすい服にしたのは、今日の目的地が猫カフェだから!
八月から九月は私も山田先輩も忙しかったし、二人でビアガーデンのリトライもしていたから、猫カフェに行く余裕がなかった。
最寄り駅のホーム、七号車の乗り場で待っていると、すぐに熱風が吹き込んできて電車がすべり込んでくる。
ドアが開くと山田先輩が笑顔で立っていた。
「先輩!」
「お疲れ、秋谷」
電車に乗り込んで、先輩を上から下までじっくり見た。
今日の先輩は、細身のポロシャツにスリムジーンズ、上からゆるっとしたカーディガンを羽織っていた。
「山田先輩ってボトムは細身が多いですけど、トップスはゆるめが多いですよね」
「あー、うん」
先輩は苦笑して目を逸らした。
「俺、ヒョロガリだから、そう見えないようにしてるというか」
「へー、でも手や腕は私より全然太いじゃないですか」
先輩がまくった袖からのぞく腕に、私の腕を並べた。確かに男の人としては細身かもしれないけど、私と比べたら太くてしっかりしてると思う。
あと、手の甲に浮いた筋と骨ばった指が最高だから、そんなに気にしなくていいのに。
「秋谷と比べたらね」
見上げると、先輩は口を開きかけて閉じた。首を傾げて見せると、先輩は困った顔になった。
「磯山さんみたいにたくましかったらよかったんだけど」
「そうですか? 私、ああいうマッチョな感じの人って好みじゃないんですけど」
「……そっか」
先輩はフフッと笑った。電車の揺れで私は先輩の胸にぶつかる。
見上げると先輩は私をじっと見つめ、口元をゆるめながら私の背中を支えた。
「秋谷は俺のこと喜ばせるのがうまいよな」
「本心です」
「……それが嬉しいんだよ」
私も手を先輩の背中に伸ばしたけど、しがみつく前に車内アナウンスが流れた。
「あ、次ですね」
「そうだな。あのさ、エサがあれば猫も寄ってくるかな」
「そうだと思います」
「寄ってこなかったら慰めてくれ」
「そうなったら私のこと猫かわいがりしてください」
「いつもしてる」
耳元で囁かれた声は砂糖菓子みたいに甘くて、猫に取られるのはもったいなかった。
電車から降りた瞬間、一気に汗が吹き出た。
先輩を見上げると、汗が髪を伝って首筋を流れ落ちていた。舐めさせろとは言わないから、せめてぬぐわせてほしい。
たぶん気持ち悪いからダメって言われるのだろうけど。
先輩と並んで駅を出て、そのまま目の前の猫カフェへ向かった。
私も先輩も猫カフェは初めてだから、大手の猫カフェチェーンにした。中に入ると、店内は広々としていて、白とベージュを基調にした落ち着いたデザインだった。
受付を済ませて荷物を預け、先輩はおやつも買って、いざ!
「おお、猫だらけだ」
「ですねえ」
休みの日だけど、開店してすぐだから他のお客さんはあまりいない。
先輩は目を輝かせて猫が座っているソファへと近づいたけど、あっという間に逃げられた。
あまりの勢いに先輩はしょんぼりした顔になり、店員さんが苦笑しながら寄ってきた。
「猫ちゃんが驚いてしまうので、腰を落として、ゆっくり近づいてあげてくださいね」
「なるほど」
先輩は真面目な顔で頷いて腰を落とし、別の猫にゆっくりと近づいていく。
先輩がそっと手を伸ばすと、猫がその手に鼻を近づけた。
「……うわ」
山田先輩の口からささやくような歓声がこぼれる。
「かわいいなあ……」
「そうですね」
私は頷いてスマホを構えた。
本当に、かわいい。先輩が。私は猫が特別好きなわけでも嫌いなわけでもないけど、先輩が猫をかわいがるなら、私は先輩も含めてかわいがる所存です。
先輩が思い出したかのように猫のおやつを取り出した。
途端に猫が群がってくる。
受付に、あと三十分ほどで猫たちのごはんタイムと書いてあったから、きっと猫たちもお腹がすいていたのだろう。
私は全力で写真を撮った。途中で我に返って猫も写しておく。あとで先輩に送ったら喜ぶと思うんだ。
そうしているうちに他のお客さんも増えて、猫たちのごはんタイムになった。
先輩のおやつもなくなったから、休憩ってことで私たちもドリンクバーでコーヒーを取ってきて、ソファで飲みながら猫たちがごはんを食べるのを眺めた。
「いやー……よかった」
先輩はうっとりした顔で、皿に顔を突っ込む猫を見ていた。
ちょっと面白くないけど、ここで猫に嫉妬するのはさすがに大人げないから、黙ってお茶を飲んだ。
「俺、今までの人生であそこまで猫に囲まれたの初めてだよ」
「山田先輩が楽しんでくれてよかったです」
私としても、猫と戯れる最高にかわいい先輩の写真を山ほど撮れたから、これはこれで悪くない。何枚か印刷して持ち歩きたいくらいかわいかった。先輩が。
「もう一匹、撫でないと」
ふと先輩が立ち上がった。
私に手にしていた紙コップを渡すと、そのまま手洗い場に行ってしまった。
見ていたら戻ってきて、また隣に腰を下ろした。
「秋谷」
「はい?」
「おいで」
「ひえ」
なんですか、その甘ったるい声……!
