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敵国の竜を撃ち落とした日、私は彼の心臓を拾った  作者: ありんこ


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1/2

【前編】空から落ちたもの

敵国の竜を撃ち落とした日、私は彼の心臓を拾った。


空は、黒く燃えていた。


雲ではない。


ヴァルカ帝国の黒竜(こくりゅう)が、翼で太陽を隠していた。


竜の影が、戦場を夜に変える。


アルバ王国軍の前線は崩れかけていた。砦の石壁は赤く溶け、草地は黒い灰になり、馬は手綱を噛み切って逃げようとしている。兵士たちは盾を掲げていたが、炎は盾の隙間から入り込み、鎧の内側まで熱を伝えた。


「竜が旋回します!」


観測兵(かんそくへい)の叫びに、リリア・アステルは照準器(しょうじゅんき)を覗いた。


息を止める。


肩に食い込む砲台の革帯。


焦げた鉄の匂い。


指先に伝わる竜落砲(りゅうらくほう)の震え。


それらを一つずつ遠ざけ、視界の中央に黒竜だけを置く。


「距離」


「八百二十!」


「風」


「西から二。炎流あり!」


竜杭弾(りゅうこうだん)装填(そうてん)


「装填済み!」


返事を聞き、リリアは引き金へ指をかけた。


彼女はアルバ王国軍の砲術士(ほうじゅつし)だった。


ただの砲ではない。


竜を撃ち落とすためだけに作られた対竜兵器(たいりゅうへいき)、竜落砲。


竜の鱗を貫き、骨へ杭を打ち込み、飛ぶ力そのものを奪う砲。


その砲口を任されてから、リリアは三頭の竜を落としている。


味方は彼女を、竜落としのリリアと呼んだ。


誇らしい名だと、誰かは言った。


リリアは、そう思ったことがない。


竜を落とすたび、故郷の匂いを思い出すからだ。


焼けた麦。


溶けた井戸。


灰の中から見つけた、母の銀の髪留め。


八年前、ルネ村を焼いたのも竜だった。


その日も、空は黒かった。


太陽が消えたのだと思った。


けれど見上げた空にあったのは雲ではなく、巨大な翼だった。竜の影が村を覆い、次の瞬間、炎が落ちた。


火は人を選ばなかった。


老人も、子どもも、祈る者も、逃げる者も、同じ色に焼いた。


母はリリアを井戸の石陰へ押し込み、髪留めだけを残して戻らなかった。


それ以来、リリアは空を好きになれない。


青すぎる空を見ると、次に黒い翼が来る気がする。


王国軍へ志願したとき、誰もが彼女を勇敢だと言った。


違う。


リリアは勇敢だったのではない。


空を見上げるたびに震える自分を、地面へ縫い止めておく方法が欲しかっただけだ。


竜落砲は、そのための重しだった。


だからリリアは竜を撃つ。


敵だからではない。


空から命を選ばず焼くものを、許せないからだ。


黒竜が翼を傾けた。


その背には、帝国の竜騎士(りゅうきし)がいるはずだった。


黒い鞍。


銀の手綱。


竜を操り、炎を命じる者。


リリアは何度も、その姿を夢に見て殺してきた。


「今です!」


観測兵が叫ぶ。


黒竜の胸が開いた。


炎を吐く前の一瞬。


竜落砲が、咆哮(ほうこう)した。


