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王都から届いた命令書は、塩より軽い

灰嶺砦へ王都からの早馬が着いたのは、昼の配給が終わった直後だった。


 使者は凍えた頬を赤くしながらも、鼻だけは高く上げていた。王宮の匂いがする、とリオネルは思った。温かい部屋で書かれた命令書の匂い。現場の泥を知らない紙の匂いだ。


「王太子殿下より命令である」


 広間に兵と士官が集められた。使者は封蝋を割り、声高に読み上げる。


「灰嶺砦は、敵の小規模な襲撃を過大に報告している疑いあり。士気維持のため、備蓄の一部を王都後方倉庫へ返送せよ。また、追放処分を受けた元給糧官リオネル・アーシュに軍務判断を委ねることを禁ずる」


 空気が凍った。


 エルセの目が剣のように細くなる。副官は拳を握った。兵たちは互いに顔を見合わせる。昨日、豆湯を飲んで壁に戻った者たちの視線が、リオネルへ向いた。


 リオネルは命令書を見た。


「備蓄の一部とは、具体的に何を」


 使者は不快そうに眉を上げる。


「塩、脂、乾燥野菜。王都の書式では、余剰と見なされている」


「余剰ではありません」


「王都が余剰と判断した」


「王都は昨夜の北壁に立っていません」


 使者の顔が赤くなる。


「口を慎め。貴様はすでに追放された身だ」


「はい。だから、王宮の機嫌ではなく、砦の腹を見ます」


 広間の奥で、誰かが息を呑んだ。


 エルセが一歩前へ出る。


「この砦の指揮官は私だ。給糧判断は私がリオネルに命じている」


「砦将殿、王太子殿下の命令に逆らうと?」


「命令書に従って兵を飢えさせるなら、それは敵の手伝いだ」


 使者は言葉に詰まった。だが王都の使者は、詰まっても黙らない訓練を受けている。


「ならば、備蓄状況をここで示せ。余剰がないという証拠を」


 広間の視線がリオネルに集まった。


 リオネルは鞄から、昨日作った倉庫表を取り出した。正式な王宮書式ではない。煤がつき、角が折れ、兵の手で何度もめくられた紙だ。


「現在の正規兵百八十六、負傷二十九、雑役職人を含む総数二百四十。敵襲が一日一回なら、塩は七日分。二回なら五日分。脂は夜番優先で五日分。乾燥野菜は四日分。ここから王都へ返送できる余剰はありません」


「王都書式では」


「王都書式は一日二食で計算しています。灰嶺砦は夜番に追加配給を出さなければ、北壁の見張りが落ちます」


「追加配給など贅沢だ」


 その瞬間、北壁の若い兵が一歩前に出た。腕に包帯を巻いている。第一波で矢を受け、昨日は医療室で粥を食べていた弓兵だった。


「贅沢ではありません」


 使者が目を剥く。


「兵卒が口を挟むな」


「あの豆湯がなければ、私は夜明け前に弓を落としていました」


 別の兵も声を上げた。


「俺もだ。北壁で立っていられた」


「矢束を運ぶ手が震えなかった」


「負傷兵の粥で、昨日から戻れた奴がいる」


 声は広がった。大きな反乱ではない。だが、鍋のそばで生まれた小さな約束が、命令書の前に立ち上がっていた。


 使者は青ざめた。


 リオネルは紙を差し出した。


「王都へ返すなら、この表も一緒に返してください。余剰ではなく、防衛食です」


 エルセが続ける。


「そして王太子殿下へ伝えろ。灰嶺砦は、食える限り落ちない」


 使者は命令書を握りしめ、返答もせずに広間を出ていった。


 扉が閉まったあと、兵たちは一斉に息を吐いた。勝ったわけではない。王都の怒りは、敵の矢より遅く、しかし深く刺さることがある。


 リオネルは表を畳み直した。


「塩が足りません」


 エルセが苦笑する。


「今の流れでそれを言うか」


「命令書は食べられません。塩は食べられます」


 グレオが広間の入口で腕を組んでいた。


「北の古い燻製小屋に、塩壺が残っているかもしれん」


「なぜ早く言わないんです」


「忘れていた。年寄りの記憶は、鍋を火にかけると戻る」


 兵たちが笑った。


 王都から届いた命令書は、砦の士気を折るはずだった。


 だが実際には、誰が自分たちの腹を見ているのかを、兵に知らせただけだった。


 リオネルはエルセと目を合わせる。


「燻製小屋を確認します」


「敵の斥候がいる」


「塩がなければ、ここにいても負けます」


 エルセは短く頷いた。


「私が護衛を出す」


 次の戦場は、城壁の外にある小さな塩壺だった。


 命令書の写しは、広間の机に残された。誰も触れようとしない。紙の上では、灰嶺砦の備蓄は余剰だった。だがその紙一枚で、北壁の夜番がどれだけ寒いかは測れない。


 リオネルは命令書の余白に、王都式の計算を書いてみた。一日二食、通常勤務、負傷者なし、夜間追加配給なし。美しい数字だった。美しいほど、ここでは役に立たない。


 隣でエルセが覗き込む。


「何をしている」


「王都の間違いを見える形にしています」


「怒って破れば済む」


「破ると、次に同じ紙が来ます」


 リオネルはその下に灰嶺砦式を書いた。夜番三交代、負傷兵二十九、雑役職人、捕虜可能性、敵襲時の追加湯。数字は不格好で、欄も多い。だが現場の息が入っている。


「王都へ送るのか」


「送ります。通るかは別です」


「通らなければ」


「少なくとも、こちらが何を見ているかは残ります」


 エルセはしばらく黙った。


「おまえは、紙を武器にするのだな」


「鍋と紙です」


「剣より地味だ」


「そのぶん、長く効きます」


 夜、兵たちの間で命令書の話が広がった。王都は食料を持っていこうとした。給糧官と砦将が止めた。その噂は、思ったより静かに受け止められた。怒りよりも、確かめるような沈黙が多かった。


 翌朝、夜番の兵が椀を受け取るとき、リオネルに言った。


「俺たちの分、守ってくれたんですね」


「必要な分を残しただけです」


「それを守るって言うんです」


 リオネルは返事に困った。感謝を受けるのは、王宮の叱責よりずっと難しい。


 ただ、椀の湯気はいつもどおり上がっていた。


 それで十分だと思った。


 使者が去ったあと、リオネルは命令書の内容を兵へ隠さなかった。ただし、怒りを煽る形ではなく、今日の配給がなぜ変わらないのかという説明として伝えた。


「王都は返送を求めました。砦将は拒みました。だから夜番の湯は続きます」


 短い言葉だったが、兵たちは静かに受け取った。


 不安は、何も知らされない場所で膨らむ。全部を語ればいいわけではない。だが、腹に関わることは、腹を預ける者へ届かなければならない。

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