敵の大鍋を空にすれば、突撃は止まる
燻製小屋から戻ると、灰嶺砦はすぐに防衛準備へ入った。
敵の煙は三つ。大鍋は一つ。明日までに攻める。麦団子一つで買った情報は、剣一本より重かった。
エルセは広間の机に地図を広げた。地図と言っても、王都製の立派なものではない。兵が歩いた道、見張りが見た森、猟師が知る沢を、煤で書き足した現場の地図だ。
「敵は正面から来るか」
副官が言う。
「食料が尽きるなら、早く門を破りたいはずです」
リオネルは地図の森側を指した。
「ですが、腹が減っている部隊ほど、火のそばから離れにくい。大鍋が一つなら、食事の時刻に兵が集まります」
エルセの目が鋭くなる。
「敵の飯時を狙うのか」
「突撃を止めるなら、剣より先に鍋です」
副官が顔をしかめた。
「敵の大鍋を奪う?」
「奪えません。遠いし危険です。空にします」
「どうやって」
リオネルは、燻製小屋から持ち帰った湿った塩を机に置いた。食用には向かない三つ目の壺だ。
「沢の水を使います。敵の野営地の上流に、古い獣道があります。そこへ湿った塩を少量流す。飲めないほどではありません。でも、豆や粥を煮るには味が狂う」
広間が静まった。
「毒ではないのか」
エルセが低く問う。
「毒ではありません。塩です。濃すぎる湯では、豆が戻りにくい。粥も食べにくい。敵の食事が遅れます」
「戦ではある」
「はい」
リオネルはその言葉を否定しなかった。腹を守る仕事は、優しいだけではない。こちらの兵を食わせるために、敵の食事を遅らせる。それは剣で斬るより静かで、だからこそ重い。
エルセはしばらく考えた。
「殺さない。だが、止める」
「それが目的です」
「やろう」
夜、少人数の斥候隊が沢へ向かった。リオネルも同行した。副官は最後まで反対したが、塩の量を決められる者が必要だという理由で押し切った。
森は黒く、雪は足音を吸った。遠くに敵の火が三つ見える。煙は細い。食料の少ない火だ。大鍋のある場所だけ、火が少し大きかった。
沢の上流で、リオネルは湿った塩を布に包み、水へ少しずつ溶かした。
「もっと入れれば効く」
副官が囁く。
「入れすぎれば、水を捨てられます。気づかれない程度に」
「面倒な戦い方だ」
「食事はいつも面倒です」
塩が水に消えていく。白い粒が見えなくなるたびに、リオネルの胸が重くなった。敵兵の中にも、あの若い斥候のように腹を空かせた者がいる。だが彼らが砦へ突撃すれば、北壁の兵が死ぬ。
選ぶしかない。
翌朝、敵の野営地で混乱が起きた。
見張り塔から、兵が報告する。
「敵の炊事場で揉めています! 鍋をひっくり返したようです!」
リオネルは城壁の上から煙を見た。大鍋の火が消えかけている。食事が遅れた。腹を満たせないまま突撃すれば、足並みは崩れる。
エルセが剣を抜いた。
「来るぞ。だが、昨日より遅い」
敵は昼前に攻めてきた。
昨日より数は多い。けれど足が鈍い。盾の列が乱れ、梯子を運ぶ兵が途中で膝をつく。腹が空いているのだ。怒りで動いているが、怒りは長く燃えない。
灰嶺砦の兵には、朝の濃い麦粥を出していた。獣脂を少し落とし、塩をきちんと効かせ、乾燥野菜で嵩を増した。豪華ではない。だが、槍を持つ腕に力を戻すには足りた。
「押し返せ!」
エルセの号令で、城壁の兵が一斉に盾を突き出す。敵の梯子が一本、二本と落ちた。突撃は長く続かなかった。大鍋を失った敵の勢いは、空の椀のように軽かった。
昼過ぎ、敵は森へ引いた。
勝利の歓声は小さかった。砦の兵も消耗している。リオネルは厨房へ戻り、残った粥を数えた。勝っても、明日の食事は必要だ。
エルセが遅れて入ってきた。
「敵の大鍋を空にしたな」
「完全には」
「十分だ」
彼女はリオネルの手元を見た。湿った塩壺は空に近い。
「辛い顔をしている」
「敵も人間です」
「そうだ。だから、こちらの人間を守る」
リオネルは頷いた。
給糧官の戦は、誰かを飢えさせるためにあるのではない。
自分の守るべき人を、明日も食卓へ戻すためにある。
それでも、鍋を空にする作戦の味は、しばらく舌に残った。
作戦のあと、リオネルは自分にも同じ麦粥をよそった。味がしなかった。塩は足りている。脂も悪くない。けれど、喉を通るたびに、沢へ溶けていった湿った塩の白さを思い出す。
グレオが隣に立った。
「食え」
「食べています」
「味がしない顔だ」
「敵の鍋を駄目にしました」
「敵はこっちの城壁を駄目にしようとした」
「それはそうですが」
老炊事兵は椀を手に取り、リオネルの前に置き直した。
「飯を扱う奴は、きれいな仕事だけできると思うな。焦げも出る。灰も出る。だが鍋を捨てなければ、次の飯は作れる」
慰めにしては乱暴だった。けれど、リオネルには少し効いた。
エルセも厨房へ来た。鎧に傷が増えている。彼女は椀を受け取り、リオネルの向かいに座った。
「今日、北壁で死者は出なかった」
「はい」
「それを数えろ。敵の鍋だけを数えるな」
リオネルは倉庫表の端に、今日の損耗を書いた。麦、豆、脂、塩。そして、その横に小さく書く。
死者なし。
その四文字は、どんな食材より重かった。
戦場で正しい選択だけを拾うことはできない。だが、守れた命を見失えば、次の選択もできなくなる。
リオネルは冷めかけた粥を飲み干した。
味はまだ薄かった。
それでも、腹には落ちた。
夕刻、見張りから報告が入った。敵の野営地では、鍋の周りに立つ兵が減っているという。食事が遅れただけではなく、指揮官への不満も広がっているらしい。
「次は降伏してくるか」
副官が言った。
「わかりません。ただ、空腹は命令を弱くします」
「こちらの命令もか」
「はい」
リオネルは即答した。副官は驚いた顔をする。
「だからこちらも食わせ続けます。敵の大鍋を空にしても、こちらの鍋を空にしたら同じです」
勝った直後ほど、兵は余分に食べたがる。指揮官も褒美を出したがる。だが明日の朝、空の鍋を見せれば、今日の勝利はすぐ冷える。リオネルは祝いの配給を増やさず、代わりに夜番の湯を少し香り高くした。
「勝った気がしませんね」
ミロが言う。
「勝ったから、明日の分を残せます」
その答えに、ミロはまだ納得しきれない顔をした。若い腹は、勝利をすぐ味に変えたがる。リオネルも王宮にいた頃なら、きっと同じだった。
だが今は知っている。
勝利は、鍋の底に残す分にも宿る。