鉄の杭が空を裂く。


火薬の衝撃で、リリアの肩が後ろへ跳ねた。


黒竜の胸に、白い光が刺さる。


次の瞬間、空が割れたような悲鳴が響いた。


竜の悲鳴。


聞き慣れているはずだった。


けれど、その声は違った。


怒りではない。


痛みだけでもない。


誰かの名を呼ぶような声だった。


黒竜は炎を吐かなかった。


落ちながら、翼を広げた。


その下には、白い布を張った野営病舎(やえいびょうしゃ)があった。王国軍の負傷兵が運び込まれている場所だ。


黒竜は、そこを避けた。


巨大な体を無理にねじり、岩場へ向かって落ちていく。


翼が折れる。


尾が地面を叩く。


黒い鱗が砕け、炎ではなく赤い血が雪混じりの泥へ広がった。


王国軍から歓声が上がる。


「落ちたぞ!」


「竜落としだ!」


「リリアがまたやった!」


誰かが彼女の肩を叩いた。


けれどリリアは、照準器から目を離せなかった。


なぜ、病舎を避けた。


竜が。


敵が。


炎を吐けたはずの怪物が。



黒竜の墜落地点は、砦の北にある岩場だった。


リリアは確認班(かくにんはん)と共に、そこへ向かった。


グレイン大佐からは、竜騎士が生きていれば殺すなと言われている。


捕虜にするためではない。


竜の制御法を吐かせるためだ。


「心臓は傷つけるな」


出発前、グレイン大佐はそう命じた。


「竜の心臓は王都へ送る。帝国だけに空を支配させる時代は終わりだ」


リリアは頷いた。


その言葉に、少しだけ引っかかりを覚えながら。


岩場へ近づくほど、空気が熱くなった。


黒竜は死んでいなかった。


片翼は折れ、胸には竜杭弾が深く刺さっている。喉から漏れる息は、火の粉ではなく濡れた音を立てていた。


それでもその目は、リリアを見ていた。


金色の瞳。


憎しみではない。


懇願(こんがん)に近い色だった。


「撃ちますか?」


兵士が小声で聞く。


リリアは首を振った。


「まだ動かないで」


「しかし」


「撃つなと言いました」


自分でも、なぜ止めたのか分からなかった。


黒竜の胸の下で、何かが光った。


竜杭弾が貫いた傷口から、赤い結晶(けっしょう)のようなものがこぼれている。


大きさは、リリアの両手に収まるほど。


表面には細い血管のような光が走り、脈を打っていた。


竜の心臓。


そう思った。


リリアは手袋を外し、それを拾い上げた。


温かかった。


石ではない。


金属でもない。


生きている。


どくん、と指の中で震えた瞬間、岩陰から男の声がした。


「触るな」


リリアは振り向き、短銃を抜いた。


黒竜の首元に、一人の青年が倒れていた。


帝国の軍服は裂け、右肩から胸にかけて銀色の鎖が食い込んでいる。髪は灰色がかった黒。顔は血と(すす)で汚れていた。


だが、その目だけははっきりしていた。


「それを、握るな」


リリアは結晶を持つ手に力を込めた。


青年が苦しげに息を詰める。


まるで、リリアが彼の喉を締めたかのように。


「あなたが竜騎士?」


「……カイ・ルクス」


「所属は?」


「ヴァルカ帝国、第九竜騎兵隊(りゅうきへいたい)


