【後編】二度目の引き金
森へ入ってから、セイファは一度だけ倒れた。
巨体が雪と土を巻き上げ、黒い翼が木々をなぎ倒す。リリアはカイの軍服を掴んだまま、首の付け根から滑り落ちた。
背中を打ち、息が詰まる。
すぐ近くで、カイも膝をついていた。胸元に戻した竜心が、彼の皮膚の下で赤く明滅している。
「セイファ」
カイが竜の首へ手を伸ばす。
黒竜は答えるように、低く喉を鳴らした。
だが、その音は弱い。
先ほど撃ち込まれた竜杭弾の傷は、まだ胸の奥に残っている。片翼は折れ、鱗の間から血が滲んでいた。
リリアは立ち上がり、周囲を見た。
北の森は深い。背後の戦場の音は遠のいているが、完全には消えていない。王国軍も帝国の回収部隊も、すぐに追ってくる。
「どれくらい動けますか?」
「セイファは走れる。俺は、たぶん邪魔になる」
カイが苦く笑う。
「役に立つ情報はありますか?」
「君は負傷者に厳しいな」
「今さらです」
リリアは膝をつき、セイファの傷を見る。
竜を撃つために覚えた知識が、皮肉なほど役に立った。鱗の重なり。骨の位置。翼膜の弱点。どこを撃てば墜ちるか。どこを避ければ、すぐには死なないか。
「竜杭弾は抜けません。無理に抜けば出血が増えます」
「なら、そのままでいい」
「いいわけがありません」
「契鎖塔へ着くまで動ければいい」
その言い方が気に入らなかった。
リリアは顔を上げる。
「あなたは、また自分とセイファを使い捨てるつもりですか?」
カイは一瞬、黙った。
「使い捨てられてきたものは、自分の使い方くらい覚える」
「最悪の覚え方ですね」
「帝国式だ」
軽く言ったつもりなのだろう。
けれど笑えなかった。
リリアの手には、まだ竜心の温かさが残っている。あの心臓を握ったときに流れ込んできた、少年の叫びと幼い竜の記憶も。
許せるわけではない。
竜の炎で焼かれた村も、母の銀の髪留めも、消えない。
それでも目の前の青年と黒竜を、もう一度鎖へ差し出すことはできなかった。
「契鎖塔とは、具体的に何ですか?」
リリアは尋ねた。
カイは森の奥、北東の空を見た。
木々の隙間から、細い銀の塔が見えている。空へ伸びる鎖のような光が、雲に刺さっていた。
「帝国の竜を動かす心臓部だ。塔から命令が送られ、竜心を通して竜騎士と竜に流れる」
「命令を無視すれば?」
「痛みが来る。最初は火傷程度。次は骨が焼ける。最後は竜心が潰される」
「潰されたら?」
「俺もセイファも死ぬ」
カイは淡々と言った。
淡々と言えるほど、何度も考えてきたのだろう。
「塔を壊せば、あなたたちは自由になる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「誰も壊したことがない」
リリアは思わず目を細めた。
「その作戦に、私を巻き込んだのですか?」
「君が巻き込まれに来た」
「竜心を拾ってしまったからです」
「拾っただけなら渡せば済んだ」
「渡せなかったんです」
リリアはそう言ってから、少し息を止めた。
自分の声が、自分で思っていたよりも強かった。
カイが彼女を見る。
「なぜ?」
リリアはすぐに答えられなかった。
理由ならいくつもある。
王国が竜心を兵器として欲しがったから。
帝国がカイとセイファを処分しに来たから。
竜心から記憶を見たから。
けれど一番奥にあるものは、もっと単純だった。
「私が撃ち落とした命だからです」
カイは何も言わなかった。
リリアは続ける。
「それを、戦利品として渡したくなかった」
森の奥で、セイファが小さく息を吐いた。
*
契鎖塔へ近づいたのは、夜明け前だった。
