【前編】空から落ちたもの
敵国の竜を撃ち落とした日、私は彼の心臓を拾った。
空は、黒く燃えていた。
雲ではない。
ヴァルカ帝国の黒竜が、翼で太陽を隠していた。
竜の影が、戦場を夜に変える。
アルバ王国軍の前線は崩れかけていた。砦の石壁は赤く溶け、草地は黒い灰になり、馬は手綱を噛み切って逃げようとしている。兵士たちは盾を掲げていたが、炎は盾の隙間から入り込み、鎧の内側まで熱を伝えた。
「竜が旋回します!」
観測兵の叫びに、リリア・アステルは照準器を覗いた。
息を止める。
肩に食い込む砲台の革帯。
焦げた鉄の匂い。
指先に伝わる竜落砲の震え。
それらを一つずつ遠ざけ、視界の中央に黒竜だけを置く。
「距離」
「八百二十!」
「風」
「西から二。炎流あり!」
「竜杭弾、装填」
「装填済み!」
返事を聞き、リリアは引き金へ指をかけた。
彼女はアルバ王国軍の砲術士だった。
ただの砲ではない。
竜を撃ち落とすためだけに作られた対竜兵器、竜落砲。
竜の鱗を貫き、骨へ杭を打ち込み、飛ぶ力そのものを奪う砲。
その砲口を任されてから、リリアは三頭の竜を落としている。
味方は彼女を、竜落としのリリアと呼んだ。
誇らしい名だと、誰かは言った。
リリアは、そう思ったことがない。
竜を落とすたび、故郷の匂いを思い出すからだ。
焼けた麦。
溶けた井戸。
灰の中から見つけた、母の銀の髪留め。
八年前、ルネ村を焼いたのも竜だった。
その日も、空は黒かった。
太陽が消えたのだと思った。
けれど見上げた空にあったのは雲ではなく、巨大な翼だった。竜の影が村を覆い、次の瞬間、炎が落ちた。
火は人を選ばなかった。
老人も、子どもも、祈る者も、逃げる者も、同じ色に焼いた。
母はリリアを井戸の石陰へ押し込み、髪留めだけを残して戻らなかった。
それ以来、リリアは空を好きになれない。
青すぎる空を見ると、次に黒い翼が来る気がする。
王国軍へ志願したとき、誰もが彼女を勇敢だと言った。
違う。
リリアは勇敢だったのではない。
空を見上げるたびに震える自分を、地面へ縫い止めておく方法が欲しかっただけだ。
竜落砲は、そのための重しだった。
だからリリアは竜を撃つ。
敵だからではない。
空から命を選ばず焼くものを、許せないからだ。
黒竜が翼を傾けた。
その背には、帝国の竜騎士がいるはずだった。
黒い鞍。
銀の手綱。
竜を操り、炎を命じる者。
リリアは何度も、その姿を夢に見て殺してきた。
「今です!」
観測兵が叫ぶ。
黒竜の胸が開いた。
炎を吐く前の一瞬。
竜落砲が、咆哮した。
鉄の杭が空を裂く。
火薬の衝撃で、リリアの肩が後ろへ跳ねた。
黒竜の胸に、白い光が刺さる。
次の瞬間、空が割れたような悲鳴が響いた。
竜の悲鳴。
聞き慣れているはずだった。
けれど、その声は違った。
怒りではない。
痛みだけでもない。
誰かの名を呼ぶような声だった。
黒竜は炎を吐かなかった。
落ちながら、翼を広げた。
その下には、白い布を張った野営病舎があった。王国軍の負傷兵が運び込まれている場所だ。
黒竜は、そこを避けた。
巨大な体を無理にねじり、岩場へ向かって落ちていく。
翼が折れる。
尾が地面を叩く。
黒い鱗が砕け、炎ではなく赤い血が雪混じりの泥へ広がった。
王国軍から歓声が上がる。
「落ちたぞ!」
「竜落としだ!」
「リリアがまたやった!」
誰かが彼女の肩を叩いた。
けれどリリアは、照準器から目を離せなかった。
なぜ、病舎を避けた。
竜が。
敵が。
炎を吐けたはずの怪物が。
*
黒竜の墜落地点は、砦の北にある岩場だった。
リリアは確認班と共に、そこへ向かった。
グレイン大佐からは、竜騎士が生きていれば殺すなと言われている。
捕虜にするためではない。
竜の制御法を吐かせるためだ。
「心臓は傷つけるな」
出発前、グレイン大佐はそう命じた。
「竜の心臓は王都へ送る。帝国だけに空を支配させる時代は終わりだ」
リリアは頷いた。
その言葉に、少しだけ引っかかりを覚えながら。
岩場へ近づくほど、空気が熱くなった。
