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91.義母と買物

 ヴォルグ邸の朝は、静かで優雅な空気に包まれていた。


 陽の光が差し込む美しいサンルームで、ソフィアはエスメラルダと共に朝の紅茶を楽しんでいる。

 ギルバートが理不尽な魔竜に引きずられて奈落の森へと向かってから、数日が経過していた。


 彼は今もあの森の奥深くで、血を吐くような過酷な修行を強いられているはずである。

 ソフィアはカップの縁に口をつけながら、ふと窓の外の遠い空を見つめて小さく息を吐いた。


「ソフィアちゃん。今日は帝都へお買い物にいきましょう」


 エスメラルダが、上機嫌な声で提案する。


「お買い物、ですか」


「ええ。貴女に似合う可愛らしいお洋服や、宝石をたくさん見繕ってあげたいの。そのまま、帝都で一番美味しいと評判のレストランで昼食をとりましょうね」


 エスメラルダの周囲には、ふんわりとした桃色のオーラが漂っているようだった。

 実の娘を愛でるような甘い提案に、ソフィアは嬉しく思いつつも、少しだけ眉を下げる。


「でも、ギルさんが今も血を吐きながら厳しい修行をしているのに。私だけが優雅にお買い物に行くなんて、少し申し訳ない気がしてしまいます」


 婚約者が命懸けで自分に相応しい男になろうとしている。

 その裏で贅沢を楽しむことに、ソフィアの生真面目な職人としての良心がちくりと痛んだのだ。


「あら。わたくしとのお出かけは、嫌かしら」


 エスメラルダは扇子で口元を隠し、ひどく寂しそうに目を伏せた。

 帝国社交界の頂点に君臨する女傑が、まるで捨てられた子犬のような可憐な素振りを見せる。


「そ、そんなことはありませんっ。お義母様とも仲良くなりたいですし、喜んでいただきたいですからっ」


 ソフィアは慌てて首を横に振り、身を乗り出して快諾した。

 エスメラルダの表情が、一瞬にして満開の花のようにぱぁっと明るくなる。


(ギルさん、ごめんなさいっ。でも、お義母様のお誘いを断るわけにはいきませんから)


