89.義母の甘やかし
ひとしきり涙を流して満足したエスメラルダは、先ほどまでの威厳が嘘のように豹変していた。
応接室を満たしていた張り詰めた空気は霧散し、彼女の周囲には、ふんわりとした桃色のオーラが漂っているようにすら見える。
磨き上げられたアンティークのテーブルには、専属メイドであるヨランダが淹れた最高級の紅茶が湯気を立てている。
三段重ねの豪奢なティースタンドには、帝都でも指折りの菓子職人が腕によりをかけた色とりどりの焼き菓子やケーキが並べられていた。
「さあ、ソフィアちゃん。このマカロンも美味しいわよ。わたくしが食べさせてあげるから、あーん、してちょうだいな」
「ありがとうございます、エスメラルダ様」
ソフィアは困惑しつつも、満更ではない様子で照れ笑いを浮かべて小さく口を開けた。
エスメラルダはソフィアを自身の隣の特等席である、ふかふかのベルベットのソファに座らせている。
その態度は、まるで可愛らしい小動物か、お気に入りの着せ替え人形を愛でるかのようであった。
次から次へと甘いお菓子をソフィアの口に運び、優しく頭を撫で、すべすべの頬に自身の頬をすりすりとする。
帝国社交界で恐れられた冷徹な女傑の姿はそこにはなく、ただの孫を甘やかすお婆ちゃん、あるいは娘を溺愛する母親のそれであった。
「本当にかわいいかわいいお嫁さんですこと。お肌もすべすべで、まるで陶器のお人形みたい」
「そ、そんな。照れてしまいます」
上品な甘さが口いっぱいに広がり、ソフィアは幸せそうに目を細めた。
自分を真っ直ぐに肯定し、甘やかしてくれる大人の存在に、彼女の心はすっかり解きほぐされている。
その一方で、ギルバートは完全に蚊帳の外であった。
部屋の隅に置かれた、彼の巨大な体躯にはまったく合わない小さなスツールに追いやられている。
すっかり冷めきった紅茶を一人で啜りながら、信じられないものを見るような目で母と恋人のやり取りを眺めていた。
実の母親がこれほどまでにデレデレになっている姿など、三十年の人生において一度も見たことがない。
彼が知る母は、常に軍人よりも厳しく、些細な礼儀作法のミスすら許さない冷徹な完璧主義者であったはずだ。
自分が幼い頃に少しでも甘えようとすれば、自立心を養えと冷たく突き放された記憶しかない。
それがあの有り様である。
ギルバートは深いため息をつき、スツールの上で小さく身を縮めた。
「ソフィアちゃんは、ご実家はどちらなのですか。よろしければ、わたくしに色々と教えてちょうだいな」
エスメラルダが、優しくソフィアの小さな手を握りしめて尋ねる。
ソフィアは少しだけ目を伏せ、カップの縁を指でなぞりながら、自身の過去についてぽつぽつと語り始めた。
生まれつき魔力が完全にゼロであったこと。
それゆえに辺境の村では無能と蔑まれ、誰からも期待されず、孤独に魔法杖の素材とだけ向き合ってきたこと。
大好きだった祖父が残してくれた工房を、婚約者から一方的に奪われ、婚約破棄を言い渡されたこと。
そして、わずかな道具だけを手にして、あてもないまま一人で帝都に身を寄せたこと。
その言葉の端々には、当時の冷たい雨の記憶や、行き場のない不安と悲しみが微かに滲んでいた。
「まあ、まあ。なんてことでしょう」
話を聞き終えたエスメラルダの瞳から、再び大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
彼女は貴族としての建前も、完璧に施された化粧が崩れることも忘れ、ソフィアの華奢な身体をきつく抱きしめる。
「つらかったのねえ。一人で、よくぞ頑張りましたわ。まあまあ、なんて健気で頑張り屋さんなの」
「ありがとうございます。でも、今はとても幸せですから」
ソフィアも、エスメラルダの温もりに触れて思わずもらい泣きをした。
二人は実の親子のように身を寄せ合い、応接室に静かな嗚咽が響く。
ひとしきり泣いて感情を吐き出した後、エスメラルダはハンカチで鼻をかみ、勢いよく立ち上がった。
「ヨランダ。今すぐ帝都中の一流の仕立て屋を呼びなさい。この子に似合うドレスを、百着ほど見繕わせますわ」
「かしこまりました、エスメラルダ様」
「それから、わたくしの宝石箱も持ってきなさい。あのピンクダイヤモンドのネックレスなんか、ソフィアちゃんの澄んだ瞳によく似合うはずよ」
怒涛のプレゼント攻めが始まろうとしている。
東の帝国から取り寄せた最高級の絹や、南の海で採れた大粒の真珠など、途方もない財産が動く気配に、ソフィアは目を丸くして慌てて両手を振った。
「ええっ。そ、そんなにたくさん、着られませんわ。宝石も、私には高価すぎます」
「遠慮することはありませんわ。かわいいソフィアちゃんのためなら、ヴォルグ家の財産など安いものです」
もはや何が何だか分からない状態である。
エスメラルダの暴走が止まらないのを見かねて、ギルバートが小さなスツールから立ち上がった。
彼は居住まいを正し、恐る恐る口を挟む。
