王太子の軍旗は、空腹を隠せない
三度目の敵襲は来なかった。
代わりに、南街道から王都軍の旗が見えた。金糸で縁取られた白い旗。王太子直属の近衛補給隊だ。補給隊という名だが、荷車は少ない。騎馬と飾り鎧が多い。遠目にも、食料より威厳を運んできた一団だとわかった。
エルセは城門を開けさせたが、歓迎の楽隊など出さなかった。そんな余裕はない。厨房では、昼の煮込みが静かに湯気を上げている。
先頭の騎士が門をくぐり、鼻を鳴らした。
「灰嶺砦は、敵襲を口実に備蓄を抱え込んでいると聞いた」
王都から来た監察騎士、名はダリオ。王太子の側近の一人だ。リオネルを追放した祝宴にもいた。焼き菓子を食べながら笑っていた顔を、リオネルは覚えている。
「久しいな、豆の給糧官」
ダリオは馬上から見下ろした。
「まだ鍋を覗いているのか」
「はい。今日は煮込みです」
兵の何人かが口元を押さえた。笑いをこらえている。ダリオは気づかない。
「王太子殿下の命により、備蓄を検査する。余剰はすべて回収し、王都軍本隊へ送る」
エルセが前に出る。
「灰嶺砦は交戦中だ。余剰はない」
「判断するのはこちらだ」
ダリオは荷車を見せるように手を振った。空の荷車だった。つまり、最初から持って帰るつもりで来ている。
リオネルはその荷車の車軸を見た。油が足りない。馬の腹も少し細い。王都軍本隊も、思ったほど余裕がないのだ。
「監察騎士殿、王都軍本隊の食料は何日分ですか」
ダリオの眉が跳ねる。
「貴様に答える義務はない」
「では、こちらも余剰を出す義務はありません」
「追放者が」
「追放者でも、空の荷車は見えます」
空気が張り詰めた。ダリオの従者たちが手を剣にかける。灰嶺砦の兵も動いた。だが、エルセが片手を上げると、砦側は止まった。
「検査は受ける。ただし、倉庫を見る前に食事を取れ」
ダリオが鼻で笑った。
「施しはいらん」
「施しではない。検査官が空腹で数字を誤ると困る」
リオネルはそう言い、厨房へ合図した。
出したのは、兵と同じ煮込みだった。塩漬け魚、乾燥野菜、麦団子。王都の食卓に比べれば粗末だ。だが、湯気は立っている。脂の香りもある。
ダリオの従者の一人が、思わず椀を見た。目が腹を裏切っている。リオネルは見逃さなかった。
「近衛補給隊は、朝食を取りましたか」
従者は答えない。ダリオが睨んだからだ。
「王都軍は十分な備えがある」
「なら、その馬の飼葉袋が空に近い理由は?」
ダリオの顔が赤くなる。
エルセが静かに言った。
「本隊も補給が苦しいのだな」
「黙れ」
「ならば、なおさら灰嶺砦の備蓄は渡せない。ここが落ちれば、北道の補給線は切れる」
リオネルは机に倉庫表を広げた。塩、脂、乾燥野菜、麦、負傷兵用の粥配分、夜番追加食。すべてを見せる。隠せるほど余裕はない。だが、隠していないことが強みになる。
「余剰ではなく、用途別備蓄です」
ダリオは表を見たが、理解する気はなさそうだった。
「数字遊びだ」
「では、実地で見ますか。夜番を半食に戻せば、何人が倒れるか」
広間にいた兵たちの目が、ダリオへ向いた。静かな圧だった。
ダリオはようやく気づいたらしい。この砦では、リオネルの鍋がただの飯ではないことに。
「王都へ報告する」
「お願いします」
「貴様が軍務に口を出していることもな」
「給糧は軍務です」
リオネルがそう答えると、エルセが続けた。
「灰嶺砦ではな」
ダリオは椀に手をつけず、広間を出た。だが従者の一人だけが、置かれた煮込みを一口すすった。すぐに顔を伏せたが、リオネルには見えた。
空腹は、軍旗では隠せない。
王都軍が去ったあと、エルセは深く息を吐いた。
「あれで済むと思うか」
「思いません」
「王太子は面子を潰された」
「そして本隊の補給も苦しい」
リオネルは倉庫表へ新しい線を引いた。敵、王都軍、灰嶺砦。三つの腹が同じ北辺でぶつかっている。
「次は、王都軍がこちらの食料を頼る番かもしれません」
「腹立たしい予言だ」
「当たらないようにしたいです」
だが、外では王都軍の馬が力なく鼻を鳴らしていた。
リオネルには、その音が空腹の合図に聞こえた。
王都軍が去ったあと、灰嶺砦の兵たちは妙に静かだった。敵を退けたときよりも、王都の旗を見送ったあとのほうが疲れた顔をしている。外の敵より、味方のはずの旗に食料を奪われかけたことのほうが、腹の底を冷やしたのだ。
リオネルは夕食の配給を少しだけ変えた。量は増やせない。だが、椀を渡す順番を変えた。北壁、医療室、雑役、そして厨房。いつも通りの順番を崩さない。
「今日は全員に同じものを出します」
グレオが眉を上げた。
「任務別ではないのか」
「今日は、砦が割れていないことを見せる日です」
兵たちは同じ煮込みを受け取り、同じ香りを嗅いだ。濃くはない。だが、誰かだけが特別に良いものを食べているわけではない。その事実が、王都軍の旗で揺れた心を少し戻した。
エルセも同じ椀を持って兵の前に立った。
「灰嶺砦の食事は、王都の飾りでは決まらない。ここで立つ者のために使う」
短い言葉だった。兵たちは大きく歓声を上げたりはしない。ただ椀を掲げた。
リオネルはその光景を見て、王宮の祝宴を思い出した。銀の盆、焼き菓子、笑い声。あの場所には同じ食卓があっても、同じ腹はなかった。
ここには粗末な鍋しかない。
けれど、同じ方向を向く椀がある。
それは軍旗よりも、ずっと強い印に見えた。
夜半、王都軍の従者が一人、門番を通じて小さな袋を返してきた。中には、昼に出した椀へ手をつけなかったダリオの分の黒パンが入っていた。食べ残しというより、誰かがこっそり持ち出したものらしい。
「返す理由は」
門番が尋ねると、従者は恥じるように言ったという。
「あの煮込みを一口も食べなかった主人の横で、自分だけ腹に入れた。せめて、これは砦の兵へ戻したい」
リオネルは袋のパンを見た。硬く、冷えている。けれど食べられる。
「明日のパン粥に混ぜます」
エルセが眉を上げる。
「王都軍の食べ残しか」
「食べ残しではありません。戻ってきた食料です」
ものの呼び方一つで、兵の受け取り方は変わる。リオネルは袋へ小さく印をつけ、通常の材料とは分けた。誰の腹を通り、誰の手で戻ったのか。それもまた、補給線の一部だった。