先輩は猫に向けていたのとは違う、絡めとるような視線を私に向けた。口の端は上がってるのに、なぜかあまり笑っているようには見えない。
そして手を持ち上げて私の頭に伸ばし、触れる直前で止めた。
「嫌だったら、そう言って」
なんていうか、何かを堪えているような、息を押し殺したみたいな声だった。
ちょっと怖いくらいで、心臓が爆発しそうな音を立てているけど、それでも私はあなたを拒否したくない。
「い、嫌じゃないです……」
そう答えると、一瞬だけ表情が険しくなって、でもすぐに優しく微笑んだ。
手が頭に乗って、髪を梳くように丁寧に撫でられる。
時折耳に指が当たって、それだけで全身が甘くしびれるような衝撃が広がった。
「秋谷、なんて顔してるのさ」
「わ、私、どんな顔してますか?」
「どんなって」
先輩は言い淀み、困ったように私を見つめた。
互いに吐く息が重くて熱くて、混ざったらどろりと粘りつきそうな気がする。
「んーごめん、うまく言えないな……ていうか、言いたくない」
そう言って、先輩は私から手を離した。
「……でも、そうだな。わがままだけど、その顔は俺以外の前でしてほしくない、かな」
「えー?」
なんだったんだ。
先輩の手を見る。
何度か触れたことはあるし、抱き寄せられたこともあるのに、なぜか何かがいつもと違った。
なんだろうなあ。
私が考え込んでいるうちに、先輩は苦笑しながら私に預けていた紙コップを受け取り、またドリンクバーでコーヒーを入れてきた。
「うーん、この世に猫よりかわいい生き物なんて、そうそういないと思ってきたけど、そうでもなかった」
「そう、なんですか?」
まだぼんやりしていた私には、うまく返事ができなかった。
***
しばらく猫カフェで先輩の写真を撮ってから、お昼を食べに行くことにした。
近くのちょっといいハンバーガー屋で、先輩が大きな口を開けて食べているのを眺めていた。
写真を撮っていたら、先輩が呆れた顔を私に向けた。
「秋谷は自分のを食べろって」
「先輩が食べてるのを見るのが好きなんですよ」
「俺もそうなんだけど」
そう言って、山田先輩は私の前に置かれたハンバーガーの包み紙を剥いて、差し出した。
「一緒に食べよう」
「……はい」
観念してハンバーガーにかぶりついたら、カシャッとシャッター音が聞こえた。
「先輩?」
「ポテトも食べて」
「もー」
さっきまでしてたことをやり返されていて、全然反論できないし、先輩がやたらと嬉しそうだから不満も言いづらかった。
「そういえば、花沢さんと磯山さんって付き合い始めた?」
先輩はスマホを置いて紙コップを手に取った。
「まだじゃないですか? でも磯山先輩の機嫌がいいので助かります。……花沢さんとのデートのために、私の仕事を増やされてる気はしますけど」
「マジか。俺の方は逆に機嫌よくバリバリ仕事してくれてるから助かってるよ」
そう言って、山田先輩は紙コップの中身を一気にあおった。
「ま、あの人たちのことはどうでもいいんだ。秋谷、この後用事ある?」
「いえ、空いてます」
「じゃあ映画行かない? 一緒に観たいのがあるんだ」
「はい!」
残りを食べて、立ち上がった。
山田先輩が私を猫より同僚より優先してくれるのが、たまらなく嬉しかった。
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