 ソフィアは心の中で奈落の森に向かって手を合わせ、そっと許しを請うのだった。


    ◇


 帝都の大通りを、双頭の鷲の紋章が刻まれた豪奢な馬車が進んでいく。

 車内では、エスメラルダがソフィアの隣にぴったりと座り、その華奢な手を自身の両手で優しく包み込んでいた。


「帝都の中心にある、行きつけの高級ブティックを貸し切っておりますのよ。ソフィアちゃんが気に入るものが、きっと見つかりますわ」


「あの、エスメラルダ様。よろしければ、私がいつもお世話になっている商会へご案内してもよろしいでしょうか」


 ソフィアが控えめに提案すると、エスメラルダは不思議そうに小首を傾げた。


「まあ。ソフィアちゃんのお気に入りのお店があるのね。それはどのような」


「OTK商会というお店です。魔法杖の素材や、珍しい魔道具を幅広く扱っているのですが、服飾部門の品揃えもとても素晴らしいのです」


 ソフィアが帝都で店を開いてから、ずっと世話になっている顔なじみの商会である。

 お世話になっている彼らに、少しでも恩返しができればという思いもあった。


「ええ、もちろん構いませんわ。ソフィアちゃんの案内で行きましょう」


 エスメラルダは二つ返事で了承し、御者に目的地の変更を告げた。

 愛する息子のお嫁さんの頼みであれば、どのような場所であろうと付き合うつもりであった。


    ◇


 カランコロンと、OTK商会の帝都本店のドアベルが軽やかに鳴る。


 店内には上質な魔法薬の香りが漂い、ショーケースには美しく磨き上げられた魔道具が整然と並べられていた。

 服飾部門のカウンターで書類の整理をしていた顔なじみの店員マリアが、足音に気づいて顔を上げる。


「あら、ソフィアちゃんじゃないの。いらっしゃい」


「こんにちは、マリアさん。今日はお洋服を見立てていただきたくて伺いました」


 いつものお得客の姿に、マリアは親しげな笑顔を浮かべた。


「お洋服ね。ソフィアちゃんなら、先日入荷したばかりの東の国の絹織物なんかどうかしら。絶対似合うわよ」


 マリアが気さくに言いかけて、ぴたりと動きを止めた。

 ソフィアの後ろから、一人の貴婦人が静かに店内に足を踏み入れたからである。


 その貴婦人は、扇子で口元を隠し、値踏みするように店内を見回していた。

 ただ立っているだけで空間を支配するような、圧倒的な威厳と冷ややかなオーラ。

 それは、マリアのような一般の商人であっても、決して見間違うはずのない帝国の最重要人物であった。


 ガシャーンっ。


 マリアの手から、見本として持っていた高級な香水の小瓶が滑り落ち、床で派手な音を立てて砕け散った。


「あ、あ、え。エスメラルダ様っ」


 マリアは腰が抜けそうになるのを必死に堪え、カウンターにすがりついた。


(なぜ。なぜ帝国社交界の頂点であり、泣く子も黙る最恐の女傑が、うちのような商会にっ)


 マリアの心の中で、警鐘がけたたましく鳴り響いている。

 OTK商会は確かに帝都で有数の規模を誇るが、公爵家の女主人が自ら足を運ぶような店ではない。

 粗相があれば、商会ごと跡形もなく消し飛ばされかねない相手である。


「マリアさん、大丈夫ですかっ。お怪我は」


「ひっ、だ、大丈夫よっ。すぐに片付けるからっ」


 ソフィアが心配そうに駆け寄るが、マリアは震える手で床の破片を拾い集めた。

 生きた心地がしないまま、エスメラルダの鋭い眼光が自分に向けられるのを待つ。


 しかし、次に聞こえてきたのは、マリアの耳を疑うような甘い声だった。


「さあソフィアちゃん、お着替えしましょうね。そこのマリアとやら、この子に似合う一番可愛いお洋服を、すべてこちらへ持っていらっしゃい」


「えっ。は、はいっ。ただいまお持ちいたしますっ」


 マリアが恐る恐る顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 あの恐ろしい女傑が、ソフィアの肩を優しく抱き寄せ、完全に孫を愛でるお婆ちゃんのように頬を緩ませているのだ。


 マリアは混乱する頭に鞭を打ち、商会の奥から最高級のドレスやワンピースを次々と運んできた。

 エスメラルダはそれらを一つ一つ丁寧に確認し、ソフィアの身体に当てては嬉しそうに頷いている。


「まあ、これも似合いますわ。こちらの水色のドレスも、ソフィアちゃんの透明感を引き立ててくれますね」


「エスメラルダ様、こんなにたくさんのお洋服は着きれませんわっ。それに、お値段も」


「気にすることはありません。すべていただきますわ。マリア、これらをソフィアちゃんのサイズに合わせてすぐに仕立て直しなさい」


 ソフィアが困惑して控えめに抗議するが、エスメラルダはまったく聞く耳を持たない。

 次から次へと可愛い服を着せられ、ソフィアはされるがままに鏡の前に立たされていた。


 その光景をカウンターの奥から遠巻きに見ていたマリアは、額に浮かんだ冷や汗をハンカチで拭った。


(あの、帝国で最も恐ろしいと言われる女傑を。あそこまで完全に骨抜きにし、とろかせてしまうなんて)


 マリアは、試着室から出てきたソフィアに満面の笑みを向けるエスメラルダの姿を見て、一つの真理に到達した。

 権力にも財力にも一切なびかず、ただ純粋な善意と真心だけで相手の懐に飛び込んでいく少女。


(ソフィアちゃん。あんた本当に、恐ろしい子ねっ)


 当のソフィアは、自身の底知れぬ魅力とタラシっぷりにまったく無自覚なまま、困ったように上品な微笑みを浮かべている。

 マリアは、商会の最重要顧客リストに記されたソフィアの名の横に、心の中で最大級の警戒と敬意の印を刻み込むのだった。

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― 新着の感想 ―
マリアさんはきっとソフィアちゃんが遠くに行ってしまうんじゃないかと心配してしまったんじゃないかな?ギルさんと恋仲になっていることは知ってるけれど、まさか帝国の女帝と呼ばれ恐れられてるエスメラルダママが…
いやあのマリアさん? 女傑のこと知ってるならその息子がギルってことも家名から判るでしょうに。 そっからソフィアとのつながり考えたらおのずと答え出ますやろ? まあ、女傑来店のインパクトで色々ぶっとんだっ…
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