「母上。フィーを気に入ってくれたのは嬉しいが。そこまで言うのなら、俺たちの婚約を正式に認めてくれるか」
その言葉を聞いた瞬間、エスメラルダの表情がスッと冷めた。
先ほどまでのふんわりとした桃色のオーラが、嘘のように完全に消え去る。
再び女傑の冷ややかな空気が場を支配し、室内の温度が物理的に数度下がったように感じられた。
鋭い眼光が、ギルバートを真っ直ぐに射抜く。
「それはダメですね」
「えっ。わ、私に何か、まだ至らない問題が」
空気を察したソフィアが肩を跳ねさせ、不安そうに身を縮めた。
しかし、エスメラルダはすぐに表情を和らげ、優しくソフィアの頭を撫でる。
「いいえ、ソフィアちゃんは完璧ですわ。何一つ問題などありません。問題なのは、あちらの図体ばかり無駄に大きいギル坊です」
「え」
唐突に名指しされ、ギルバートは間の抜けた声を漏らした。
エスメラルダは扇子をピシャリと閉じ、我が子を親の仇のように鋭く睨みつける。
「この子に見合うだけの頑張りが、貴方には圧倒的に足りておりません。日頃の情けない様子は、ヨランダからしっかりと報告を受けておりますわ」
「ヨランダああああああっ」
ギルバートが裏切られた顔で吠えると、背後に控えていたヨランダはすっと明後日の方向へと視線を逸らした。
天井のシャンデリアの装飾を熱心に観察するその態度は、完全に黒であることを示している。
「肝心なところで一歩踏み出せない。休日のデートに行っても手を出さない。いい大人が、まだキス以上のことをしない」
「なっ」
エスメラルダが、扇子でギルバートをビシビシと指差しながら容赦なく糾弾する。
赤裸々な指摘に、ギルバートの顔がみるみるうちに茹でダコのように赤く染まっていった。
「数々のヘタレ所業、聞いていて頭が痛くなりましたわ。こんなのでは、かわいいソフィアちゃんのお婿さんに相応しくありません」
「うっ」
事実を突きつけられ、ギルバートはぐうの音も出ない。
図体ばかり大きくて恋愛に奥手な破壊神の致命的な弱点を、実の母親と専属メイドに完全に握られていた。
「もっと強く、逞しく、そしてソフィアちゃんをグイグイと引っ張っていけるような男になっていただかないと。ということで、先生を呼びましたの」
「先生、だと」
ギルバートの背筋に、冷たい汗が伝う。
母の言うことだ、ろくな相手ではないはずだ。
なんだか、すごく嫌な予感がする。
「知り合いの魔法先生ですわ。お入りなさい」
エスメラルダが声をかけると、応接室の重厚な扉が静かに開いた。
そこから姿を現したのは、傲岸不遜な空気を纏う一人の小柄な女だった。
華奢な体つきに似合わない、空間を歪めるほどの圧倒的な魔力と威圧感を放っている。
「ファフニール。あんたかよっ」
ギルバートは思わず数歩後ずさり、指を差して叫んだ。
そこに立っていたのは、かつて死闘を繰り広げた牙の賢者であり、魔竜ファフニールであった。
「どういう繋がりなんだよ、あんたら」
「わたくしの、家庭教師の先生ですわ。ギル坊の根性を叩き直してもらうよう、特別に大金を積んでお願いしましたの」
エスメラルダが涼しい顔で答える。
竜を金で雇うという大貴族のスケールの大きさに、ソフィアは目をパチパチと瞬かせた。
「家庭教師って。あんた、他に弟子がいるじゃねえか」
ギルバートが必死に抗議する。
しかし、ファフニールは鼻で嗤い、小柄な身体からは想像もつかない尊大な態度でギルバートを見下ろした。
「生徒と弟子は別物だ、馬鹿者め。生徒からは金を得て教えるが、弟子からは金をとらん」
ファフニールはソフィアの方を向き、少しだけその凶悪な表情を和らげた。
「嬢ちゃんには、いつでもタダで教えてやるぞ。素材の見極め方でも、魔力の流し方でもな」
「じゃあ、俺はどうなんだよっ」
「貴様は生徒だ」
ファフニールはにやりと、獲物を見つけた捕食者のような邪悪な笑みを浮かべた。
「たっぷりと親から金を絞り取り、その分、地獄の底までしごいてやる。余の生徒に相応しい男にしてやろう。こい」
「ま、待てっ。フィー、助けてくれええええっ」
ファフニールに首根っこを掴まれ、ズルズルと廊下へ引きずり出されていくギルバート。
大の男が小柄な少女に引きずられるという異様な光景と、その情けない悲鳴が、広い屋敷の中にこだまする。
「あ、あの。ファフニール様。ギルさんをいじめないでほしいです」
「わかっておるよ。なぁに、かるぅく撫でてやるだけだ」
「あ、そうなんですね。良かったぁ。ギルさんがんばですっ」
ソフィアは素直すぎるため、言葉のままに受け止めて朗らかにエールを送った。
しかし竜の軽くは、人間の限界を優に超えており全然軽くないことを、ギルバートは身をもって理解していた。
「日頃の鬱憤も溜まってることだしな。余のソフィアを独占しよって」
「おい私怨入ってるぞあんたああっ」
ギルバートの断末魔のような叫びが、遠ざかっていく。
残されたソフィアは、最高級の美味しい紅茶を一口飲み、えへへと微笑みながら、手を振って恋人を見送るのだった。