「では敵ですね」


「そうだ」


カイは黒竜の方へ目を向けた。


「でも、そいつは敵じゃない」


リリアは笑いそうになった。


「竜が敵じゃない?」


「名前はセイファだ」


「名前があれば、焼いた村が戻るのですか?」


カイの表情が動いた。


痛みではなく、別のものが走ったように見えた。


「戻らない」


「なら、黙ってください」


「黙る。だから、それを落とすな」


リリアは手の中の結晶を見た。


「これは竜の心臓でしょう」


「違う」


カイは震える手を伸ばした。


「それは、俺の心臓だ」


周囲の兵士たちがざわめいた。


リリアは眉を寄せる。


「ふざけないで」


「ふざける力が残ってるように見えるか?」


「人間の心臓が、竜の胸にあるわけがない」


「帝国ならやる」


カイは笑った。


笑ったというより、痛みに息が漏れただけだった。


契鎖術(けいさじゅつ)だ。竜と騎士を一つの兵器にする。命を混ぜて、命令を流す。竜が逆らえば騎士が焼ける。騎士が逆らえば竜が裂ける」


リリアは結晶を見つめた。


「あなたが竜を操っていたのではないのですか?」


「操れるなら、こんな場所に落ちてない」


「なら、あの炎は誰が吐かせたのですか?」


「塔だ」


「塔?」


契鎖塔(けいさとう)。帝国の命令を竜心(りゅうしん)へ流す塔。俺たちは騎士じゃない。空を飛ぶ首輪だ」


カイの声は、だんだん細くなっていた。


黒竜セイファが、低く喉を鳴らす。


リリアの手の中で、竜心が弱く跳ねた。


その瞬間、指先から何かが流れ込んできた。


炎。


鎖。


狭い石室。


まだ少年だったカイが、台の上に縛られている。


横には、まだ若い黒竜がいる。翼を折られ、口を金具で塞がれている。


二つの胸から赤い光が引き出され、一つの結晶へ縫い込まれていく。


少年が叫ぶ。


竜も叫ぶ。


誰も止めない。


「今のは」


リリアは息を呑んだ。


「見えたか」


「あなたの記憶?」


「俺だけじゃない。セイファの記憶も混じる」


「嘘です」


「そう思いたいなら思え。俺だって、できるなら嘘だったことにしたい」


リリアは竜心から手を離そうとした。


けれど、その瞬間、別の記憶が流れ込んだ。


青い空。


まだ小さな黒竜が、崖の上で翼を広げている。


隣には、さらに大きな黒竜がいた。母竜だと、なぜか分かった。


幼いセイファは飛ぶのが下手だった。風に押され、岩に足をぶつけ、それでも何度も翼を広げる。母竜は低く喉を鳴らし、空へ戻るたびに待っていた。


その記憶には、炎の匂いがなかった。


あったのは風だった。


高い空と、濡れた岩と、母竜の翼の下の温かさ。


次の瞬間、空が赤く裂けた。


帝国兵が来る。


(いしゆみ)が放たれる。


鎖が投げられる。


母竜が吠えた。


幼いセイファを隠すように翼を広げる。


だが翼は燃え、黒い体が崖から落ちる。


セイファは叫ぶ。


人の言葉ではない。


それでも意味は分かった。


母を呼んでいた。


リリアは竜心を落としかけた。


カイが呻いた。


「落とすなって言っただろ」


リリアは慌てて竜心を抱え直した。


指が震えている。


記憶は一瞬だった。


けれど、嘘には見えなかった。


嘘なら、あんな痛みまで伝わるはずがない。


黒竜セイファが、首をリリアへ近づけた。


兵士たちが槍を構える。


「下がれ!」


「待って!」


リリアは叫んだ。


自分でも驚くほど強い声だった。


セイファは攻撃しなかった。


ただ、リリアの手の中の竜心へ鼻先を寄せた。


焦げた鱗の匂い。


血の匂い。


その奥に、雨に濡れた土のような匂いがした。


リリアは、竜を怪物だと思っていた。


だが目の前の黒竜は、怪物というにはあまりにも疲れ果てていた。


それでも、胸の奥で別の声がした。


ルネ村は戻らない。


母は戻らない。


