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六十歳、追放されましたが遅すぎることはありません 〜家族に捨てられた私を覚えていたのは、あの子だけでした〜  作者: snow☆rabbit


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第3話 ここにいても、誰にも必要とされない

朝は、音で始まった。


 目覚ましではない。


 廊下を歩く足音と、遠くで閉まる扉の音。


 規則正しく、どこか機械のように繰り返されるそれが、ゆっくりと意識を引き上げる。


 目を開ける。


 白い天井。


 昨日と同じ景色。


 少しだけぼんやりとした頭で、それを見つめる。


 ——ここは、どこだったかしら。


 一瞬だけ、そんなことを考えてしまう。


 けれど、すぐに思い出す。


 施設の部屋。


 自分の居場所になった場所。


 起き上がる。


 体が、少し重い。


 特別どこが悪いわけではないのに、動きが鈍い。


 理由はわかっている。


 急ぐ必要がないからだ。


 誰も待っていない。


 何も求められていない。


 だから、体が自然と“止まる”。


 それが、こんなにも違うものなのかと、少し驚く。


 ゆっくりと着替える。


 鏡を見る。


 そこに映っているのは、少しだけ疲れた顔の自分。


 いつからこうなったのか、よくわからない。


 でも、それを直そうとは思わなかった。


 理由も、必要も、見つからない。


 食堂に向かう。


 廊下ですれ違う人たちは、軽く会釈をするだけだ。


 それ以上は何もない。


 名前も、知らない。


 知らなくても困らない関係。


 それがここでは普通なのだと、少しずつ理解していく。


 席に座る。


 決まった場所ではないはずなのに、なぜか同じ席に座ってしまう。


 昨日も、その前も、ここだった気がする。


 誰も何も言わない。


 それが許されている。


 トレーが置かれる。


 味噌汁。


 ごはん。


 簡単なおかず。


 どれも、きちんとしている。


 足りないものはない。


 けれど——


 満たされる感じもしない。


 一口、口に運ぶ。


 味はある。


 でも、どこか遠い。


 舌に乗っているのに、心に届かない。


 そんな感覚。


 隣の席の人も、静かに食べている。


 向かいの人も、同じように。


 会話はない。


 必要がないから。


 ここでは、“食べる”ことが目的であって、


 “誰かと過ごす時間”ではないのだとわかる。


 それが悪いわけではない。


 ただ——


 少しだけ、寂しい。


 食べ終わる。


 誰よりも遅くも早くもない。


 ちょうどいいタイミング。


 でも、それに意味はない。


 トレーを下げる。


 「ごちそうさま」


 声には出さない。


 出す相手がいないから。


 部屋に戻る。


 椅子に座る。


 何をするでもなく、手を膝の上に置く。


 時計を見る。


 まだ午前中。


 こんなにも時間があるのかと、少しだけ戸惑う。


 もう一度見る。


 あまり進んでいない。


 時間が、伸びているような感覚。


 何かしなければ、と思う。


 でも、何をすればいいのか、わからない。


 今まで、考えたことがなかった。


 “自分の時間”を、どう使うのか。


 ずっと、誰かのために動いてきた。


 起きる時間も、食事の準備も、すべてが“誰か”基準だった。


 その“誰か”がいなくなった今、


 残ったのは、空白だけだった。


 立ち上がる。


 部屋の中を少し歩く。


 数歩で終わる。


 それだけの広さ。


 窓に近づく。


 外を見る。


 木が揺れている。


 風の音は、ここまで届かない。


 ただ、動いているのが見えるだけ。


 その景色を、しばらく眺める。


 何も変わらない。


 それでも、目を離せなかった。


 午後。


 談話室に行ってみる。


 何人かが座っている。


 テレビを見ている人。


 目を閉じている人。


 本を開いている人。


 でも、ページはあまりめくられていない。


 自分も座る。


 少しだけ、周りを気にする。


 でも、誰もこちらを見ない。


 それが普通なのだと、もう知っている。


 時間が過ぎる。


 ゆっくりと。


 本当にゆっくりと。


 時計の針の音が、聞こえてきそうなくらいに。


 ——ここでは、何も起きない。


 その事実が、静かに重くなる。


 夕方。


 また食堂。


 また同じ流れ。


 同じ動き。


 同じ沈黙。


 違うのは、外が少し暗くなっていることだけ。


 部屋に戻る。


 ベッドに座る。


 そのまま、横になる。


 天井を見る。


 白い。


 変わらない。


 ふと、思う。


 ——ここに、私がいなくても、誰も困らない。


 その考えは、すっと胸に落ちた。


 否定する理由がない。


 誰も、何も言わない。


 誰も、何も求めない。


 それは、やさしいことのはずなのに。


 どうしてか、少しだけ痛い。


 目を閉じる。


 眠ろうとする。


 でも、すぐには眠れない。


 静かすぎるから。


 何もなさすぎるから。


 その中で、ふと思い出す。


 小さな手。


 ゆっくりと箸を動かしていた姿。


 何も言わずに、でも最後まで食べていたあの子。


 「……小春」


 小さく、名前を呼ぶ。


 誰にも聞こえない声。


 それでも、少しだけあたたかい。


 ——あの子は、どうしているだろう。


 その問いだけが、残る。


 そして、その答えを知らないことが、


 どうしようもなく、寂しかった。

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