表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/15

砦の食卓には、敵味方を分ける線がある

王都軍が去った日の夜、森から白布を掲げた兵が現れた。


 敵の使者だった。武器は持っていない。肩を貸されて歩く者が二人。背後には、痩せた兵が数名いる。攻撃ではない。降伏でもない。彼らは城門の前で膝をついた。


「負傷者を置いていきたい」


 副官が剣を抜きかけた。


「罠か」


 敵の使者は首を横に振った。


「罠を仕掛ける食料もない。負傷者を連れて森へ戻れば死ぬ。砦に置けば、捕虜として生きるかもしれない」


 城壁の上に沈黙が落ちた。


 エルセはリオネルを見た。


「食わせられるか」


 もっとも正しい問いだった。情けをかけられるか、ではない。食わせられるか。食わせられない慈悲は、結局どこかで嘘になる。


 リオネルは頭の中で倉庫表をめくった。麦、豆、脂、塩、乾燥野菜。負傷兵用の粥。夜番の追加食。王都軍への対応で消耗した分。捕虜が増えれば、こちらの兵の椀が薄くなる。


「三人までなら」


 敵の使者が顔を上げた。


「五人いる」


「三人です。重傷者を優先してください」


 副官が低く言った。


「冷たいな」


「全員入れて全員飢えるよりは」


 リオネルの声は、自分でも嫌になるほど平らだった。だがここで揺れれば、砦の食卓は壊れる。


 敵の使者は歯を食いしばり、二人を選んだ。残りの負傷者は、仲間に抱えられて森へ戻る。白布が夜の中へ消えていくのを、リオネルは最後まで見た。


 医療室に運ばれた敵兵は、若かった。一人は熱を出し、もう一人は脚に深い傷がある。彼らは椀を見ても手を伸ばさなかった。


「毒ではありません」


 リオネルが言うと、熱のある兵がかすれた声で笑った。


「敵の飯を食うほど落ちたか」


「食わないと、もっと落ちます」


「なぜ助ける」


「砦将が捕虜として受け入れたからです。捕虜は食わせます」


 兵は目を閉じた。誇りと空腹と熱が、彼の中で戦っている。リオネルは椀を小さくした。敵兵に兵と同じ量を出せば、こちらの兵が不満を抱く。少なすぎれば死ぬ。線を引く必要がある。


「捕虜粥は、負傷兵粥より薄くします」


 グレオが厨房で言った。


「いいのか」


「同じにはできません。でも、水だけにもできません」


「嫌な線だな」


「はい」


 リオネルは否定しなかった。


 砦の食卓には、敵味方を分ける線がある。だが、その線の向こうにも人間の胃袋がある。見ないふりをすれば楽だ。けれど見ないふりをした食事は、いつかこちら側の人間性も削る。


 翌朝、捕虜の一人が少しだけ粥を食べた。


「塩が薄い」


 彼は弱々しく文句を言った。


「捕虜用です」


「まずい」


「生きる味です」


 そのやり取りを聞いていた灰嶺砦の兵が、複雑な顔で笑った。


 昼、敵軍から矢文が届いた。


 捕虜を返せ、という要求ではなかった。


「負傷者への処置に感謝する。明日、停戦交渉を望む」


 副官が疑う。


「罠だ」


 エルセも簡単には信じない。


「だが、敵も限界だ」


 リオネルは矢文を見た。敵の筆跡は荒れている。手が震えていたのだろう。空腹か、寒さか、疲労か。


「交渉には食事を出します」


 副官が呆れた顔をする。


「また飯か」


「交渉相手が空腹だと、条件より恨みが先に出ます」


 エルセは少し考え、頷いた。


「何を出す」


「同じ鍋から、量を変えて」


「敵にもか」


「はい。ただし、砦の兵を先に」


 順番は重要だった。味方を後回しにすれば、信頼が崩れる。敵を飢えさせれば、交渉が壊れる。食卓の線を、間違えずに引かなければならない。


 夜、リオネルは鍋の前で長く立っていた。


 誰にどれだけ出すか。


 その判断は、剣を振るうより静かで、剣を振るうより難しい。


 明日の交渉は、湯気の上で始まる。


 その夜、リオネルは捕虜用の配給表を何度も書き直した。薄くすれば命が危ない。濃くすれば味方の不満が出る。見張りを増やせば人手を食う。減らせば危険が増す。


 食事は腹に入る前から、もう政治だった。


 医療係が隣に座った。


「捕虜の熱は下がり始めています」


「粥は足りましたか」


「少し残しました」


「明日は量を減らして回数を増やします」


 医療係は頷き、それから小さく言った。


「敵でも、治っていくのを見ると安心します」


「その安心を、兵の前で言うのは難しいですね」


「はい」


 二人はしばらく黙った。厨房の火だけが音を立てる。


 リオネルは捕虜の顔を思い浮かべた。文句を言いながら粥を飲んだ若い兵。彼が回復すれば、また敵として城壁に立つかもしれない。それでも今、捕虜として預かった以上、死なせない。そこに線がある。


 エルセがあとから来て、表を見た。


「迷っているな」


「はい」


「迷った線は、明日見直せ。迷わず引いた線ほど危ない」


 リオネルは顔を上げた。


「砦将らしくない言葉ですね」


「失礼だな」


 エルセは少し笑った。


「戦場で迷わない者は、部下の腹も見ない。私はそういう指揮官を何人も見た」


 リオネルは表の端に小さく書いた。


 毎朝見直し。


 線は一度引けば終わりではない。人が食べ、人が傷つき、人が戻るたびに引き直すものだ。


 その手間を惜しまないことが、砦の食卓を守るのだと思った。


 翌朝、捕虜の若い兵は少しだけ熱が下がった。彼は椀を受け取る前に、リオネルを睨む。


「昨日より少ない」


「回数を増やします」


「子供扱いか」


「胃の扱いです」


 敵兵は不満そうにしながらも、粥を口にした。隣の医療係が小さく頷く。飲み込む力は戻っている。


 その様子を見ていた灰嶺砦の兵が、リオネルへ近づいた。


「給糧官殿、あいつらを治して、また敵に戻すんですか」


 当然の問いだった。リオネルは逃げずに答える。


「捕虜交換になれば戻します。休戦が続けば、そのまま証人になるかもしれません。どちらにしても、預かった命はここで殺しません」


「俺たちの飯で」


「あなたたちの飯を削りすぎない線で」


 兵は黙った。納得したわけではないだろう。それでも、説明を受けた者の沈黙だった。


 リオネルはその背中を見送りながら思った。食卓の線は、腹だけでなく心にも引かれる。薄く引けば不安になり、濃く引けば憎しみになる。ちょうどよい線など、最初から存在しない。毎日、間違いかけながら直すしかない。


 昼、捕虜の兵は粥を残さなかった。灰嶺砦の兵はそれを見て、複雑な顔をした。怒りもある。安堵もある。リオネルはどちらも否定しなかった。


 人を食わせる仕事は、人を簡単に分類させてくれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