焼かれた麦畑も、井戸も、あの日の空も戻らない。


セイファがかわいそうだからといって、竜の炎に焼かれた人々が救われるわけではない。


リリアは歯を食いしばった。


許せるわけではない。


それでも。


この命をもう一度鎖へ渡していい理由には、ならなかった。



「竜心を渡せ」


野営地へ戻ると、グレイン大佐は開口一番そう言った。


カイは拘束具(こうそくぐ)で手足を縛られ、兵士二人に支えられている。セイファは岩場に残された。王国の監視兵が囲んでいる。


リリアは竜心を布に包み、胸元に抱えていた。


「大佐。これは竜の心臓ではありません」


「見れば分かる。竜核(りゅうかく)だろう。帝国の技術だ」


「カイ・ルクスの命と繋がっています」


「なら、なおさら価値がある」


リリアは返事を失った。


大佐は机の上に地図を広げていた。


そこには、帝国の竜騎兵部隊の配置と、王国の砲台予定地が記されている。赤い駒は帝国の竜。白い駒は王国の砲列。そして地図の端には、まだ空白の駒が置かれていた。


竜を持つ王国。


そう書かれるはずの空白だった。


「王都の解析炉(かいせきろ)へ送る。仕組みが分かれば、こちらも竜を使える」


「使う?」


「守るためだ」


大佐は当然のように言った。


「帝国の竜に街を焼かれたくなければ、こちらも竜を持つしかない」


その理屈は、正しいように聞こえた。


もしアルバ王国にも竜がいたなら。


もし空から来る炎を、空で止められていたなら。


ルネ村は焼かれなかったかもしれない。


母は井戸の石陰へリリアを押し込まずに済んだかもしれない。


銀の髪留めを、灰の中から拾わずに済んだかもしれない。


その考えが、ほんの一瞬、リリアの中に浮かんだ。


浮かんでしまった。


リリアは自分の心にぞっとした。


守るため。


そう言えば、縛ることも正しく聞こえる。


民のため。


そう言えば、誰かの心臓を炉に入れることも必要に見える。


帝国も、きっと同じ言葉を使ったのではないか。


「帝国と同じことをするのですか?」


「違う。我々は民を守る」


「彼らも、そう言っていたのでは?」


天幕の空気が冷えた。


大佐の目が細くなる。


「リリア・アステル。君は誰に砲を向けている?」


「敵にです」


「なら迷うな。竜騎士は敵だ。黒竜も敵だ。その心臓は戦利品だ」


カイが笑った。


乾いた笑いだった。


「言葉だけ変えても、鎖は鎖だな」


大佐が彼を見た。


「黙れ、帝国兵」


「俺を帝国兵と呼ぶな」


カイの声が低くなった。


「帝国は俺の心臓を竜に縫い込んだ。王国はそれを炉に入れる。どっちも、俺を人間として見ていない」


「人間でいたければ、竜に乗るべきではなかったな」


その言葉に、リリアは思わず大佐を見た。


カイの顔から表情が消える。


「選んだと思うか?」


大佐は答えなかった。


外で、鋭い角笛が鳴った。


敵襲の合図。


兵士が天幕へ飛び込んでくる。


「帝国の回収部隊(かいしゅうぶたい)です! 北の森から接近!」


カイが顔を上げた。


「早すぎる」


「知っていたのですか?」


リリアが尋ねる。


「竜心は塔に呼ばれる。長く離せば、帝国は場所を追える」


「何をしに来るのですか?」


「俺とセイファを回収する」


カイは一度だけ目を閉じた。


「使えなければ、処分する」


大佐は即座に命じた。


「竜心を地下保管庫へ。竜騎士は尋問後に処分。砲術隊、迎撃準備!」


兵士がリリアの前へ出る。


「竜心を」


リリアは布包みを差し出しかけた。


王国軍人としては、それが正しい。


敵の技術を確保する。


敵兵を捕らえる。


敵の回収部隊を退ける。


ずっと教えられてきた答えだった。


だが、布の下で竜心が震えた。


弱く。


怖がるように。


リリアの指先へ、また記憶が流れ込む。


夜の空。


セイファの背。


カイは手綱を握っていない。