空はまだ青黒く、東の端だけが薄く白んでいる。
塔は、谷の中央に立っていた。
石ではない。鉄でもない。白い骨のような柱に、銀の鎖が何百本も巻きついている。その鎖は地面へ伸び、周囲の竜舎や拘束台へ繋がっていた。
リリアは岩陰から塔を見下ろした。
竜がいた。
十頭以上。
どの竜も、翼を金具で畳まれ、口を鉄の口枷で塞がれている。首には青白い鎖杭が刺さり、鎖の先は契鎖塔へ伸びていた。
竜は空の生き物だと思っていた。
炎と翼を持ち、地上の人間を見下ろす怪物だと。
だが塔の下にいた竜たちは、空を見上げることすら許されていなかった。
「これが、帝国の竜騎士ですか」
リリアの声は低くなった。
カイは岩に背を預け、浅く息をしている。
「見栄えのいい式典では、鞍に乗った騎士だけを見せる。鎖は幕の裏だ」
「あなたも、ここに?」
「十二のときに」
「セイファは?」
「もっと小さかった」
セイファは離れた場所に伏せていた。黒い体を木々の影に沈め、金色の目だけを塔へ向けている。
怒り。
恐怖。
それから、帰りたくない場所を見ている生き物の沈黙。
リリアは竜落砲のない肩を見た。
戦場で使っていた大型の竜落砲は、王国軍の陣地に置いてきた。手元にあるのは、肩撃ち用の短筒と、残り二発の予備弾だけ。
契鎖塔の外殻を貫くには足りない。
「塔を壊すには、どこを撃てば?」
「中枢へ命令を流す口がある」
「口?」
「命令口と呼ばれている。塔が竜心へ命令を送る一瞬だけ開く。そこへ竜杭弾を入れれば、中の中枢核に届く」
「開く条件は?」
カイは少しだけ笑った。
「逃亡した竜騎士と竜が、塔の射程内に入ること」
リリアは彼を見た。
「つまり、あなたとセイファが囮になる」
「そういうことだ」
「却下します」
「早いな」
「私を何だと思っているんですか?」
「竜を撃ち落とす人」
「今は、竜を撃たないためにここへ来ています」
カイは黙った。
その沈黙の奥に、わずかな驚きがあった。
リリア自身も、同じくらい驚いていた。
自分の口から、そんな言葉が出る日が来るとは思わなかった。
「ほかの方法は?」
「俺の竜心を砕く」
リリアの表情が止まった。
カイは淡々と言う。
「竜心を砕けば、塔との接続は一時的に乱れる。その隙にセイファだけ逃がせるかもしれない」
「あなたは?」
「死ぬ」
「セイファは?」
「たぶん、長くはもたない。でも塔に戻されるよりはましだ」
リリアは短筒を握る手に力を込めた。
「私はもう、心臓は撃ちません」
「敵の心臓でも?」
「敵の心臓だったら、撃っていいんですか?」
カイは答えなかった。
リリアは塔を見下ろす。
あの白い骨のような塔がある限り、カイもセイファも逃げたことにはならない。王国が竜心を欲しがり、帝国が竜を縛る限り、同じことは繰り返される。
だが、それでもリリアの物語は世界を終わらせるものではない。
この戦争すべてを止められるほど、自分は大きくない。
救えるのは、目の前にある命だけかもしれない。
それでも。
「塔を撃ちます」
「短筒では届かない」
「分かっています」
リリアは西側の丘を見た。
そこに、王国軍の火が見えた。
追撃隊。
そして、見慣れた砲車の影。
リリアが前線で使っていた竜落砲だった。
「向こうが、わざわざ持ってきてくれました」
カイが目を細める。
「王国軍から砲を奪う気か?」
「奪うのではありません」
リリアは立ち上がった。
「借ります。返せるかは分かりませんが」
*
王国の追撃隊は、帝国陣地を見下ろす西の丘に砲を据えていた。
リリアは岩陰から近づいた。
