第8話 初めて、自分の言葉で
夜は、静かだった。
施設の中は、昼間よりもさらに音が少なくなる。
廊下を行き交う人の気配も、ほとんどない。
部屋の中には、時計の針が進む音だけが、かすかに響いていた。
机の上に、手紙が置いてある。
何度も読み返した紙。
折り目はやわらかくなり、少しだけ端が丸くなっている。
その隣に、白い便箋。
そして、一本のペン。
何も変わっていない配置。
それなのに——
空気は、少しだけ違っていた。
椅子に座る。
手紙を手に取る。
ゆっくりと開く。
——おばあちゃんのごはん、またたべたいです
その一行を、もう一度目でなぞる。
何度読んでも、同じ場所で胸があたたかくなる。
同時に、少しだけ苦しくなる。
嬉しさと、申し訳なさが混ざるような感覚。
あのとき、自分は何をしていただろう。
ただ、流されるように日々を過ごしていた。
気づけば、何も残っていないと思っていた。
でも——
残っていた。
この子の中に。
自分の作っていたものが。
ゆっくりと手紙を閉じる。
便箋に目を向ける。
白いままの紙。
何も書かれていない。
でも、それを見て“怖い”とは思わなかった。
少し前までは違った。
何を書けばいいのか分からなくて、
書こうとするたびに手が止まっていた。
“正しい言葉”を探して、
“間違えないように”と考えて、
結局、何も書けなかった。
でも今は——
そこまで考えなくてもいい気がしている。
上手く書けなくてもいい。
きれいな文章じゃなくてもいい。
ただ、自分の言葉で。
それでいいのだと、少しだけ思える。
ペンを持つ。
指先に、わずかな緊張が走る。
でも、それは前とは違う。
逃げたくなるようなものではない。
“ちゃんと向き合おうとしている”感覚だった。
紙にペン先を当てる。
ほんの一瞬、止まる。
それから、ゆっくりと動かす。
——こはるへ
最初の一行。
たったそれだけで、胸が大きく揺れる。
書けた。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
続ける。
言葉を探すのではなく、
浮かんでくるものを、そのまま置いていくように。
——おてがみ、ありがとう
——とてもうれしかったです
文字は整っていない。
少しだけ震えている。
でも、それでいいと思えた。
——ごはんのこと、おぼえていてくれて、ありがとう
書きながら、少しだけ笑ってしまう。
こんなふうに書くのは、いつ以来だろう。
誰かに向けて、ちゃんと“伝えよう”としている感覚。
それが、久しぶりだった。
——また、つくります
ペンが、少しだけ止まる。
この一行は、約束になる。
軽く書いていいものではない。
でも——
迷いはなかった。
書く。
はっきりと。
——こんどあえたら、いっしょにたべましょう
その一文を書いたとき、
胸の奥で何かがしっかりと定まった。
会う。
逃げない。
ちゃんと向き合う。
それを、自分で選んだ。
ペンを置く。
書いた文字を見つめる。
きれいではない。
整ってもいない。
でも——
それが、自分の言葉だった。
「……これでいいのね」
小さくつぶやく。
誰に聞かせるでもなく。
それでも、その言葉はまっすぐだった。
便箋を折る。
封筒に入れる。
封をする。
一つ一つの動作が、少しだけ丁寧になる。
大事にしたいと思っている証拠だった。
机の上に置く。
明日、出せばいい。
焦る必要はない。
でも、もう迷いはなかった。
ベッドに座る。
少しだけ、肩の力が抜ける。
天井を見る。
同じ白い天井。
でも——
そこに広がるものが、前とは違う。
“何もない”のではなく、
“これからがある”ように見える。
小さな違い。
でも、自分にとっては大きかった。
目を閉じる。
静かな夜。
その中で、ゆっくりと息をする。
胸の奥にある灯りは、
もう消えそうではなかった。
むしろ、
少しずつ、確かに強くなっている。
——遅くても、いいのかもしれない。
そう思えたことが、
何よりの変化だった。