銀の鎖が、彼の背骨から竜の鱗へ伸びている。


地上には、小さな村。


命令が塔から流れる。


焼け。


カイが歯を食いしばる。


セイファの喉が赤く光る。


嫌だ。


彼の声か、竜の声か分からない。


それでも炎は落ちる。


リリアは布包みを握り締めた。


ルネ村。


母の髪留め。


焼けた麦。


リリアの憎しみの中心にいたはずの敵は、同じ炎の中で焼かれていた。


許せるわけではない。


けれど、渡していいわけでもない。


「アステル」


大佐が言った。


「命令だ。竜心を渡せ」


リリアは顔を上げた。


「できません」


一瞬、誰も動かなかった。


大佐の声が低くなる。


「今、何と言った?」


「これは戦利品ではありません」


リリアは竜心を胸に抱えた。


「命です」


兵士が彼女の腕を掴もうとした。


リリアは腰の小型火薬筒を抜き、床へ投げた。


白い煙が天幕を満たす。


「拘束具を外して!」


「誰に言ってる?」


カイが咳き込みながら言う。


「あなた以外に縛られている人がいますか?」


「敵に背中を向けるなと習わなかったのか?」


「今のところ、背中から命令してくるのは味方です」


カイが一瞬だけ目を見開いた。


それから笑った。


今度は、ほんの少しだけ本物の笑いだった。


リリアは兵士の腰から鍵を奪い、カイの拘束具を外した。


彼は立ち上がろうとして、膝をつく。


リリアは竜心を彼へ差し出した。


「返せば動けますか?」


「完全には無理だ。塔の鎖が残っている」


「少しは?」


「君を巻き込んで逃げる程度なら」


「少しでも動けるなら十分です」


「十分じゃない。けれど、今はそれしかない」


天幕の外で銃声が響いた。


王国兵と帝国の回収部隊がぶつかったのだ。


リリアは竜心をカイの胸元へ押し当てた。


赤い光が彼の皮膚の下へ走る。


カイが歯を食いしばり、声を殺した。


「痛むのですか?」


「生きてる感じがする」


「それは、痛むという意味?」


「だいたい同じだ」


リリアは彼の腕を肩へ回した。


「セイファのところへ戻ります」


「撃った本人が?」


「撃った責任があります」


「責任で敵を助けるのか?」


「助けるとは言っていません」


リリアは煙の中から、竜落砲の予備弾を掴んだ。


「帝国にも王国にも渡さないだけです」



黒竜セイファの周囲では、戦闘が始まっていた。


帝国の回収部隊は、銀の仮面をつけていた。


彼らは竜を見ても怯えない。


槍ではなく、鎖を持っている。


その鎖の先には青白い火が灯っていた。


「再拘束用の鎖杭(さこう)だ」


カイが低く言った。


「刺されば、セイファはまた塔に引き戻される」


「避けられますか?」


「片翼が死んでる。走るのがやっとだ」


「なら、走らせます」


鎖杭の一本が、セイファの前脚へ飛んだ。


青白い火をまとった杭が鱗に触れた瞬間、セイファの体が大きく跳ねる。


リリアの手の中で、竜心が悲鳴のように震えた。


「刺さったらどうなるのですか?」


「塔の命令が直接入る。今度は自分で歩くこともできなくなる」


「最悪ですね」


「だから言っただろ」


リリアは短筒(たんづつ)を構え直した。


標的は鎖杭を投げた帝国兵ではない。


杭と鎖を繋ぐ、細い金具。


火薬筒一発分の反動が肩へ食い込む。


金具が弾け、鎖が雪の上へ落ちた。


帝国兵が驚いて振り返る。


リリアはもう次を狙っていた。


撃つ。


鎖を断つ。


また撃つ。


竜を殺すために覚えた角度、距離、風の読み方が、今は竜を逃がすために使われていた。


「リリア!」


背後から、王国の兵士が叫んだ。


砲術隊の同期、エレンだった。火薬庫で何度も怒られ、一緒に夜明けの訓練をした相手だ。


「戻って! 大佐に逆らえば反逆になる!」


リリアは振り向かなかった。


振り向けば、足が止まる気がした。


「エレン、撃たないで」


