90.竜賢者の訓練
【☆★おしらせ★☆】
あとがきに、
とても大切なお知らせが書いてあります。
最後まで読んでくださると嬉しいです。
帝都の郊外に深く広がる、鬱蒼とした木々が連なる奈落の森。
かつて魔導士試験の舞台となり、凶悪な魔族が封じられていたその場所は、昼間であっても日の光を遮るほどの薄暗い静寂に包まれている。
しかし、その森の境界線を覆うように、淡く温かな黄金色の光の膜が張られていた。
それは他でもない、ソフィアが構築した神域の結界である。
内側からのあらゆる物理的、魔力的な衝撃を完全に遮断し、外界へと一切の余波を漏らさない絶対の防壁であった。
その結界の内側の開けた場所に、軍服に身を包んだギルバートと、小柄な少女の姿をした魔竜ファフニールが立っている。
「この結界の内側であれば、どれだけ魔力を放とうとも外部に影響は出ない。フィーが構築した結界は完璧だからな。だが、それがどうしたというのだ」
ギルバートが周囲の光の膜を見上げながら、怪訝な声で尋ねる。
ファフニールは口角を歪め、獲物を前にした捕食者のような邪悪な笑みを浮かべた。
「その通り、結界があるゆえに問題はない。余がどれだけ貴様を痛めつけようともなっ」
ファフニールがゆっくりと近づき、無造作に拳を振るう。
凄まじい風圧を伴った一撃がギルバートへと襲いかかり、彼はその圧倒的な威圧感に腰を抜かした。
拳は彼の頭上を通り過ぎ、その後方にあった木々が次々とへし折られていく。
「はぁっ。はぁ、はぁ」
(こ、こいつ。今俺を殺す気だったっ)
ギルバートの全身からどっと冷や汗が噴き出し、身体が小刻みに震え始める。
一方のファフニールは、偶然の一撃を避けてへたり込んだ男を見て、心底馬鹿にしたようにため息をついた。
「だらしない。貴様は本当にだらしなすぎるぞ。貴様は誰に杖を設えられ、日々のメンテナンスを受けていると思っている。当代第一の魔法杖職人、余のソフィアなのだぞ」
ファフニールは大きくため息をつく。
「貴様が不甲斐ない無様を晒せば、それだけソフィアの職人としての格が下がるということが分からんのかっ」
言葉が終わるよりも早く、すさまじい衝撃音が連続して響き渡った。
ファフニールが軽く手を振っただけで、空間そのものが極限まで圧縮され、不可視の巨大なハンマーとなってギルバートの全身を強打する。
彼の巨体が大木を何本もへし折りながら吹き飛ばされ、地面を激しくバウンドして凄まじい土煙を上げた。
「がっ、げほっ。いきなり、何をっ」
ギルバートは口内に広がる鉄の味を吐き出しながら、辛うじて立ち上がる。
肺の空気が強制的に押し出され、視界が明滅していた。
晴れていく土煙の中から、小柄な竜の少女が悠然とした足取りで歩み出てくる。
「こないだのあれはなんだ。ジョーカー如きの変装もあっさりと見破れず、大事なソフィアを誘拐されおって。あの程度の幻惑魔法も見破れんとは、『ソフィアのツガイ』という肩書きが泣くというものだ」
ファフニールが、冷酷な声で過去の失態を責め立てる。
それはつい先日、帝都を騒がせた怪盗ジョーカーによって、ソフィアが危険な目に遭わされた事件のことだった。
ソフィアを守り切るどころか、敵の策略に嵌まってしまったことは、ギルバート自身も深く悔いている事実である。
「あれは、あんたも不覚を取ってたじゃないか……」
ギルバートは杖を構えながら、たまらず反論した。
実際、あの時はファフニールも、ジョーカーの姿を見失ってしまったはずだ。
「今は貴様の話をしているのだ」
完全に自身の失態を棚上げした、理不尽極まりない暴論であった。
竜の矜持も何もない、ただの逆ギレである。
しかし、ファフニールのその無茶苦茶な言い分の底にある真意を、ギルバートは痛いほどに理解していた。
ソフィアという、世界に二つとない神域の杖を作り出す職人がそばにいる。
それなのに、自分の戦い方は未だに従来の帝国魔導士の枠に収まったままである。
規格外の杖を与えられているにもかかわらず、自身の技量がそれに追いついていないのだ。
ただ強大な炎の魔力を力任せに放出するだけでは、いずれ限界が来る。
ソフィアの職人としての高みに、自分は並び立てていないのではないか。
そんな焦りが、ギルバートの胸の奥で常にくすぶり続けていた。
「貴様は恵まれている。それを自覚しろ」
ファフニールが、地を這うような低い声で告げる。
「分かっているさ」
「いいや、何も分かっていないっ」
ファフニールの周囲に、空間を歪めるほどの圧倒的な魔力が渦巻き始めた。
それは魔法の訓練などではない、明確な殺意を伴った竜の咆哮であった。
大気が震え、森の木々が恐怖に慄くように葉を揺らす。
閃光と共に、圧縮された魔力の奔流が放たれた。
回避も防御も許さない、絶対的な死の光芒がギルバートを飲み込む。
結界の内部が真っ白に染まり、大地が抉れ飛ぶ轟音が鼓膜を破らんばかりに響き渡った。
土煙が晴れた後、そこには片膝をついて荒い息を吐くギルバートの姿があった。
軍服は所々が焼け焦げ、頬からは一筋の血が流れている。
