66 本性が出てきた
12月25日の午前中、屋敷はひっそりしていた。クリスマスイブのにぎわいは明け方まで続いたようで、屋敷に残っている参加者たちは、こぞってGrâce matinée (朝寝坊)を満喫していた。
私もいつもより遅めの朝食を済ませ、身支度を済ませると、明後日に控えた忘年会の準備を始めた。そこで、誰かが部屋のドアを叩いた。すると、使用人のジョゼットだった。
「朝のお支度はお済みでしょうか。」
「はい。」
「あの、アントワーヌ様がいつもの部屋でお待ちです。至急来て頂きたいとのことなんですが……。」
筆の試し書きだ。朝からすごいやる気だ。
「舞花様、大丈夫でしょうか?お疲れでしたら、私からお伝えしますが。」
ジョゼットは、いつものアントワーヌの衝動的な提案だと思っているのだろう。誤解を解くために、昨夜約束をしたのだと説明をした。
「ならいいのですが。最近、使用人の間でも、アントワーヌ様はタクトを降るように指を動かしていたり、ぶつぶつ呟いていたりして、様子がおかしいと言われていますので、何かあればすぐにお知らせください。」
そういうジョゼットの口ぶりは、本当に心配そうだった。私は心配していくれたお礼をいい、彼は私の言語を勉強しているだけだと説明した。しかし、その説明ではあまり納得がいかなかったらしく、訝しそうな顔をして、ジョゼットは下がっていった。
私にしてみればアントワーヌは出会った頃からそんな感じだった。私が書いた平仮名表を奪おうとしたり、私のことを置いてけぼりにして呟いたりしていた。私にとってはそれが「アントワーヌ」だった。
もしかしたら、それを今までは外に出していなかったのかもしれない。だから家の人たちから見ると、研究熱心な次男でしかなかったのだろう。
でも最近、漢字の学習を始めてから、その「熱心さ」のたがが外れて、彼の「熱心さ」が研究室の外にまで出てしまっているのだろう。
使用人の人たちにとっては目新しく、不審に映っているのかもしれないが、まだ当分、漢字熱は続きそうなので、慣れてもらうしかない。
「おはようございます、舞花。早速、約束の試し書きをしましょう。」
教室の机の上には、すでに筆と紙が準備してあった。さらに、墨の代わりにインクが小皿の中に入っていた。やったことはないが、墨汁と似ているし、問題ないだろう。
「舞花がはじめに書いてみてくれますか?」
「え、いいの。」
「はい。どんな感じで書くのかを見せてください。」
書道なんて、学校でやって以来だ。そこまで下手くそではないと思うけど、別に素人が筆で文字を書くだけなんだから、あまり期待しないでほしい。
「何て書きますか?」
「……。では『青』でお願いします。」
「どうしてですか?」
「美しいからです。ほぼシンメトリーな上に、上下のバランスも良い。形状が非常に安定しています。そして青に月が入っているので、青い月、つまりブルームーンを連想させるのもまた興味深いです。こちらの文化では不吉なものとされていますが、希少が故にそれを価値のあるものと判断していてもおかしくないですからね。」
「はぁ……。」
こっちが期待したものの何十倍もしっかりとした答えが返ってきたこともだが、「青」という漢字をこんなに深掘り出来ることに、純粋に驚いた。なんと言うか、実にアントワーヌらしい。
もしこんなことを漢字ごとに考えているのならば、彼の行動が常軌を逸してきたのも納得がいく気がする。
私は筆にインクにつけ、広げた紙に筆を落とした。筆先をグッと押しつけて、そのまま横に滑らし、止めて筆をそっと上げた。少し滲むが、特に問題はない気がする。そのまま学校で習った基礎を思い出しながら、ゆっくりと青の文字を書き切った。悪くない。そう思って、不気味なほど静かなアントワーヌの方を振り返った。
「Ça va ? Ça ne vous plaît pas ?」
(どうしました?気に入りませんでしたか?)
「…… Non, non, …… c’est magnifique.」
(……いいえ、素晴らしいです)
「神秘的な動きで、まるで祈りを捧げる儀式のようです。」
どうやら彼の頭の中に色々なものが渦巻いているらしく、普段なら淀みなく話すアントワーヌにしては珍しく、ひとつひとつの言葉を掬い上げるようにゆっくりと話してくれた。
私が気合を入れてゆっくり書いた分、彼に与えたインパクトが強かったのかもしれない。でも、書道家が背丈もある筆で書くのを見ていると、私も同じようなことを感じるから、間違ってはいない。むしろ、的を射た分析なのかもしれない。
「日本では、言葉に魂が宿るという古くからの考え方があります。「言霊」といいます。文字を書くことに不思議な力があると信じて、書くんです。それに近いですね。」
「そうなんですね……。」
アントワーヌはそのまま黙り込んだ。なので、私はひとまず新しい紙を出して、「舞花」と自分の名前を書いてみた。
「それは何を書いたんですか?」
「私の名前です。これが舞で、こっちが花です。」
「待ってください。」
アントワーヌは大きく深呼吸をした。
「まず、これは花ですね。なのに、『か』と読むんですか?」
「そうですよ。」
「一つの文字に二つの読み方があるんですか?」
「そうですね。これは二つです。一つのものもあれば、何個もあるものもあります。『生』とか10個弱あったと思いますよ。」
「10個……。」
アントワーヌは言いかけた言葉を飲み込み、また少し黙り込んでしまった。分かりやすいと思って、ひとつの漢字に読み方をひとつしか教えていなかったことを思い出した。ちゃんと説明すべきだったかな。でも、文字によって異なる上に、私だって辞書なしで全ての読み方をすらすらと挙げることは出来ないから、随時付け加えていってもらうしかない。
アントワーヌが再び深呼吸をした。
「次に、あなたの名前には漢字表記があると。」
「はい。」
「それは一般的なことですか。」
「そうです。名前をひらがなで書く人もいますが、基本的には漢字ですね。」
「分かりました。では、私の名前を漢字で書くことは出来ますか。」
「出来ますよ。ちょっと待ってください。」
安…斗…和…
ぬ、ぬ…抜くの抜?
紙に書いたものを見たら、獲加多支鹵みたいな名前とは思えないゴツい字面に、思わず二重線を引いた。安請け合いするもんじゃなかったと、新たな「アントワーヌ」案を考えながら後悔した。
紆余曲折があって、更新が遅くなりました。次回も土曜日の更新になりそうです。