「撃てるわけないでしょ!」


その声が震えていた。


リリアは少しだけ目を閉じた。


味方を捨てたいわけではない。


国を憎んだわけでもない。


ただ、命を物として渡すことだけは、もう選べなかった。


リリアは竜落砲の予備弾を肩撃ち用の短筒へ込めた。


本来は緊急時に竜の喉を撃つための武器だ。


照準を合わせる。


セイファではない。


帝国兵でもない。


岩壁だった。


「何を狙っている?」


「道を作ります」


リリアは引き金を引いた。


岩壁が砕け、土砂と雪が崩れ落ちる。王国兵と帝国兵の間に白い煙が上がり、視界が断たれた。


「セイファ!」


カイが叫んだ。


黒竜が反応する。


巨体が動くたび、地面が揺れた。


リリアは初めて、竜に向かって撃たずに走った。


セイファの金色の目が彼女を見る。


怖かった。


当然だ。


八年前からずっと、竜は恐怖そのものだった。


それでもリリアは、竜心を戻したばかりのカイを支え、黒竜の首元へ向かった。


セイファが翼を低く下げる。


乗れ、というように。


「乗るのですか?」


「乗らないと死ぬ」


「あなた、さっき十分じゃないと言いましたよね?」


「訂正する。最悪だが他よりましだ」


リリアはカイを押し上げ、自分もセイファの背へよじ登った。


(うろこ)は熱く、血で滑った。


手綱はなかった。


代わりに、銀の鎖の残骸が垂れている。


リリアはそれに触れようとして、カイに止められた。


「触るな。命令が流れる」


「では、どこを持てば?」


「俺」


一瞬だけ沈黙が落ちた。


戦場の真ん中で、リリアは信じられないものを見る目で彼を見た。


カイは耳まで赤くする余裕もなさそうだった。


「落ちたければ別だ」


「……失礼します」


リリアは彼の軍服を掴んだ。


セイファが走り出す。


飛ぶことはできなかった。


片翼を引きずり、足を血で染めながら、それでも黒竜は森へ向かって駆けた。


背後でグレイン大佐の声が響く。


「リリア・アステル! 戻れ!」


帝国の回収部隊も叫ぶ。


「竜心を確保しろ!」


王国の砲口がこちらへ向く。


帝国の鎖が地を這う。


リリアは初めて、どちらの旗も同じように恐ろしいと思った。


森の入口へ差しかかったとき、カイが前方を指した。


「西へ行くな。王国の砲台がある」


「では?」


「北東。契鎖塔へ向かう」


「敵の本拠地では?」


「塔を壊さない限り、セイファは逃げてもまた捕まる。俺も同じだ」


「壊す方法は?」


カイはリリアの方を見た。


「君が、竜を撃ち落とした砲で撃つ」


リリアは息を呑んだ。


自分が竜を殺すために磨いてきた技術。


家族を奪った空を憎み続けた時間。


そのすべてを、今度は竜を自由にするために使う。


森が二人と一頭を飲み込んだ。


背後の戦場の音が、枝葉に遮られて遠ざかる。


リリアはカイの背を掴んだまま、胸の中で脈打つ竜心の音を聞いていた。


彼の心臓。


竜の心臓。


そして、自分が撃ち落とした命の続き。


「後悔するぞ」


カイが前を向いたまま言った。


「もうしています」


リリアは答えた。


「でも、渡すよりはましです」


黒竜セイファが、低く鳴いた。


それは咆哮ではなかった。


傷ついた獣が、それでも前へ進むために吐く息だった。


リリアは空を見た。


もう黒竜は太陽を隠していない。


その代わり、遠く北東の空に、細い塔が立っていた。


銀色の鎖を空へ伸ばす、帝国の契鎖塔。


前方には、敵国。


背後には、味方だった砲口。


そしてリリアの手には、まだ温かい命の重さが残っていた。


その日、私は敵国の竜を撃ち落とした。


けれど本当に落ちたのは、竜ではなかった。


敵を敵のまま憎めると思っていた、私の心の方だった。

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