68 埋められた外堀
朝食が終わると、いつもはがらんとしている大広間に、次々と円卓が運びこまれた。午後から始まる忘年会の準備のためである。
このあとお昼過ぎに工房スタッフとモデルの人たちが来て、ショーのリハーサルが控えている。
その前までに自分の野暮用は済ませておかなければいけない私は、朝食をサッと済ませ、部屋にこもっていた。
机の周りには書き損じた紙が散らばっている。行儀が悪いと分かりながらも、それを正す余裕のないくらい、準備に手間取っていた。それもこれもアントワーヌのありがた迷惑な提案のせいだ。
アントワーヌはこの提案を私が嫌がることを見越していたのだろう。彼にしては珍しく、自分の案を実行してもらうために、外堀を埋めるような形で提案してきた。
それはクリスマス翌日の夕飯の時だった。自分から話し出すことがほとんどないアントワーヌが、急に自分の両親に、試し書きの話をし始めたのだ。その流れで名前の話になる。
「フランス式の名付けとは異なり、子供への願いやイメージを込めて名付けをするそうです。特に漢字の選択がその鍵を握ります。」
そこから漢字の説明が始まった。聞き流すのかと思いきや、皆しっかりと耳を傾けている。
「舞花の名前にも『花が舞う』という意味があるそうです。そして舞花は、私の名前にも漢字の名前をつけてくれました。」
まるで先生に褒められたことを報告する子供のように、アントワーヌは胸をはっていた。
「それはどんなものなの。」
エレオノールが興味津々で尋ねた。そして、その質問は想定通りだったのだろう。アントワーヌはポケットから、彼の名前を書いた紙を取り出し、見せびらかすように広げた。
「これでアントワーヌです。アイディアを問い続けるという意味があるそうです。」
「素敵ね。あなたにぴったりじゃない。」
漢字を全く知らない人たちが、ヒエログリフでも眺めるように、「案問貫」の文字を見つめている。
「これが日本の文字なのか。」
「随分と複雑だな。」
未知の文字を前に、マキシミリアンとアルフォンスも興味を示している。そこにアントワーヌが追い討ちをかける。
「この名前は、舞花が考えてたんです。」
「そうなの。それは素晴らしいわ。……それって、私の名前でも出来るのかしら。」
うっすら予想はついていたが、その通りの流れになった。
「はい。でも、……」
どうにか、やらない方向に持っていこうとしたが、そこにアントワーヌが狙ったように被せてきた。
「じゃあ、忘年会で希望者の方に漢字の名前を贈るというのはどうでしょうか。」
しまった。完全に後手に回ってしまった。あわてて反論を挟もうとする。
「いや、漢字の名前を考えるには…」
「とってもいい考えじゃない。」
「いいじゃないか。」
しかし、ボーモン侯爵夫妻の声にあっさりかき消され、最後まで言い切ることもできなかった。アントワーヌは自分は政治は興味がないと言っていたが、こうやって外堀をガチガチに固めてくる根回しの巧みさは、やはり侯爵家で培われた交渉術なのではないだろうか。いっそ、政治家にでもなってしまえばいいのに。
そんな八つ当たりを頭の中で呟きながら、苦笑いでアントワーヌの提案を了承した。
さらに話題は書道のことで盛り上がり、アントワーヌに導かれるまま、名前を漢字にするだけでなく、皆の前で、その名前を筆で書くことにまでなってしまった。
アントワーヌはまだ書道の大変さを分かっていない。見本を見て書いても失敗することもあるのに、慣れない素人が書く文字を即興で決めながら、それなりに整った文字を書けるわけない。
夕食が終わり、アントワーヌを呼び止めた。
「何を考えているんです。」
「いや、私も我ながらいいことを思いついたなと思いました。」
この男は一体何を言っているんだ、と唖然となった。
「そうじゃないです。おかげで、全員分の名前を考えなきゃいけなくなったではないですか。」
「え、希望者だけでなく、全員分考えるのですか。」
驚いた声には嬉しさがにじみ出ていた。
そこで私は上手く書くには、その場で漢字を考えながらは無理だから、事前準備をしておかなければ難しいことを伝えた。それで、アントワーヌに彼の提案がいかに大変なものかを理解してもらおうとしたのである。
「それは、……素晴らしいですね。では、書道パフォーマンスを希望者5名だけにして、漢字の名前を贈るのは全員にしましょう。母上にも報告してきますね。」
アントワーヌに全くこちらの意図は伝わらなかった。むしろ、火に油を注いでしまった。彼の日本語に対する熱意が燃える、燃える、燃え上がる。いっそ本体も焼き尽くしてほしい。
こうして私は参加者全員分の名前に漢字を当てがう作業を26日の夜から、ずっとしているのだった。
そして今、それもシークレットゲスト一人を残すのみとなった。
最後の一人の名前を聞くために、エレオノールの部屋を訪れたのだがいなかった。しょうがないので、ゲストが誰か知っていそうなアルフォンスの執務室に向かった。そして勇気を出して扉を叩き、部屋に入ると、そこにエレオノールがいた。さらにスーツ姿の来客もいる。邪魔をしてしまったかと思い、謝って部屋を出ようとしたところを、アルフォンスに引き留められた。
「どうしたのかね。」
「忘年会のシークレットゲストについて伺いたいことがあったのですが、またあとで来ます。」
「ちょうどいい。今聞こう。」
アルフォンスの「ちょうどいい」に引っかかったものの、早く退出するために、自分の用件を伝えた。
「ゲストの下の名前だけでいいかね。」
「はい。」
「シャルル=オーギュストだ。」
「そうですか。ありがとうございました。」
お礼を言って下がろうとした、その時だった。来客の男性が、驚いたように目を見開いた。それを見たエレオノールがクスクス笑っている。
「Elle ne connaît tout simplement pas son prénom 」
何が起きたのか理解していない私は、その場を離れてもいいのか分からず、おどおどしていた。そこにアルフォンスが優しく声をかけてきた。
「彼が誰だか知っているかい。」
「いいえ。私の知っている方ですか?」
「問題ない。それでは準備を頑張ってくれ。」
「問題ない」という返しがやはり引っかかるが、それ以上に、シャルル=オーギュストの衝撃の方が大きかった。果たしてこれを漢字にすることが出来るのだろうか。
次回の更新は土曜日です。




