第二幕第二場『検事編 執行』
第二幕第二場『検事編 執行』
緊張が高じてのむかつき、食欲不振、睡眠不足。誰だって経験があるだろう。俺だって、そういう思いを何度か経験している。大学入試がそうだった。合格発表がそうだった。司法試験はその最たるものだった。むしろ任官試験のほうが楽だったくらいだ。
慣れもあったし自信もあった。もし無合格だったら弁護士になればいいと開き直る気持ちもあった。しかし、昨夜はあまり眠れていない。
何度か目覚めた俺は、どうにかして眠ろうと布団を頭まで引き上げた。が、眠ろうとすればするほど、意識が冴えてくるのだった。
頭からすっぽり布団をかむれば喉が渇く。つい枕元のコーヒーを一口。
それでも眠れない。俺にとってのコーヒーは、水のようなものだ。だって、いつも眠りから覚めたときに飲んで、そのまま続けて眠ってしまう。
何も考えまいとすればするほど、色を失った夢のことを考えてしまう。
目覚める瞬間にみた夢は覚えているのに、それがどんな夢だったかはもう忘れてしまっている。それを思い出そうと懸命になってしまう。
なんて馬鹿げたことをしているのだ。俺は考えることをやめようとした。
目を閉じれば、目蓋の裏に形容できない模様がウネウネと蠢き、耳を閉じれば、こんどは血管を流れる音が聞こえてくる。
諦めてタバコを吸うと、それが鬼火のように感じられた。
どれくらいそうしておきていたのかわからない。
ふっと気づくと、ベッドの上で船を漕いでいた。
その繰り返しだった。
別に俺が処刑されるわけではないのだが、一人の健康な人間の死に立ち会うだけでこんなに心が苦しめられるのなら、処刑を前日に告知されていた頃の死刑囚は、平静でいられたのだろうか。
そりゃあ、足が萎えてしまったという記録は多いけど、自分の足で刑場に臨んだ記録も少なくない。
気がおかしくなったり、暴れたりという記録のほうが少ないのは、いったいどうしたことだろう。
そんなことを考えると、朝食を摂る気分ではなくなった。
一歩を運ぶのがこんなに辛かったことなど、生まれてこのかた経験したことがない。
バスのステップが異様に高く感じられた朝だった。
バスが揺れるたびに、腹の底から鉛のような塊がせり上がってくるような感じがする。握ったつり革にはじっとりと汗がついていた。
地下鉄でぎゅう詰めになっている間も同じ感覚に悩まされた。庁舎の階段だって、毎日軽々と駆け上がっているのに、一段がきつくてかなわなかった。
無意識に段数を数える自分が嫌でたまらない。
遅れずに拘置所へ行くために、今日は八時には登庁していた。
俺より早く登庁していた下田は、念入りに書類を整えている。朝の挨拶もおざなりで、二人して目を合さぬようにしていた。習慣で煎れたコーヒーも、どちらも手をのばさないまま、静かに湯気をあげている。
腕の時計に眼をやり、壁の時計で違っていないかを確かめ、そしてため息をつく。もう何度目のことだろう。
まだかまだかと時がすぎるのを待つのと違い、まだいいな、まだ大丈夫。時が止まってほしいと念じながら針を追うのがなさけない。
どんな難しい試験に臨んでも、こんな気持になどなったことはない。諦めも開き直りもできた。が、今は違う。
下田にコーヒーを勧めようと思わないわけではないが、こんな時に呑気なと無視されるのが怖い。用もないのに携帯を確認し、時計に目を走らせ、ため息をつくばかりだ。
コン。
小さくノックされた。指先で叩いたくらいな音なのに、胸がドキッと早鐘を打った。
スーッと開いたドアから課長が顔をのぞかせた。
「いい香りがすると思ったら、ここだったか」
そのまま応接セットに座るかと思いきや、自分もカップにコーヒーを注ぎ、ゴミ箱から使用済みカップをつまみだした。それを持ってソファーに座った。
「寝られたか?」
