古い燻製小屋には、冬を越す答えが残っていた
北の燻製小屋は、灰嶺砦から半刻ほど離れた沢沿いにあった。
昔は猟師が使っていたという。今は屋根の半分が雪に沈み、扉には獣の爪痕が残っていた。敵の斥候が森に潜んでいる以上、ただの倉庫探しではない。エルセは護衛を四人つけた。
「給糧官殿が塩壺を口説きに行くとはな」
副官が皮肉を言う。
「塩壺は返事をしませんが、裏切りもしません」
「商人より信用できる」
「保存状態次第です」
リオネルは背負い袋を締め直した。中には空の布袋、記録板、小さな匙。剣ではない。だが今日必要なのは、敵を倒す道具ではなく、見つけたものを正しく数える道具だった。
森の中は静かだった。静かすぎる。鳥の声がない。沢の水音だけが細く続いている。護衛の一人が弓を構え、もう一人が足跡を見た。
「人の跡があります」
雪に浅いくぼみが残っていた。三日前のものではない。今朝か昨夜。敵か、猟師か、逃げた民か。リオネルは足跡の横に落ちていた小さな皮を拾った。
「乾燥豆の皮です」
副官が顔をしかめる。
「敵か」
「かもしれません。少なくとも、食料を持った者がここに来ています」
燻製小屋の扉を開けると、冷えた煙の匂いが残っていた。古い肉の匂いではない。木の匂いだ。壁には黒ずんだ梁があり、天井から錆びた鉤が下がっている。
そして奥の棚に、塩壺が三つあった。
「あったぞ」
護衛が喜びかける。リオネルは手で制した。
「まだ喜ばないでください」
壺の蓋を開ける。上の塩は固まっていた。匙で削ると、内側は白い。湿気は入っているが、使える。二つ目も同じ。三つ目は底に泥が混じっていた。
「二壺半」
「半?」
「三つ目は洗い物用に回します。食用にはしません」
副官が呆れたように笑った。
「そこまで分けるのか」
「腹に入るものと、鍋を洗うものは違います」
リオネルは壺の周囲を見た。棚の下に、古い木箱がある。中には燻製用の硬い木片、乾いた香草、そして薄い鉄板が入っていた。
「これは使えます」
「鉄板?」
「パンを焼き直すのにいい。鍋底を焦がさず、薄く熱を通せます」
グレオが見たら喜ぶだろう。いや、喜ぶ前に文句を言う。その顔を想像して、リオネルは少し笑った。
そのとき、外で短い笛の音がした。
護衛が弓を構える。
「敵です」
小屋の隙間から見ると、森の奥に二人の影があった。敵兵だ。だが鎧は着ていない。偵察か、食料探しか。片方は肩を押さえている。負傷しているように見えた。
副官が剣を抜く。
「捕らえる」
「待ってください」
「また待つのか」
「相手は二人。こちらの荷は塩です。戦えば壺が割れる」
「壺の心配か」
「砦の心配です」
敵兵の一人が小屋へ近づいた。手には短剣ではなく、布袋を持っている。食料を探している。リオネルは壺の蓋を閉めた。
「声をかけます」
副官が目を剥いた。
「正気か」
「敵の腹も限界です。ここで斬れば、森の奥の本隊は『砦は食料を持っている』と知る。逃がしても危険。なら、情報を取ります」
リオネルは小屋の入口から出た。護衛の弓が背後で引き絞られる。
「その袋に入れるものは、ここにはありません」
敵兵が凍りついた。若い。頬がこけ、唇が割れている。
「砦の者か」
「給糧官です」
「給糧官が森で何をしている」
「あなたと同じです。食えるものを探している」
敵兵の目が揺れた。
リオネルは続けた。
「本隊は何日分残っていますか」
「言うわけがない」
「では質問を変えます。今朝、温かいものを食べましたか」
敵兵は答えなかった。答えないことが答えだった。
もう一人の負傷兵が咳き込む。肩の布が赤く染まっている。放っておけば死ぬ。捕らえれば食料を使う。斬れば情報を失う。
リオネルは背負い袋から、昨日の硬い麦団子を一つ出した。
「これを渡します。代わりに、森の奥の煙の数を教えてください」
副官が低く唸る。
「敵に食わせるのか」
「情報を買います。商人より安い」
若い敵兵は迷った。誇りと空腹が顔の中で争っていた。最後に、彼は麦団子を受け取った。
「煙は三つ。大鍋は一つだけ。明日までに攻めろと命令が出ている」
「指揮官は」
「食料が尽きる前に砦を落とすつもりだ」
リオネルは頷いた。
「負傷者を連れて南の沢へ下りてください。そこなら風下です。こちらは追いません」
「なぜ」
「あなたたちをここで倒すより、砦へ塩を持ち帰るほうが勝ちに近い」
敵兵は何か言いかけ、やめた。二人は森の奥ではなく、沢のほうへ消えた。
副官は剣を収めなかった。
「甘い」
「かもしれません」
「だが、煙三つは価値がある」
「はい。そして明日、敵は来ます」
塩壺を背負って砦へ戻る道で、リオネルは何度も後ろを見た。敵を助けたのではない。砦を守るために、麦団子一つで情報を買った。それでも胸の奥に、重いものが残る。
戦場では、食べさせる相手を選ぶこともある。
その選択が、いちばん胃に悪かった。
砦へ戻ると、グレオは塩壺を見るなり目を細めた。
「二壺半か」
「三つ目は洗い物用です」
「食わせるなと言う前に言われた」
「言われると思いました」
グレオは鼻を鳴らし、それでも大事そうに壺を受け取った。塩はただの調味料ではない。保存、回復、汗をかいた兵の体、傷口を洗う湯。砦の中でいくつもの役目を持つ。
リオネルは燻製小屋で敵兵へ麦団子を渡したことを、エルセへ報告した。隠せば、あとで必ず歪む。
副官は予想どおり怒った。
「敵に食料を渡すなど」
「情報を得ました」
「それでもだ」
エルセは黙って聞いていた。最後に、リオネルへ尋ねる。
「同じ状況なら、また渡すか」
リオネルはすぐには答えられなかった。正しいと胸を張れるほど軽い選択ではない。だが、あの情報がなければ明日の襲撃に備えられない。
「渡します。ただし、一つだけ」
「二つではなく?」
「二つ渡せば、こちらの夜番一人分を削ります」
エルセは頷いた。
「線を引いているならいい」
副官はまだ不満そうだったが、黙った。
その夜、リオネルは眠れなかった。敵兵の割れた唇が目に残る。自分が守るべきなのは灰嶺砦だ。それは揺るがない。それでも、食べ物を渡された瞬間の敵兵の目を忘れることはできない。
給糧官は、人の弱さを見すぎる。
空腹は、敵味方の旗を剥がしてしまう。
だからこそ、線を引く手が必要だった。優しさだけでも、冷たさだけでも、砦は守れない。