竜落砲の黒い砲身が、夜明けの光を受けて鈍く光っている。あれは彼女の砲だった。何度も手入れし、何度も肩を痛め、何度も竜を落としてきた鉄の獣。
砲のそばに、エレンがいた。
あの戦場でリリアの名を叫んだ同期だ。
彼女は火薬袋を抱えたまま、リリアに気づいた。
「リリア」
その声には、怒りより先に安堵があった。
リリアは銃を向けなかった。
エレンも叫ばなかった。
「戻って」
エレンは小声で言った。
「今なら、まだ大佐に取りなせる。竜心を渡せば、処刑は避けられるかもしれない」
「それは助け舟ですか?」
「そうよ」
「乗れません」
エレンの顔が歪む。
「分かってるの? あなたは敵兵を逃がした。竜心を持ち出した。竜にも乗った。全部、反逆よ」
「分かっています」
「分かってない!」
エレンの声が一瞬だけ大きくなった。
近くの兵士が振り向きかけ、彼女はすぐ口を閉じた。
「あなたが竜を憎んでいたのを知ってる。誰よりも知ってる。だから大佐は、あなたに竜落砲を任せた。あなたなら迷わず撃てるから」
「迷わず撃ってきました」
「なら、どうして今さら」
「今さら、分かってしまったからです」
「何を?」
リリアは竜落砲を見た。
「私はずっと、竜を撃てば過去に勝てると思っていました。母を焼いた炎に、少しずつ撃ち返しているつもりでした」
エレンは何も言わない。
「でも、竜を撃っても母は戻らなかった。村も戻らなかった。私の空も戻らなかった」
「そんなこと」
「分かっていました。でも、分かりたくなかった」
リリアはエレンへ向き直った。
「今戻れば、私はまた敵だけを撃つ人間に戻ります。敵だと言われたものを撃ち、戦利品だと言われた命を渡す。それはもうできません」
エレンは唇を噛んだ。
「カイ・ルクスは敵よ」
「はい」
「黒竜も敵だった」
「はい」
「あなたの村を焼いた炎と同じものを吐いた」
リリアは胸の奥が痛むのを感じた。
「はい」
「それでも助けるの?」
「許したからではありません」
リリアは静かに言った。
「もう一度、鎖に戻したくないだけです」
そのとき、丘の下で契鎖塔が鳴った。
鐘ではない。
金属が泣くような音。
塔から伸びる銀の鎖が一斉に光り、竜舎の竜たちが悲鳴を上げる。
エレンが顔色を変えた。
「何?」
「塔が、カイとセイファに気づいたんです」
王国兵たちが騒ぎ始める。
グレイン大佐の声が飛んだ。
「全砲列、待機! 竜が暴れたら撃て!」
リリアは砲へ走った。
エレンがその前に立つ。
「リリア!」
「どいてください」
「どいたら、私はあなたを見逃したことになる」
「では、止めますか?」
エレンは火薬袋を抱えたまま、震えていた。
長い一秒だった。
やがて彼女は目を伏せた。
「一発だけ」
リリアは息を止める。
エレンは竜杭弾を砲の横へ転がした。
「外したら、次はない」
「十分です」
エレンは小さく首を振った。
「あなたが狙いを外したところ、見たことないもの」
「エレン」
「でも、だから余計に怖い。あなたが当てたら、もう本当に戻れない」
「それでも撃ちます」
「その言い方、嫌い」
「私も、言いながら少し思いました」
エレンは泣きそうな顔で笑った。
「戻ってこいとは言わない」
「はい」
「でも、生きて。裏切り者でもいいから」
リリアは頷いた。
「あなたも、撃たないで」
「撃てるわけないでしょ」
その声は、戦場でリリアを呼んだときと同じだった。
リリアは竜落砲へ手をかけた。
慣れた冷たさが、手のひらへ戻ってくる。
けれど、今度は違う。
この砲で、竜を落とすのではない。
鎖を落とす。
*
契鎖塔の下で、セイファが吠えた。