黒竜は死んでいなかった。
片翼は折れ、胸には竜杭弾が深く刺さっている。喉から漏れる息は、火の粉ではなく濡れた音を立てていた。
それでもその目は、リリアを見ていた。
金色の瞳。
憎しみではない。
懇願に近い色だった。
「撃ちますか?」
兵士が小声で聞く。
リリアは首を振った。
「まだ動かないで」
「しかし」
「撃つなと言いました」
自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。
黒竜の胸の下で、何かが光った。
竜杭弾が貫いた傷口から、赤い結晶のようなものがこぼれている。
大きさは、リリアの両手に収まるほど。
表面には細い血管のような光が走り、脈を打っていた。
竜の心臓。
そう思った。
リリアは手袋を外し、それを拾い上げた。
温かかった。
石ではない。
金属でもない。
生きている。
どくん、と指の中で震えた瞬間、岩陰から男の声がした。
「触るな」
リリアは振り向き、短銃を抜いた。
黒竜の首元に、一人の青年が倒れていた。
帝国の軍服は裂け、右肩から胸にかけて銀色の鎖が食い込んでいる。髪は灰色がかった黒。顔は血と煤で汚れていた。
だが、その目だけははっきりしていた。
「それを、握るな」
リリアは結晶を持つ手に力を込めた。
青年が苦しげに息を詰める。
まるで、リリアが彼の喉を締めたかのように。
「あなたが竜騎士?」
「……カイ・ルクス」
「所属は?」
「ヴァルカ帝国、第九竜騎兵隊」
「では敵ですね」
「そうだ」
カイは黒竜の方へ目を向けた。
「でも、そいつは敵じゃない」
リリアは笑いそうになった。
「竜が敵じゃない?」
「名前はセイファだ」
「名前があれば、焼いた村が戻るのですか?」
カイの表情が動いた。
痛みではなく、別のものが走ったように見えた。
「戻らない」
「なら、黙ってください」
「黙る。だから、それを落とすな」
リリアは手の中の結晶を見た。
「これは竜の心臓でしょう」
「違う」
カイは震える手を伸ばした。
「それは、俺の心臓だ」
周囲の兵士たちがざわめいた。
リリアは眉を寄せる。
「ふざけないで」
「ふざける力が残ってるように見えるか?」
「人間の心臓が、竜の胸にあるわけがない」
「帝国ならやる」
カイは笑った。
笑ったというより、痛みに息が漏れただけだった。
「契鎖術だ。竜と騎士を一つの兵器にする。命を混ぜて、命令を流す。竜が逆らえば騎士が焼ける。騎士が逆らえば竜が裂ける」
リリアは結晶を見つめた。
「あなたが竜を操っていたのではないのですか?」
「操れるなら、こんな場所に落ちてない」
「なら、あの炎は誰が吐かせたのですか?」
「塔だ」
「塔?」
「契鎖塔。帝国の命令を竜心へ流す塔。俺たちは騎士じゃない。空を飛ぶ首輪だ」
カイの声は、だんだん細くなっていた。
黒竜セイファが、低く喉を鳴らす。
リリアの手の中で、竜心が弱く跳ねた。
その瞬間、指先から何かが流れ込んできた。
炎。
鎖。
狭い石室。
まだ少年だったカイが、台の上に縛られている。
横には、まだ若い黒竜がいる。翼を折られ、口を金具で塞がれている。
二つの胸から赤い光が引き出され、一つの結晶へ縫い込まれていく。
少年が叫ぶ。
竜も叫ぶ。
誰も止めない。
「今のは」
リリアは息を呑んだ。
「見えたか」
「あなたの記憶?」
「俺だけじゃない。セイファの記憶も混じる」
「嘘です」
「そう思いたいなら思え。俺だって、できるなら嘘だったことにしたい」
リリアは竜心から手を離そうとした。
けれど、その瞬間、別の記憶が流れ込んだ。
青い空。
まだ小さな黒竜が、崖の上で翼を広げている。
隣には、さらに大きな黒竜がいた。母竜だと、なぜか分かった。
幼いセイファは飛ぶのが下手だった。風に押され、岩に足をぶつけ、それでも何度も翼を広げる。母竜は低く喉を鳴らし、空へ戻るたびに待っていた。
その記憶には、炎の匂いがなかった。
あったのは風だった。
高い空と、濡れた岩と、母竜の翼の下の温かさ。
次の瞬間、空が赤く裂けた。
