67 アントワーヌの考察 カンジ編II
案問貫
私は、舞花が半刻は悩んで書いた文字を眺めていた。これでアントワーヌと読むらしい。彼女は名前らしくはないけれど、私らしい文字になったと言って、満足げに筆を置いていた。
全く分からなかった。
彼女が何に満足しているのか。
私らしい文字とは何か。
名前らしいとはどういうことか。
始めの安斗和抜はなんの条件を満たしていなかったのか。
彼女は何を懸念していたのか。
そして、どうして彼女は満足できたのか。
未知の事項が多過ぎて、彼女の発言の意図を理解できているかすら怪しい。
そもそも名前は個人を特定する記号に過ぎない。苗字と名前、必要であれば洗礼名を参照すれば、ほとんどの場合は特定できる。
舞花の説明によれば日本は洗礼名はなく、苗字と名前を一つずつというのが原則となっている。
ここまでは同じだ。しかし、同じ呼称でも漢字表記に種類があるので、完全な同姓同名は少ないという。だから、同じ「まいか」という名前でも、舞香や麻衣佳といった、複数の表記方があるという。
「『まいか』を全て書き出してください。」とお願いしたところ、彼女は「全部は無理です…」と言いながら、20個弱書いてくれた。
ひとつの名前の書き方だけで二十。
例外でなく、一般的なもので二十。
もしすべてを列挙したら、果たして「まいか」は何十種類あるのだろう。
いや何百なのだろうか。
ひとつの名前の背後に巨大な集合が存在している。
舞花はこの異常性に気づいているのだろうか。
――いないだろう。
少し落ち着いて「まいか」の書き方を観察すると、「まい・か」型と「ま・い・か」型の二種に分類できるようだ。そして各「まい」の書き方に花、香、佳、果、夏といった「か」が伴う。
確かにこの方法ならば、同じ名前でも表記まで重複する確率はかなり下がる。個体識別のためには機能的である。
ちなみに舞花自身の名前表記は両親が出生時に決めた「舞花」で、「花が舞う」という意味だという。このように、そもそも名付けをする時点で、名付ける者が名称に意味を持たせるという。その行為自体が、表意文字を扱う民族らしい発想が見受けられる。
さらには音には音の、文字には文字の思案が込められているらしい。そもそも個人の名前に意味があり、それが人を表すという発想すら、我々とは異なる考えだ。舞花が言っていた「言霊」の発想の影響だろう。
でも、舞花に書いてもらったこの名前をみていると、今まで意味のなかった私の名前にも意味があるのではないかと思えてくる。舞花は「ちょっと微妙ですが」といっていたが、自分のなりたい像がそこに表れていた。
名前の表記方法がいくつもあるというのは、やはり漢字の読み方が複数あるということと関係しているのではないだろうか。「花」を「はな」だけでなく、「カ」と読めることによって、「か」のつく名前にあてがうことが出来る。
舞花の説明によると、中国の文字である漢字に同じ意味の日本語をあてがったため、「音読み」と「訓読み」の二種類が生まれたのだという。
自分たちが「はな」と呼んでいるものを「花」と書き表すことを知り、その読み方である「カ」を使うのではなく、無視するのでもなく、「カ」の読み方も受け入れた上で、自分たちの呼称も追加したということだろうか。
なんという「Bricolage(日曜大工)」。
設計を度外視して、不要なものは残しておき、必要になれば継ぎ足していく。
全体の体系の完ぺきさなどまったく考えていない。
生きている言葉というのは、こういう割り切れなさが美しい。
さらに、中国語の「カ」を日本語の「はな」に置き換えずに、「カ」も「はな」もそのまま置いてあるというところに日本語の寛容性が表れている。
その上に音読みにも複数の読みがある。日本に伝わった時代などによって発音が異なったりしたらしい。それで既存の読み方を修正するのではなく、追加していく、つまり、相手の変化を受け入れる。自分たちの言語が煩雑になることを考えれば、ありえないやり方である。
フランス語ならばアカデミーフランセーズによって、既存のものに組み込まれていくだろう。
日本語はこのような合理性からはほど遠い。
次々と増えていく読み方。
それを取捨選択せずに、すべて保存するという選択。
そしてそれを維持するという意気込みと
それを実行する努力。
これは狂気だ。
何百年何千年と受け継がれ
国民を巻き込んだ
日常的狂気としかいいようがない。
始めに渡された100個の漢字リストの読み方だけをカウントするといったいいくつになるのだろう。これを6歳から1年ずつ習得していく。
そんなことが可能なのだろうか。
フランス語の動詞の活用で音を上げている場合ではない。
ああ、試したい。
もっと多くの被験者を集めて試したい。
その名誉ある第一被験者が私だ。
今までも日本語習得という階段の長さを感じていたが、今回、複数の読みがあることを聞き、自分が見ていた道は舞花によって舗装されていた道であり、ただの入口に過ぎなかったことが分かった。
「練習さえすれば、私でも出来たんだから大丈夫ですよ」と舞花はいうが、この入口さえ果てしない道を私は歩み続けることが出来るのだろうか。
いや、ここで諦めるという選択肢は私にはない。
これまで運命(destin)という言葉を信じていなかった。
しかし、これを運命といわずとして何と言おう。
何か大きな力によって導かれている気がする。
今ならば神を信じることも出来るだろう。
日本語を、日本を
発見する(découvrir)という使命(mission)。
これほど魅力的な研究対象を前にして、
引き返す研究者はいない。
謹んで引き受けようではないか。
次の更新も土曜日になる予定です。




