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第4話 血に濡れた翡翠

 ギルドの休憩室には、昼下がりの陽がゆっくりと差し込んでいた。


 昨日まで、向かいに美人が座っていた。

 今日は、冷めた茶と壁の依頼ボードだけだ。


「……まあ、そんなもんだよな」


 くーちゃんが、俺の膝に丸まる。

 もふもふ。あったかい。


「キャン」

「わかってるって」


 俺は苦笑する。


「リアーネ、いい人だったよな」

「きゅーん」


 昨日のあの距離感。名前呼び。うるんだ瞳。

 三十代前半の心臓には、刺激が強すぎた。


 ギルドの入口がざわついた。

 金属が擦れる音。スタッフの声。カメラのセッティング。


 視線を向けると、白銀の鎧が目に入る。

 レオンだ。


 包帯を巻いたまま、それでも堂々と立っている。

 昨日の失敗など、武勇伝の一部と言わんばかりに。


「今日は証明だ」


 スタッフにそう告げ、マイクを受け取る。

 迷いのない声。


 ふと、視線が交わる。


 一瞬だった。

 こちらを見て、ゆっくりと口元が歪む。


 ニヤリ。

 俺を見下ろす、勝者の顔。


 ――そういう顔、するわけね。


 その後ろに、リアーネが立っている。

 いつも通り整った姿勢。凛とした横顔。


 だが、視線がこちらに向いた瞬間――翡翠の瞳が、わずかに揺れた。

 申し訳なさと、ためらいが、その瞳の奥で揺れていた。


 くーちゃんが膝から飛び降りた。


「きゅーん」


 リアーネの方へ、歩こうとする。


「おい」


 俺は慌てて抱き上げる。


「だめだ」


 くーちゃんが、前足で胸をちょん、と叩く。

 本当に行かなくていいの? そんな目だ。


「行かない」


 俺は首を振る。


「終焉ドラゴンはもういない。レオンは強い」


 リアーネの唇が、かすかに動く。

 何か言いかけて、やめた。

 そしてレオンの後ろに続く。


 ダンジョンの重い扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 静かになった休憩室。

 陽の光だけが、変わらず差し込んでいる。


「……ヒーローはヒーロー同士でやればいい」


 モップを持ち上げる。柄の重みが、手に馴染む。


「俺は清掃員だ」


 そう言ったとき、ほんのわずかに胸の奥がざわついた。


***


 俺はいつも通り、清掃作業をしていた。


 壁のモニターが、生配信を映している。

 深層攻略、証明配信。

 レオンが剣を構え、コメント欄が滝のように流れる。


《守護者様!》

《今日こそ裏スキル証明!》

《期待してる!》


 俺は床にモップを当てる。

 黒い残滓が、ゆっくりと吸い上げられていく。

 汚れを拭く。それだけの仕事だ。


 だが何度も、モニターへ視線が向いてしまう。

 くーちゃんも、ちらりと画面を見上げる。


「……まあ、大丈夫だろ」

「ワン」

「大丈夫だって」


 くーちゃんは、モニターから目を離さなかった。


 清掃ノルマを終え、モップを壁に立てかける。


「終わりっと」


 くーちゃんが足元をくるくる回る。


「キャン」

「ああ、はいはい。ご褒美な」


 ポケットからボーロを出す。

 ぱくり、と小さな口が動く。


 その瞬間――


 大型モニターが悲鳴を上げた。


《待て待て待て!!》

《また出た!?》

《二体目!?》

《嘘だろ!?》


 画面が切り替わる。


 深層、四十層付近。

 崩れた壁。砕けた柱。


 そして――昨日とは別の、黒い巨影。


 より大きい。より禍々しい。

 怒りに満ちた赤い眼を燃やす――終焉のドラゴン。


 レオンが、前に出る。


「問題ない! 証明する!」


 剣を掲げる。


「シャイニング・ジャッジメント!!」


 閃光が爆発する。配信が白に染まる。


《きたあああ!!》

《守護者!!!》


 煙が晴れる。


 ドラゴンは――無傷だった。


 光が、弾かれている。

 いや。吸われている。


 レオンの顔から、血の気が引く。


 次の瞬間、巨大な尾が薙ぎ払う。


 レオンが吹き飛ぶ。

 石壁に叩きつけられる。


《撤退しろ!!》

《無理だ!!》

《アイテム使え!!!》


 リアーネが駆け寄る。

 風の魔力を纏い、レオンをかばう。


 ――やめろ。


 その背中に、ドラゴンの爪が振り下ろされた。


 血が、舞う。


 昨日、名前を呼び合った人が。

 俺の代わりに怒ってくれた人が。

 

「――リアーネ!」

 

 音声が乱れ、画面が揺れる。

 レオンが震える手で転移石を掴む。


 転移光。視界が白く弾ける。映像が切り替わる。


 入口付近に、二人が転がり出た。砕けた鎧。血が、床を濡らす。

 

「キャン!!」

 

 腕の中で、くーちゃんが暴れる。


 ドラゴンの姿はない。終わった――はずだ。なのに、くーちゃんの震えが止まらない。


 リアーネが、立ち上がれない。翡翠の瞳が、痛みに揺れる。


 行かなかった。俺のせいだ。

 

「……くそ」


 横取りも、屈辱も。全部、後回しだ。


 気づけば、走っていた。


 入口へ。


 助けたい。それだけだ。


 あの翡翠だけは、汚させない。

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