砦の食卓には、敵味方を分ける線がある
王都軍が去った日の夜、森から白布を掲げた兵が現れた。
敵の使者だった。武器は持っていない。肩を貸されて歩く者が二人。背後には、痩せた兵が数名いる。攻撃ではない。降伏でもない。彼らは城門の前で膝をついた。
「負傷者を置いていきたい」
副官が剣を抜きかけた。
「罠か」
敵の使者は首を横に振った。
「罠を仕掛ける食料もない。負傷者を連れて森へ戻れば死ぬ。砦に置けば、捕虜として生きるかもしれない」
城壁の上に沈黙が落ちた。
エルセはリオネルを見た。
「食わせられるか」
もっとも正しい問いだった。情けをかけられるか、ではない。食わせられるか。食わせられない慈悲は、結局どこかで嘘になる。
リオネルは頭の中で倉庫表をめくった。麦、豆、脂、塩、乾燥野菜。負傷兵用の粥。夜番の追加食。王都軍への対応で消耗した分。捕虜が増えれば、こちらの兵の椀が薄くなる。
「三人までなら」
敵の使者が顔を上げた。
「五人いる」
「三人です。重傷者を優先してください」
副官が低く言った。
「冷たいな」
「全員入れて全員飢えるよりは」
リオネルの声は、自分でも嫌になるほど平らだった。だがここで揺れれば、砦の食卓は壊れる。
敵の使者は歯を食いしばり、二人を選んだ。残りの負傷者は、仲間に抱えられて森へ戻る。白布が夜の中へ消えていくのを、リオネルは最後まで見た。
医療室に運ばれた敵兵は、若かった。一人は熱を出し、もう一人は脚に深い傷がある。彼らは椀を見ても手を伸ばさなかった。
「毒ではありません」
リオネルが言うと、熱のある兵がかすれた声で笑った。
「敵の飯を食うほど落ちたか」
「食わないと、もっと落ちます」
「なぜ助ける」
「砦将が捕虜として受け入れたからです。捕虜は食わせます」
兵は目を閉じた。誇りと空腹と熱が、彼の中で戦っている。リオネルは椀を小さくした。敵兵に兵と同じ量を出せば、こちらの兵が不満を抱く。少なすぎれば死ぬ。線を引く必要がある。
「捕虜粥は、負傷兵粥より薄くします」
グレオが厨房で言った。
「いいのか」
「同じにはできません。でも、水だけにもできません」
「嫌な線だな」
「はい」
リオネルは否定しなかった。
砦の食卓には、敵味方を分ける線がある。だが、その線の向こうにも人間の胃袋がある。見ないふりをすれば楽だ。けれど見ないふりをした食事は、いつかこちら側の人間性も削る。
翌朝、捕虜の一人が少しだけ粥を食べた。
「塩が薄い」
彼は弱々しく文句を言った。
「捕虜用です」
「まずい」
「生きる味です」
そのやり取りを聞いていた灰嶺砦の兵が、複雑な顔で笑った。
昼、敵軍から矢文が届いた。
捕虜を返せ、という要求ではなかった。
「負傷者への処置に感謝する。明日、停戦交渉を望む」
副官が疑う。
「罠だ」
エルセも簡単には信じない。
「だが、敵も限界だ」
リオネルは矢文を見た。敵の筆跡は荒れている。手が震えていたのだろう。空腹か、寒さか、疲労か。
「交渉には食事を出します」
副官が呆れた顔をする。
「また飯か」
「交渉相手が空腹だと、条件より恨みが先に出ます」
エルセは少し考え、頷いた。
「何を出す」
「同じ鍋から、量を変えて」
「敵にもか」
「はい。ただし、砦の兵を先に」
順番は重要だった。味方を後回しにすれば、信頼が崩れる。敵を飢えさせれば、交渉が壊れる。食卓の線を、間違えずに引かなければならない。
夜、リオネルは鍋の前で長く立っていた。
誰にどれだけ出すか。
その判断は、剣を振るうより静かで、剣を振るうより難しい。
明日の交渉は、湯気の上で始まる。
その夜、リオネルは捕虜用の配給表を何度も書き直した。薄くすれば命が危ない。濃くすれば味方の不満が出る。見張りを増やせば人手を食う。減らせば危険が増す。
食事は腹に入る前から、もう政治だった。
医療係が隣に座った。
「捕虜の熱は下がり始めています」
「粥は足りましたか」
「少し残しました」
「明日は量を減らして回数を増やします」
医療係は頷き、それから小さく言った。
「敵でも、治っていくのを見ると安心します」
「その安心を、兵の前で言うのは難しいですね」
「はい」
二人はしばらく黙った。厨房の火だけが音を立てる。
リオネルは捕虜の顔を思い浮かべた。文句を言いながら粥を飲んだ若い兵。彼が回復すれば、また敵として城壁に立つかもしれない。それでも今、捕虜として預かった以上、死なせない。そこに線がある。
エルセがあとから来て、表を見た。
「迷っているな」
「はい」
「迷った線は、明日見直せ。迷わず引いた線ほど危ない」
リオネルは顔を上げた。
「砦将らしくない言葉ですね」
「失礼だな」
エルセは少し笑った。
「戦場で迷わない者は、部下の腹も見ない。私はそういう指揮官を何人も見た」
リオネルは表の端に小さく書いた。
毎朝見直し。
線は一度引けば終わりではない。人が食べ、人が傷つき、人が戻るたびに引き直すものだ。
その手間を惜しまないことが、砦の食卓を守るのだと思った。
翌朝、捕虜の若い兵は少しだけ熱が下がった。彼は椀を受け取る前に、リオネルを睨む。
「昨日より少ない」
「回数を増やします」
「子供扱いか」
「胃の扱いです」
敵兵は不満そうにしながらも、粥を口にした。隣の医療係が小さく頷く。飲み込む力は戻っている。
その様子を見ていた灰嶺砦の兵が、リオネルへ近づいた。
「給糧官殿、あいつらを治して、また敵に戻すんですか」
当然の問いだった。リオネルは逃げずに答える。
「捕虜交換になれば戻します。休戦が続けば、そのまま証人になるかもしれません。どちらにしても、預かった命はここで殺しません」
「俺たちの飯で」
「あなたたちの飯を削りすぎない線で」
兵は黙った。納得したわけではないだろう。それでも、説明を受けた者の沈黙だった。
リオネルはその背中を見送りながら思った。食卓の線は、腹だけでなく心にも引かれる。薄く引けば不安になり、濃く引けば憎しみになる。ちょうどよい線など、最初から存在しない。毎日、間違いかけながら直すしかない。
昼、捕虜の兵は粥を残さなかった。灰嶺砦の兵はそれを見て、複雑な顔をした。怒りもある。安堵もある。リオネルはどちらも否定しなかった。
人を食わせる仕事は、人を簡単に分類させてくれない。