帝国兵が来る。
弩が放たれる。
鎖が投げられる。
母竜が吠えた。
幼いセイファを隠すように翼を広げる。
だが翼は燃え、黒い体が崖から落ちる。
セイファは叫ぶ。
人の言葉ではない。
それでも意味は分かった。
母を呼んでいた。
リリアは竜心を落としかけた。
カイが呻いた。
「落とすなって言っただろ」
リリアは慌てて竜心を抱え直した。
指が震えている。
記憶は一瞬だった。
けれど、嘘には見えなかった。
嘘なら、あんな痛みまで伝わるはずがない。
黒竜セイファが、首をリリアへ近づけた。
兵士たちが槍を構える。
「下がれ!」
「待って!」
リリアは叫んだ。
自分でも驚くほど強い声だった。
セイファは攻撃しなかった。
ただ、リリアの手の中の竜心へ鼻先を寄せた。
焦げた鱗の匂い。
血の匂い。
その奥に、雨に濡れた土のような匂いがした。
リリアは、竜を怪物だと思っていた。
だが目の前の黒竜は、怪物というにはあまりにも疲れ果てていた。
それでも、胸の奥で別の声がした。
ルネ村は戻らない。
母は戻らない。
焼かれた麦畑も、井戸も、あの日の空も戻らない。
セイファがかわいそうだからといって、竜の炎に焼かれた人々が救われるわけではない。
リリアは歯を食いしばった。
許せるわけではない。
それでも。
この命をもう一度鎖へ渡していい理由には、ならなかった。
*
「竜心を渡せ」
野営地へ戻ると、グレイン大佐は開口一番そう言った。
カイは拘束具で手足を縛られ、兵士二人に支えられている。セイファは岩場に残された。王国の監視兵が囲んでいる。
リリアは竜心を布に包み、胸元に抱えていた。
「大佐。これは竜の心臓ではありません」
「見れば分かる。竜核だろう。帝国の技術だ」
「カイ・ルクスの命と繋がっています」
「なら、なおさら価値がある」
リリアは返事を失った。
大佐は机の上に地図を広げていた。
そこには、帝国の竜騎兵部隊の配置と、王国の砲台予定地が記されている。赤い駒は帝国の竜。白い駒は王国の砲列。そして地図の端には、まだ空白の駒が置かれていた。
竜を持つ王国。
そう書かれるはずの空白だった。
「王都の解析炉へ送る。仕組みが分かれば、こちらも竜を使える」
「使う?」
「守るためだ」
大佐は当然のように言った。
「帝国の竜に街を焼かれたくなければ、こちらも竜を持つしかない」
その理屈は、正しいように聞こえた。
もしアルバ王国にも竜がいたなら。
もし空から来る炎を、空で止められていたなら。
ルネ村は焼かれなかったかもしれない。
母は井戸の石陰へリリアを押し込まずに済んだかもしれない。
銀の髪留めを、灰の中から拾わずに済んだかもしれない。
その考えが、ほんの一瞬、リリアの中に浮かんだ。
浮かんでしまった。
リリアは自分の心にぞっとした。
守るため。
そう言えば、縛ることも正しく聞こえる。
民のため。
そう言えば、誰かの心臓を炉に入れることも必要に見える。
帝国も、きっと同じ言葉を使ったのではないか。
「帝国と同じことをするのですか?」
「違う。我々は民を守る」
「彼らも、そう言っていたのでは?」
天幕の空気が冷えた。
大佐の目が細くなる。
「リリア・アステル。君は誰に砲を向けている?」
「敵にです」
「なら迷うな。竜騎士は敵だ。黒竜も敵だ。その心臓は戦利品だ」
カイが笑った。
乾いた笑いだった。
「言葉だけ変えても、鎖は鎖だな」
大佐が彼を見た。
「黙れ、帝国兵」
「俺を帝国兵と呼ぶな」
カイの声が低くなった。
「帝国は俺の心臓を竜に縫い込んだ。王国はそれを炉に入れる。どっちも、俺を人間として見ていない」
「人間でいたければ、竜に乗るべきではなかったな」
その言葉に、リリアは思わず大佐を見た。
カイの顔から表情が消える。
「選んだと思うか?」
大佐は答えなかった。
外で、鋭い角笛が鳴った。
敵襲の合図。
兵士が天幕へ飛び込んでくる。
「帝国の回収部隊です! 北の森から接近!」
カイが顔を上げた。
「早すぎる」
「知っていたのですか?」
リリアが尋ねる。