内ポケットからたばこを一本引き抜いた。それをライターにトントンと打ち付けている。
「庁内禁煙ですよ」
「馬鹿か」
課長は、苦々しげに呟くと、ライターを摺った。
「本心はなぁ」
膝に肘をあずけ、頭の上で軽く手を組んで煙を吐き出した。
「酒でも飲ませてやりたいんだぞ。タバコくらいなんだというんだ」
声は小さいが怒った口調だ。
課長は、股座を覗き込むような姿勢のままで半分ほどを灰にし、額の生え際を擦った。
「ところで、二人ともハンカチを出せ」
言っている意味が理解できず、二人とも固まっていると癇癪をおこした。
「いいから黙って出せ」
二人のハンカチをテーブルに並べると、ポーチを探った。そして、取り出した壜の中身を、たっぷり染み込ませる。
「なんですか、それ」
「オーデコロンだ。これを胸ポケットに入れておけ」
「どうしてですか」
「臭いを消すためだろうが、馬鹿」
言葉の意味するところを語らぬまま、課長は部屋を立ち去った。
襟の合わせ目から強烈な匂いが立ち上ってきた。コーヒーの香りも、タバコの臭いもすべて打ち消してしまうような強烈なものだ。
「俺も、いいかな?」
つい我慢できなくなって、俺も無性にタバコを吸いたくなった。
いざ火をつけてはみたものの、吸いたかった気持とは裏腹に、立ち上る紫煙をただ見つめるだけだった。かるく吸ってみても、ただいがらっぽいだけ。コメカミをミミズが這い上がるような、痺れなどかけらもない。
「釈さん、そろそろ」
下田に促されて用済みのカップにポトンと落とした。そこへ、下田が飲みきれなかったコーヒーを注いだ。
下田のほうがよほどしっかりしている。京都大学法学部を卒業し、最短期間で検事となった俺の誇りや自信。そんなものには何の価値もないことを俺は感じた。
課長が用意してくれた公用車で拘置所の通用口まで来たはいいが、そこでしばらく待たされた。その間に何人かづつが前手錠で通用口に現れては、護送車に追い立てられる。一台、二台と護送車が走り去った。もう一度通用口が開いた。こんどは管理部長だった。
「おはようございます。先にお客を送り出さないと、若い女性を見られたら困りますので」
急ぎ足で駆け寄った管理部長は、口早に事情を説明し、急きたてるように職員通路へ俺たちを導いた。
「申しわけないですね、ここは女気のないところですので、こんなに魅力的な女性を見ると興奮してしまいましてね、落ち着かせるのに苦労するのですよ」
それになんと答えたのか覚えていない。
案内されるまま所長室に通され、脇のドアから応接室に通された。
外からの視線を妨げるために引かれた薄いカーテンを透かして、初冬にしては強い日差しが差し込んでくる。
コツコツコツ
ドアの前で足音が止んだ。いつもなら気にもならない小さな足音なのに、周囲が静かすぎるからなのか、それとも俺が緊張しきっているからなのか、異様にはっきりと聞こえた。
俺とたいして歳の違わない刑務官がコーヒーを届けてくれたのだ。
このまま部屋から出ないでくれと、用があれば内線電話を使ってくれと、そして声をたてないでくれと。ただそれだけを言いおいて、ふたたび下田と二人きりにされた。
法の執行にあたる自分でさえ異常に耳が敏感になっている。であれば、朝の運動が許されるまでの間、死刑囚はどんなに怯えているのだろう。ドアの前で足音がとまらないでくれと必死で祈っているのだろうか。ふとそんなことを思った。
やがて僧侶が案内されてきた。言葉を交わさず、互いに黙礼をしただけだ。僧侶は、渋面のまま着替えを始めた。
キュッキュッ、キューッ、キュッ
絹の擦れあう音がしばらく続き、略式ながら威儀を正した僧侶に変貌した。
緑茶が運ばれ、饅頭も添えられていた。
管理課長を名乗る男がやってきて、本人を呼び出しに行ったことを告げた。
すかさず下田が時計を確かめ、その時刻をメモした。
『連行の告知、九時三十二分、管理課長』
