第10話 勇者と、ただの清掃員
しばらく、カフェの音が遠く感じられた。
俺の話を、リアーネは一度も遮らなかった。
相槌も、慰めもない。ただ静かに聞いていた。
やがて、そっと息を吐く。
「……そんなことが、あったんですね」
同情でも、驚きでもない。理解しようとする声だった。
翡翠の瞳が、わずかに揺れる。
「……つまり、透真さんには」
一拍、言葉を選ぶ。
「その時、全てが"歪み"として見えていた」
俺は無言で頷く。
「たぶん俺の力は、"歪みそのものを整える"力なんだと思います」
視線を落とし、カップの縁を指でなぞる。
「くーちゃんが光るとき、"歪み"に向けてモップを振ると、あんな現象が起こる」
「……理屈では、まだ整理しきれていません」
リアーネは小さく目を伏せ、それから顔を上げた。
「ですが、私は確かに見ました。ドラゴンが消えていくのを」
翡翠の瞳は、もう揺れていない。
「魔王に最後、とどめを刺したのは……実は透真さん?」
「どうなんでしょうね」
肩をすくめる。
「あの時は、無我夢中でしたから」
「きゅーん」
くーちゃんが膝の上で小さく鳴く。あの時を思い出したのか、尻尾を一度だけ揺らした。
「だから、後片付けなんですね」
リアーネが、感慨深げに頷く。
「あの時みたいな思いは、ごめんなんで」
軽く言ったつもりだったが、声は少しだけ低くなった。
リアーネは、しばらく黙って俺を見ていた。
評価するようでも、探るようでもない。
ただ、少しだけ。
目が、やわらかかった。
「そういうの、素敵です」
翡翠の瞳が、まっすぐ射抜く。
心臓が、一拍遅れる。
「……そういうの、慣れてないんで」
思わず視線をそらし、カップの縁へ逃げる。
「慣れてください」
くす、と小さく笑う。からかう声なのに、嫌味がない。
それに、どこか、本気に聞こえた。
くーちゃんが、するりと俺の膝から降り、リアーネの膝へ移動する。
「裏切ったな」
「キャン♪」
誇らしげに尻尾を振るな。
「ふふ、選ばれましたね」
勝ち誇ったような微笑み。
「……何に?」
「さあ?」
わざとらしく首を傾げる。
窓から差し込む光が、銀の髪をやわらかく照らす。くーちゃんは満足そうに丸まり、リアーネの指先がその背を撫でる。
悪くない。いや、かなり悪くない。
俺、なんか青春してないか?
こんな時間が、続けばいい。少なくとも、今だけは。
そう思った、その瞬間。
重い扉が、ゆっくりと開いた。
空気が変わる。
ざわめきが、一斉に途切れる。誰かが、息を呑む。
「……勇者リュシオン様だ」
小さな声が、波紋のように広がった。
その瞬間、くーちゃんの尻尾が止まった。
撫でられていたのに、ぴたりと。
白を基調とした礼装。肩にかかる金糸の装飾。
腰には、象徴たる光剣、ルミナス・ブレード。
十年前と変わらない姿。変わらない光。
カップを持つ手が、わずかに止まった。
「アークレインダンジョンに終焉のドラゴンが出現したと聞いた」
低く、よく通る声。それだけで、店内の空気が整列する。
「南東エリアの安全のため、状況を確認しに来た」
俺は知っている。あの日、後片付けをしなかった男だ。
「……アイツか」
思わず、視線が鋭くなる。
落ち着け、透真。俺はただの清掃員だ。平穏に過ごすと決めただろ。
モブ。空気。背景。そう言い聞かせる。
ふと、視線を感じた。
リアーネが、こちらを見ていた。
目だけが、静かに言っていた。
――私が、います。
それだけで、少しだけ、息ができた。
リュシオンの視線が、ゆっくりと店内を巡る。獲物を探すように。
そして。
「終焉のドラゴンを消した者に用がある」
静かな一言。それだけで、空気がひび割れた。
「ギルドのログは確認済みだ」
淡々と続ける。
「ドラゴンは倒されたのではない。魔力構造が書き換えられ、消滅している」
誰も息をしない。
「同様の現象は、過去にも一度だけ確認されている」
一瞬。俺の喉が、ひくりと鳴った。
「王都決戦の夜だ」
心臓が跳ねる。隣で、リアーネの気配が固まった。
革靴の音が、石床に響く。
一歩。また一歩。こちらへ。
くーちゃんが、俺の腕に体を押しつけてきた。
偶然だ。きっと偶然。頼む、通り過ぎろ。
だが、足音は止まらない。
俺たちのテーブルの前で、ぴたりと止まった。
「……そういえば」
視線が、くーちゃんに落ちる。
「あの配信に、犬が映っていたな」
背筋が、冷える。
「お前の犬か?」
逃げ場はない。
「……ああ、そうだけど。それが?」
できるだけ無関心に返す。
くーちゃんが、ぴたりと動きを止めた。
「ウゥー……」
低い唸り声。初めて聞く、警戒の音。
くーちゃんは、俺の腕の中で動かない。
目だけが、リュシオンを追っている。
店内が、凍る。リュシオンの瞳が細くなる。
「……面白い」
その声音に、温度はない。
ゆっくりと視線が、俺に落ちる。
選別する目。
「消したのは」
世界が、音を失う。
「……お前か?」