「竜心は塔に呼ばれる。長く離せば、帝国は場所を追える」
「何をしに来るのですか?」
「俺とセイファを回収する」
カイは一度だけ目を閉じた。
「使えなければ、処分する」
大佐は即座に命じた。
「竜心を地下保管庫へ。竜騎士は尋問後に処分。砲術隊、迎撃準備!」
兵士がリリアの前へ出る。
「竜心を」
リリアは布包みを差し出しかけた。
王国軍人としては、それが正しい。
敵の技術を確保する。
敵兵を捕らえる。
敵の回収部隊を退ける。
ずっと教えられてきた答えだった。
だが、布の下で竜心が震えた。
弱く。
怖がるように。
リリアの指先へ、また記憶が流れ込む。
夜の空。
セイファの背。
カイは手綱を握っていない。
銀の鎖が、彼の背骨から竜の鱗へ伸びている。
地上には、小さな村。
命令が塔から流れる。
焼け。
カイが歯を食いしばる。
セイファの喉が赤く光る。
嫌だ。
彼の声か、竜の声か分からない。
それでも炎は落ちる。
リリアは布包みを握り締めた。
ルネ村。
母の髪留め。
焼けた麦。
リリアの憎しみの中心にいたはずの敵は、同じ炎の中で焼かれていた。
許せるわけではない。
けれど、渡していいわけでもない。
「アステル」
大佐が言った。
「命令だ。竜心を渡せ」
リリアは顔を上げた。
「できません」
一瞬、誰も動かなかった。
大佐の声が低くなる。
「今、何と言った?」
「これは戦利品ではありません」
リリアは竜心を胸に抱えた。
「命です」
兵士が彼女の腕を掴もうとした。
リリアは腰の小型火薬筒を抜き、床へ投げた。
白い煙が天幕を満たす。
「拘束具を外して!」
「誰に言ってる?」
カイが咳き込みながら言う。
「あなた以外に縛られている人がいますか?」
「敵に背中を向けるなと習わなかったのか?」
「今のところ、背中から命令してくるのは味方です」
カイが一瞬だけ目を見開いた。
それから笑った。
今度は、ほんの少しだけ本物の笑いだった。
リリアは兵士の腰から鍵を奪い、カイの拘束具を外した。
彼は立ち上がろうとして、膝をつく。
リリアは竜心を彼へ差し出した。
「返せば動けますか?」
「完全には無理だ。塔の鎖が残っている」
「少しは?」
「君を巻き込んで逃げる程度なら」
「少しでも動けるなら十分です」
「十分じゃない。けれど、今はそれしかない」
天幕の外で銃声が響いた。
王国兵と帝国の回収部隊がぶつかったのだ。
リリアは竜心をカイの胸元へ押し当てた。
赤い光が彼の皮膚の下へ走る。
カイが歯を食いしばり、声を殺した。
「痛むのですか?」
「生きてる感じがする」
「それは、痛むという意味?」
「だいたい同じだ」
リリアは彼の腕を肩へ回した。
「セイファのところへ戻ります」
「撃った本人が?」
「撃った責任があります」
「責任で敵を助けるのか?」
「助けるとは言っていません」
リリアは煙の中から、竜落砲の予備弾を掴んだ。
「帝国にも王国にも渡さないだけです」
*
黒竜セイファの周囲では、戦闘が始まっていた。
帝国の回収部隊は、銀の仮面をつけていた。
彼らは竜を見ても怯えない。
槍ではなく、鎖を持っている。
その鎖の先には青白い火が灯っていた。
「再拘束用の鎖杭だ」
カイが低く言った。
「刺されば、セイファはまた塔に引き戻される」
「避けられますか?」
「片翼が死んでる。走るのがやっとだ」
「なら、走らせます」
鎖杭の一本が、セイファの前脚へ飛んだ。
青白い火をまとった杭が鱗に触れた瞬間、セイファの体が大きく跳ねる。
リリアの手の中で、竜心が悲鳴のように震えた。
「刺さったらどうなるのですか?」
「塔の命令が直接入る。今度は自分で歩くこともできなくなる」
「最悪ですね」
「だから言っただろ」
リリアは短筒を構え直した。
標的は鎖杭を投げた帝国兵ではない。
杭と鎖を繋ぐ、細い金具。
火薬筒一発分の反動が肩へ食い込む。
金具が弾け、鎖が雪の上へ落ちた。
帝国兵が驚いて振り返る。
リリアはもう次を狙っていた。
撃つ。
鎖を断つ。
また撃つ。
竜を殺すために覚えた角度、距離、風の読み方が、今は竜を逃がすために使われていた。