隣の所長室に何度か出入りがあった。が、何も話し声は聞こえてこない。
暫くして所長室に出入りの気配がした。
何人もの固い足音にかき消されるようにゴムが床を引き摺る音がする。しかし、取り乱して暴れているようなことではない。
「松岡君、今日でお別れになった」
「……」
「あとでまた聞くが、言い残したことはないかね? 誰かに伝えてほしいことはないかね?」
「……」
「松岡君、我々にはこれくらいしかしてやれん。気持だけでも受け取ってくれ」
別の声がした。
管理課長が僧侶に近づき一言耳打ちすると、表情を強張らせた僧侶は静かに部屋を出て行った。
『執行告知、九時五十分』
下田がペンをはしらせた。
やがてドアが開き、大勢の靴音が出て行った。
『所長室退室、十時三分』
「では刑場へご案内します」
管理課長が静かに促した。とたんに下腹がせり上がってくるような気分になった。
本館管理棟のかげにポツンと、用具倉庫のような小屋が建っている。外観は倉庫そのもので、ベージュに塗られただけのへんてつ無い建物だ。小さな両開きのドアがあるだけで窓らしい採光部は見当たらなかった。
一歩踏み入れると、柔らかなクリーム色の壁が蛍光灯で明るく照らされていた。床には緑色の塗料が塗られ、汚れらしい汚れが見当たらない。正面ドアの向こう側から読経が聞こえてきた。
男は通路を途中で折れ、別な小部屋のドアを開けた。
部屋の照明は少しおとしてあるのでろう。そして正面のガラス窓のむこうに空間が広がっていた。
『刑場 立会い席につく 十時十分』
室内には白衣を着た医官らしき者が二人控えていた。
目礼しつつ指定された椅子に腰掛けた。ずっと聞こえていた読経がやみ、急に静かになった。
なにか声らしきものが聞こえてくるのだが、小さすぎて内容を聞き取ることはできない。いつの間にやら管理課長は退室していた。
カチャッ
微かな音をたててドアが開いた。
思わず振り返ると、鬼のような形相をした男が立ってなかなか入り口から中へ来ようとしない。その形相に心臓がドクンと大きく打った。
怯えた姿を見られたくないと振り返る途中だった。
ダンッ!
すさまじい音とともに窓ガラスがビリビリ震えた。
驚いて目をつむった瞬間を、網膜がいつまでも像として脳に見せていた。
何もなかった空間に、突如落ちてくるズック靴を。
「執行開始、十時三十二分十八秒」
堅くつむった目を開けられないまま、開始時刻が告げられた。
踏み板が外れた時刻が開始時刻なのか、落下した受刑者にロープが喰いこんだ瞬間が開始時刻なのか、そんなことはどうでもよかった。
それでも必死にメモをとりおえたのか、下田が俺の腕を手探りで掴んでいた。
落下のショックでロープの撚りが戻り、受刑者のからだがゆっくりと回り始める。
隅に待機していた刑務官が歩み寄り、回転を止めた。
ピンと張ったロープの下で、受刑者のからだは海老反りになり、足を抱え込もうとし、いくら望んでも入ってこない空気を求めて胸が大きく膨らんでいる。
後ろ手錠のまま肘をはり、なんとか手を自由にしようともがいていた。
それが徐々に弱くなってゆくと、生体としての生への執着ともいうべき痙攣が始まった。
ビクン、ビクン
すでに生体として統制のとれた動きではない。しかし、生きたいという執着がからだを痙攣させる。
痙攣の間隔が遠くなってくると、医官が聴診器で心音を聴き始めた。
医官が受刑者を床に降ろすよう指示したときには、すでに痙攣をしなくなっていた。
忘れた頃にピクッ。
その弱々しい痙攣すら止んでしまった。
しきりと心音を確かめていた医官が、軽く手をあげた。
「執行終了、十時四十七分〇三秒。所要時間、十四分四十五秒」
ストップウォッチを握っていた医官が冷たく告げた。
一旦これで完結とします。
別の視点で書き終えるのがいつになるか定かでないので。