しかし、彼は致命傷を免れ、確かに生きていた。
彼の手にある一本の杖が、ファフニールの魔力を間一髪で相殺したからである。
それは以前、ソフィアが彼のために懸命に作ってくれた予備のサブ杖であった。
彼女の優しい魔力が込められたその杖は、持ち主の危機に呼応し、ギルバートの炎を最適化して防壁へと変換したのだ。
「フィー」
ギルバートは杖を強く握りしめ、その温かな感触に愛しい少女の姿を重ねる。
どんな時でも彼を信じ、笑いかけてくれる彼女の存在が、折れそうな心を繋ぎ止めていた。
「あの子の作る杖は、ただの触媒にあらず。持ち主に奇跡をもたらす。ガンダールヴルの弟子であり、ソフィアの杖を持つ者が、この程度で満足してどうする」
(ほんとに、その通りだ……)
ギルバートは、見ている。ソフィアの側で。彼女の起こす奇跡の数々を。
その子が誰よりも強い気持ちを込めて作った杖を、恐れ多くも、ギルバートはもらった。
だというのに、自分は、何も成し遂げていない。
彼女のくれた奇跡に、釣り合うだけの奇跡を、なにも。
「余を殺せるくらいに強くなれ。でなければ、あの子のそばにいることを、この余が絶対に許さんぞっ」
小柄な竜の瞳に、底知れぬ凄みが宿っている。
それは、理不尽極まりない宣告だった。
ファフニールはソフィアの親でもなければ、ましてや師匠でもない。
単なる居候であり、言っていることもやっていることも完全に無茶苦茶である。
だが、ソフィアに見合う男になれていないというのは、紛れもない事実だった。
かつてギルバートを鍛え上げたのは、帝国の伝説的な魔法使いである光の賢者ガンダールヴルであった。
彼も厳しい訓練を課す男であったが、ファフニールのそれはもはや理不尽の領域に達している。
それでも、ギルバートはその理不尽を受け入れる覚悟を決めた。
「やってやる。俺は、フィーの隣に立つ男だ」
ギルバートは折れかけた膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。
手の中にある杖から、ソフィアの優しい魔力が流れ込んでくるようだった。
ギルバートは杖を振りかざし、渾身の魔力を込めた。
杖の先端から、灼熱の業火が渦を巻いて放たれる。
周囲の空気を焼き尽くし、森の一部を灰に変えるほどの巨大な火球がファフニールへと襲いかかった。
帝国軍の魔導士たちが見れば、その圧倒的な火力に喝采を送るであろう一撃である。
しかし、ファフニールは退屈そうにあくびを一つすると、素手でその火球を弾き飛ばした。
軌道を逸らされた業火は結界に激突し、虚しく霧散していく。
「馬鹿の一つ覚えのように魔力を垂れ流しおって。貴様は杖の声を聞いておらん。ソフィアがどれほど精緻に魔力回路を調整したと思っている。彼女が作り上げた道筋を無視して、ただ力任せに魔力をねじ込んでいるだけではないかっ」
痛烈なダメ出しと共に、見えない一撃がギルバートの腹部を抉る。
胃液を吐き出しそうになるのを堪えながら、ギルバートは後退した。
杖の声を聞く。
ソフィアはいつも、素材と対話するように杖を作り上げていた。
ただの道具としてではなく、生きている相棒のように優しく撫で、その波長を読み取っていた。
ギルバートは目を閉じ、手の中のサブ杖に意識を集中させる。
荒れ狂う自身の炎を無理矢理抑え込むのではなく、杖の内部に張り巡らされた微細な回路へと丁寧に流し込んでいく。
ソフィアの白く細い指先が、この木材を削り、磨き上げていた光景を思い描いた。
魔力が最適化され、無駄な熱波が消え失せる。
巨大な火球ではなく、極限まで圧縮された一条の炎の槍が杖の先端に形成された。
「おおおっ」
ギルバートが咆哮と共に放った炎の槍は、空間を焼き切りながらファフニールへと迫る。
先ほどの力任せの火球とは比べ物にならない、鋭く研ぎ澄まされた一撃であった。
ファフニールの目が見開き、彼女は素手で弾くのをやめて防御結界を展開した。
甲高い金属音のような音が響き、炎の槍が結界を削り取る。
完全に貫くことはできなかったが、ファフニールの結界に確かなヒビを入れることに成功していた。
「ほう。ほんの少しは、頭を使えるようになったようだな。だが、遅すぎる。実戦であれば、貴様はすでに三度は死んでいるぞ」
言葉とは裏腹に、ファフニールの口角はわずかに上がっていた。
しかし、その直後に放たれた竜の魔力は、先ほどよりもさらに苛烈さを増している。
ギルバートは再び吹き飛ばされ、泥にまみれながらも必死に立ち上がる。
全身の骨が軋み、魔力は底を尽きかけていた。
それでも、心の中に灯る愛する少女のための炎だけは、決して消えることはない。
絶対的な力を持つ理不尽な魔竜との、終わりの見えない死闘。
ソフィアの隣に立つに相応しい男となるため、ギルバートは血に染まった手で杖を握り直し、再び絶望的な高みへと挑みかかっていった。
【おしらせ】
※5/6(水)
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