表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六十歳、追放されましたが遅すぎることはありません 〜家族に捨てられた私を覚えていたのは、あの子だけでした〜  作者: snow☆rabbit


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 あなたの人生は、それだけじゃない

その日、厨房に立つことになったのは、ほんの偶然だった。


 職員の一人が、困ったような顔で言った。


 「少しだけ、人手が足りなくて……簡単な作業でいいんですけど」


 断る理由は、特になかった。


 やることもなかったから。


 「私でよければ」


 そう言ったとき、自分でも少し驚いた。


 こんなふうに、自分から何かを引き受けるのは、いつ以来だろう。


 厨房は、思っていたよりも静かだった。


 大きな施設なのに、音は控えめで、整っている。


 包丁の音や、鍋の湯気の立つ音が、やわらかく重なっている。


 「これ、お願いしてもいいですか?」


 渡されたのは、野菜。


 簡単な下ごしらえ。


 それだけだった。


 「はい」


 包丁を持つ。


 少しだけ手が固くなる。


 けれど、刃を野菜に当てた瞬間、


 不思議と、指先の感覚が戻ってくる。


 トントン、と一定のリズム。


 最初はぎこちなかった動きが、少しずつ整っていく。


 音が、懐かしい。


 ずっとやってきたはずのこと。


 それを、思い出すように繰り返す。


 「慣れてますね」


 職員が、少し驚いたように言う。


 「いえ……ただ、長くやっていただけで」


 そう答えながら、手は止まらない。


 長くやってきた。


 それだけ。


 そう思っていた。


 でも——


 それだけで、いいのかもしれないと、


 ほんの少しだけ思う。


 火にかける。


 湯気が立ち上る。


 その香りに、胸の奥が静かに揺れる。


 思い出すのは、あの食卓。


 誰も気にしていなかったかもしれない。


 それでも、確かにそこにあった時間。


 鍋の中身を、ゆっくりと混ぜる。


 味を見る。


 舌に広がる感覚。


 どこか懐かしくて、でも少しだけ違う。


 それはきっと——


 “誰かのためにやる”のではなく、


 “自分で選んでやっている”からだ。


 完成した料理が、食堂に運ばれる。


 自分の手を離れたそれが、誰かの前に置かれる。


 少しだけ離れた場所から、それを見る。


 一人の女性が、箸を取る。


 ゆっくりと口に運ぶ。


 その瞬間、


 ほんの少しだけ、表情がやわらぐ。


 それだけの変化。


 でも、はっきりとわかる。


 もう一口。


 今度は、少しだけ自然に。


 最後まで、食べる。


 何も言わずに。


 でも、残さずに。


 その光景を見ているうちに、


 胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。


 言葉はない。


 派手な反応もない。


 それでも——


 確かに、届いている。


 「どう?」


 いつの間にか隣に立っていた佐伯が言う。


 振り向く。


 少しだけ考えてから、答える。


 「……わかりません」


 正直な気持ちだった。


 うまく言葉にできない。


 でも、続ける。


 「ただ……」


 胸に手を当てる。


 そこにある感覚を、確かめるように。


 「少しだけ、ここがあたたかいです」


 言葉は拙い。


 それでも、それが一番近かった。


 佐伯は、静かにうなずく。


 「それでいいのよ」


 やわらかく言う。


 「それが、あなたの“答え”だから」


 答え。


 その言葉が、すっと入ってくる。


 今まで探していたもの。


 ずっと、外にあると思っていたもの。


 でも、本当は——


 こういう形で、内側にあったのかもしれない。


 自分の手を見る。


 同じ手。


 ずっと変わらない手。


 でも、今は少しだけ違って見える。


 この手で、誰かに何かを届けられる。


 その実感が、静かに広がる。


 「あなたの人生はね」


 佐伯が、ぽつりと言う。


 「家族のためだけで終わるようなものじゃないの」


 その言葉を、今度はまっすぐに受け取れる。


 否定しようとは思わなかった。


 むしろ——


 少しだけ、信じてみたいと思った。


 「……私でも、まだ間に合いますか」


 小さく聞く。


 自分でも驚くくらい、素直な声だった。


 佐伯は、迷わず答える。


 「もちろんよ」


 その一言で、胸の奥が静かに満ちていく。


 大きな変化ではない。


 劇的な何かでもない。


 でも、確かに違う。


 昨日までの自分とは。


 ほんの少しだけ。


 それでも、大きな一歩だった。


 厨房を出る。


 廊下を歩く。


 窓の外を見る。


 同じ景色。


 でも、色が違って見える。


 ——まだ、終わっていないのかもしれない。


 その考えが、自然に浮かぶ。


 怖さは、まだある。


 それでも。


 ほんの少しだけ、前に進める気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