塔の射程に入った瞬間、黒竜の体に残っていた銀の鎖が赤く光った。胸の傷から煙が上がり、折れた翼が無理やり開かされる。
カイはセイファの首元にしがみつき、歯を食いしばっていた。
命令が流れている。
リリアには竜心を通じた記憶はもう見えない。
それでも分かった。
塔は命じている。
王国軍を焼け。
逃亡した竜騎士を処分しろ。
黒竜の喉が赤く光る。
炎が溜まっていく。
王国軍の兵士たちが叫んだ。
「竜が吐くぞ!」
「撃て!」
グレイン大佐が剣を上げる。
「竜落砲、照準!」
リリアは砲台へ飛び乗った。
「撃たないでください!」
大佐が振り返る。
「アステル!」
「狙うのは竜ではありません!」
「どけ!」
「嫌です」
「それ以上やれば、本当に戻れんぞ!」
リリアは照準器を覗いた。
塔の中央に、閉じた瞳のような裂け目がある。あれが命令口。まだ開いていない。
開くのは、命令が最も強く流れる一瞬。
セイファが炎を吐かされる瞬間。
それまで撃てない。
撃てば外す。
外せば、弾はセイファの翼を裂く。
遅れれば、炎が王国軍を焼く。
早すぎれば、命令口はまだ閉じている。
一発しかない。
次弾を込める時間はない。
砲身は震え、足元の土は塔の振動で崩れかけていた。
リリアは息を吸った。
竜を撃つときと同じ呼吸。
けれど、心は違う。
「距離!」
リリアは叫んだ。
誰も答えない。
王国兵たちは戸惑い、大佐は怒鳴っている。
一拍遅れて、エレンの声がした。
「九百四十!」
リリアの喉が震えた。
「風!」
「東から三! 塔の熱で上昇あり!」
「竜杭弾、装填!」
「装填済み!」
昔と同じやり取り。
けれど狙うものだけが違う。
カイがセイファの首へ手を置いた。
リリアには声までは届かない。
それでも、彼の唇の動きが分かった。
命令じゃない。
頼む。
飛べ、セイファ。
黒竜は苦しげに身を沈めた。
折れた片翼では飛べない。
竜杭弾の傷も残っている。
それでもセイファは、崖の縁へ走った。
王国兵が叫ぶ。
帝国兵も叫ぶ。
セイファは崖から身を投げた。
墜落ではなかった。
完全な飛翔でもなかった。
落ちながら、風を掴む。
炎の熱で生まれた上昇気流に、片翼を引っかける。
黒い巨体が、一瞬だけ空へ持ち上がった。
塔が反応する。
命令口が開いた。
白い裂け目の奥に、赤い中枢核が見える。
リリアは息を止めた。
八年前の空。
母の髪留め。
焼けた麦。
黒い翼。
そのすべてが、照準の外へ消えていく。
今、見ているのは過去ではない。
竜でもない。
鎖だ。
「撃ちます」
誰にともなく言った。
竜落砲が咆哮した。
竜杭弾が空を裂く。
弾はセイファの折れた翼の下を抜け、命令口へ飛び込んだ。
一瞬、音が消えた。
次に、塔の中から白い光が噴き出した。
契鎖塔が割れる。
銀の鎖が、空中で次々と焼き切れていく。
竜舎に繋がれていた竜たちが、一斉に顔を上げた。
口枷が砕ける。
鎖杭が抜け落ちる。
喉に溜められていた炎が、誰にも向けられず空へ散った。
朝焼けの空に、いくつもの炎が花のように開く。
セイファの体からも、銀の光が剥がれ落ちた。
カイが叫ぶ。
リリアは砲台から飛び降りた。
「カイ!」
セイファは塔の残骸へ叩きつけられるように落ちた。
今度は、リリアが撃ち落としたのではない。
鎖から解かれた体が、自由の重さに耐えきれなかったのだ。
*
塔の崩壊で、谷は白い粉塵に包まれた。
王国軍も帝国軍も、しばらく動けなかった。
リリアは砲台を離れ、丘を駆け下りた。
グレイン大佐が何かを叫んでいたが、聞かなかった。
足がもつれる。
息が焼ける。