「リリア!」
背後から、王国の兵士が叫んだ。
砲術隊の同期、エレンだった。火薬庫で何度も怒られ、一緒に夜明けの訓練をした相手だ。
「戻って! 大佐に逆らえば反逆になる!」
リリアは振り向かなかった。
振り向けば、足が止まる気がした。
「エレン、撃たないで」
「撃てるわけないでしょ!」
その声が震えていた。
リリアは少しだけ目を閉じた。
味方を捨てたいわけではない。
国を憎んだわけでもない。
ただ、命を物として渡すことだけは、もう選べなかった。
リリアは竜落砲の予備弾を肩撃ち用の短筒へ込めた。
本来は緊急時に竜の喉を撃つための武器だ。
照準を合わせる。
セイファではない。
帝国兵でもない。
岩壁だった。
「何を狙っている?」
「道を作ります」
リリアは引き金を引いた。
岩壁が砕け、土砂と雪が崩れ落ちる。王国兵と帝国兵の間に白い煙が上がり、視界が断たれた。
「セイファ!」
カイが叫んだ。
黒竜が反応する。
巨体が動くたび、地面が揺れた。
リリアは初めて、竜に向かって撃たずに走った。
セイファの金色の目が彼女を見る。
怖かった。
当然だ。
八年前からずっと、竜は恐怖そのものだった。
それでもリリアは、竜心を戻したばかりのカイを支え、黒竜の首元へ向かった。
セイファが翼を低く下げる。
乗れ、というように。
「乗るのですか?」
「乗らないと死ぬ」
「あなた、さっき十分じゃないと言いましたよね?」
「訂正する。最悪だが他よりましだ」
リリアはカイを押し上げ、自分もセイファの背へよじ登った。
鱗は熱く、血で滑った。
手綱はなかった。
代わりに、銀の鎖の残骸が垂れている。
リリアはそれに触れようとして、カイに止められた。
「触るな。命令が流れる」
「では、どこを持てば?」
「俺」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
戦場の真ん中で、リリアは信じられないものを見る目で彼を見た。
カイは耳まで赤くする余裕もなさそうだった。
「落ちたければ別だ」
「……失礼します」
リリアは彼の軍服を掴んだ。
セイファが走り出す。
飛ぶことはできなかった。
片翼を引きずり、足を血で染めながら、それでも黒竜は森へ向かって駆けた。
背後でグレイン大佐の声が響く。
「リリア・アステル! 戻れ!」
帝国の回収部隊も叫ぶ。
「竜心を確保しろ!」
王国の砲口がこちらへ向く。
帝国の鎖が地を這う。
リリアは初めて、どちらの旗も同じように恐ろしいと思った。
森の入口へ差しかかったとき、カイが前方を指した。
「西へ行くな。王国の砲台がある」
「では?」
「北東。契鎖塔へ向かう」
「敵の本拠地では?」
「塔を壊さない限り、セイファは逃げてもまた捕まる。俺も同じだ」
「壊す方法は?」
カイはリリアの方を見た。
「君が、竜を撃ち落とした砲で撃つ」
リリアは息を呑んだ。
自分が竜を殺すために磨いてきた技術。
家族を奪った空を憎み続けた時間。
そのすべてを、今度は竜を自由にするために使う。
森が二人と一頭を飲み込んだ。
背後の戦場の音が、枝葉に遮られて遠ざかる。
リリアはカイの背を掴んだまま、胸の中で脈打つ竜心の音を聞いていた。
彼の心臓。
竜の心臓。
そして、自分が撃ち落とした命の続き。
「後悔するぞ」
カイが前を向いたまま言った。
「もうしています」
リリアは答えた。
「でも、渡すよりはましです」
黒竜セイファが、低く鳴いた。
それは咆哮ではなかった。
傷ついた獣が、それでも前へ進むために吐く息だった。
リリアは空を見た。
もう黒竜は太陽を隠していない。
その代わり、遠く北東の空に、細い塔が立っていた。
銀色の鎖を空へ伸ばす、帝国の契鎖塔。
前方には、敵国。
背後には、味方だった砲口。
そしてリリアの手には、まだ温かい命の重さが残っていた。
その日、私は敵国の竜を撃ち落とした。
けれど本当に落ちたのは、竜ではなかった。
敵を敵のまま憎めると思っていた、私の心の方だった。