それでも走った。
塔の麓で、セイファが倒れていた。
黒い巨体は傷だらけだったが、胸は動いている。竜杭弾の傷からはまだ血が流れていた。しかし、その体に銀の鎖はもうなかった。
「カイ!」
リリアは瓦礫の中に彼を見つけた。
カイは倒れていた。
胸元にあった竜心は、赤い光を失いかけている。
いや、違う。
竜心そのものが、二つに分かれようとしていた。
一つは小さな赤い光となり、カイの胸へ沈む。
もう一つは、黒い火のような光となって、セイファの胸へ戻っていく。
契鎖術が解けている。
無理やり一つに縫い合わされていた命が、本来の場所へ帰っていく。
「カイ」
リリアは彼のそばに膝をついた。
彼の胸は動いていなかった。
「カイ」
返事はない。
リリアは手を伸ばし、彼の胸へ触れた。
竜心を拾ったときの温かさを、指が覚えている。
あのときは、自分の手の中で鼓動が鳴っていた。
敵の命だと思うより先に、生きていると思った。
今、その鼓動は彼の胸に戻ったはずなのに、何も聞こえない。
静かだった。
静かすぎた。
「あなたの心臓でしょう」
声が震える。
「ちゃんと持っていなさい」
セイファがゆっくりと首を動かした。
黒竜は鼻先でカイの肩を押す。
一度。
もう一度。
まるで、起きろと言っているように。
リリアは彼の手を握った。
敵の手。
竜騎士の手。
自分が撃ち落とした命の、続きの手。
その手を失いたくないと思った。
その事実が、胸に落ちてきた。
恋と呼ぶには、まだ痛みに近かった。
けれど憎しみではなかった。
リリアは彼の胸へ額を寄せた。
血と煤と、焦げた革の匂いがする。
その奥で、ほんのかすかな音がした。
どくん。
竜心を拾ったときより、ずっと弱い。
でも、確かに人間の胸の奥から聞こえた。
カイの指が、わずかに動いた。
リリアは息を止める。
彼の胸が、小さく上下した。
一度。
それから、もう一度。
カイが目を開けた。
「……痛い」
リリアは肩から力が抜けた。
「生きてる感じですか?」
「だいたい同じだ」
前編と同じ答えだった。
リリアは笑いそうになり、失敗して泣きそうになった。
「笑うか泣くか、どっちかにしたらどうだ」
「うるさいです」
「助けられた相手に言う言葉か?」
「まだ助け終わっていません。王国軍も帝国軍もいます」
カイはゆっくり起き上がろうとして、顔をしかめた。
「俺、もう竜騎士じゃないな」
「そうですね」
「君も、もう竜落としではいられない」
「そうですね」
「後悔してるか?」
リリアは答えなかった。
代わりに、空を見た。
契鎖塔の上空では、解放された竜たちが飛び始めていた。
飛び方は不揃いだった。
傷ついた翼。
久しぶりに開かれた喉。
命令を失い、どう飛べばいいのか分からない竜たち。
それでも、彼らは塔へ戻らなかった。
一頭、また一頭と、朝の空へ上がっていく。
セイファも立ち上がった。
まだ片翼は痛むはずだった。
それでも黒竜は、崖の上へ歩いていく。
カイが立ち上がろうとする。
リリアは彼を支えた。
「乗るのですか?」
「いや」
カイは首を振った。
セイファは振り返った。
金色の瞳が、カイを見ている。
その目には、命令を待つ色はなかった。
カイは喉を詰まらせるように息を吸った。
「行け、セイファ」
少し間を置いて、言い直す。
「違うな」
黒竜は待っていた。
「行ってくれ」
命令ではない。
願いだった。
セイファは低く鳴いた。
それから翼を広げた。
完全な翼ではない。
折れ、裂け、血に濡れた翼。
それでも、セイファは走り出した。
崖の端を蹴る。
落ちる。
風を掴む。
一瞬、黒い体が谷へ沈んだ。
次の瞬間、朝焼けの中へ浮かび上がった。
黒竜はもう誰も乗せていなかった。
リリアは、その姿を見上げた。
空が怖いと思わなかった。
怖さが消えたわけではない。
でも、空には炎だけがあるわけではなかった。
帰っていく命もあるのだと、初めて思えた。
*
契鎖塔が崩れても、戦争が終わったわけではなかった。
王国軍はリリアを反逆者と呼んだ。
帝国軍はカイを逃亡兵と呼んだ。
グレイン大佐は竜心と契鎖塔の残骸を確保しようとし、帝国の指揮官は生き残った竜を再び捕らえようとした。
だが、塔はもうなかった。
鎖もなかった。
竜たちは空に散り、カイの胸には人間の心臓が戻り、セイファの胸には竜の核が戻った。
リリアは竜落砲の前に立った。
黒い砲身は、まだ熱を持っている。
この砲で、彼女は竜を落としてきた。
この砲で、最後に鎖を撃った。
彼女は砲身に触れた。
「置いていくのか?」
カイが尋ねる。
「はい」
「大事なものだろ」
「重しでした」
「重し?」
「空を見上げる自分を、地面に縫い止めるための」
リリアは手を離した。
「もう、少しなら見上げられます」
カイは空を見た。
左手で胸を押さえている。
そこにはもう竜心の赤い光はない。代わりに、弱いが確かな鼓動がある。
「俺は、これからどうなるんだろうな」
「少なくとも、帝国の竜騎士ではありません」
「王国の捕虜でもない?」
「私が逃がしたので、たぶん私も捕虜にはできません」
「ずいぶん無責任だ」
「心臓を拾った責任は取りました」
「拾っただけじゃない。勝手に返した」
「持ち主に返しただけです」
カイは少し笑った。
疲れ切った笑いだったが、墜落地点の岩場で見た、痛みだけの笑いとは違っていた。
「リリア」
名前を呼ばれて、彼女は彼を見た。
敵国の竜騎士。
兵器にされた青年。
自分が撃ち落とした竜の背にいた人。
今は、そのどれでもあるが、それだけではない人。
「俺の心臓を拾ったこと、後悔してるか?」
リリアはしばらく考えた。
後悔なら、もうしている。
命令に背いたこと。
同期を泣かせたこと。
国に戻れないかもしれないこと。
竜を撃ってきた過去を、簡単には正当化できなくなったこと。
全部、後悔している。
けれど、やり直したとしても同じことをする。
そう思った。
「拾ったのは、心臓だけではありません」
「じゃあ、何を拾った?」
リリアは空を見上げた。
セイファの姿は、もう小さな黒い点になっている。
それでも確かに、空へ向かっていた。
「敵を、敵のまま憎めない面倒な可能性です」
カイは一瞬、ぽかんとした。
それから、声を出して笑った。
痛そうに胸を押さえながら、それでも笑った。
「面倒か」
「はい。とても」
「捨てる?」
「拾ったものを、また落とすのは嫌です」
カイは笑うのをやめ、彼女を見た。
リリアはその視線を避けなかった。
恋と呼ぶには、まだ始まったばかりだ。
信頼と呼ぶにも、傷が多すぎる。
けれど、敵ではない。
少なくとも、もう敵だけではない。
遠くで王国兵の声がした。
帝国兵の怒号も近づいている。
リリアは短筒を拾い、カイへ肩を貸した。
「行きます」
「どこへ?」
「分かりません」
「作戦としては最低だな」
「あなたに言われたくありません」
「確かに」
二人は歩き出した。
背後には、砕けた契鎖塔。
置いていく竜落砲。
空へ消えた黒竜。
前方には、国境も道もない森が続いていた。
その日、私はもう一度、引き金を引いた。
けれど今度は、竜を落とすためではなかった。
空へ帰るものを、空へ返すためだった。




