不思議がいっぱい魔王城
朝、リリィは陽光の眩しさに手を翳して目を細めた。
基本的にはどこも薄暗い魔王城だが、木々の影が届かない上階では比較的日当たりの良い部屋もある。そんな場所で眠り込んでしまったリリィは、陽の光に無理矢理叩き起こされたようなものだった。
ただ、彼女はとても寝起きが良かった。すぐに起き上がって伸びをし——目の前に広がる光景に違和感を感じて、首を傾げる。
「…………あれ?」
部屋の様相が、昨日とはまるっきり変わっていた。
◇
人影のない広い城内をあちこち探検気分で散歩がてら、ヴァルクを探して魔力の気配を辿っているうちに、リリィは地下への階段を見つけた。
鍵はかかっておらず、念のためひと声かけてから階段を降りていく。暗さを増した地下でも特に気にすることなく歩みを進めると、広い部屋に行き着いた。
その一角で明かりが灯っているのが視界に入り、ようやく見つけた相手に向かって、リリィはたいそう爽やかな挨拶をしてみせた。
「おはようございます魔王さま!」
そこは広い書庫だった。
リリィの背丈ではどうにも全体を見渡すことはできないが、おそらく見えているよりも更に奥行きがあるであろう地下の部屋には、数えきれないほどの本がいくつもの棚に並んでいる。
これほど膨大な数の本を目にしたことがないリリィにはとても興味をそそられるもので、許されるのなら一つ一つの棚を見て回りたいと思うほどだった。
椅子に腰掛けていたヴァルクは、読んでいた本を膝に置いて顔を上げる。
地下の明かりは、彼の横にあるサイドテーブルに置かれたランタンのみだったが、その姿ははっきりと確認することができた。
昨夜の全身黒ずくめだった近寄りがたい装いから、黒のスラックスと、胸元をくつろげた白のワイシャツというシンプルなものに変わっている。肩にかかる長さの艶やかな黒髪は後ろでゆるく結ばれ、随分とラフな雰囲気になっていた。
昨日とはまるで違うヴァルクの姿には正直驚いたが、より話しかけやすい雰囲気になったのは、リリィにとってありがたい変化だった。
「何故ここがわかった」
「実はわたし、魔力探知が得意なのです。というか、それしか得意な魔法がなくって」
思ってもいなかった情報にヴァルクは僅かに眼を見張ったが、彼女が魔法を使った気配を事前に感じ取っていたからこそ、早々に納得もした。
「何か用でもあるのか」
手に持ったままの分厚い本をサイドテーブルに置いたヴァルクは、立ち上がってリリィの傍に歩み寄る。
百九十をゆうに超える男が近くに来ても、大きな瞳でただ見上げるだけのリリィに、怯える様子は微塵もない。肝が据わっているのか、ただ人より鈍感なのか。
威勢の良さは昨夜限定ではなかったらしく、元来の性格によるものであることが見てとれた。
結局、リリィは一晩中ぐっすり眠っていたようだった。見知らぬ場所——魔王城で。
まだ薄暗い中、小一時間ほど城を出ていたヴァルクが戻っても、リリィが去った痕跡がないことは魔力の気配でわかった。
まだこの城を出ていくつもりがないのであれば、おそらくは昨日彼女が言っていた話し合いが目的なのだろう。そう構えていたヴァルクだが、リリィは瞳を輝かせながら全く想定外なことを話し始めた。
「なんとですね、朝起きたらお借りさせていただいたお部屋が様変わりしていたのです! 魔王さまが変えてくださったのなら、お礼を伝えておきたいと思いまして」
「……なんの話をしている」
それはヴァルクにも寝耳に水だった。
◇
昨夜リリィが使っていた部屋に戻ると、フリルのかわいらしいカーテンに、天蓋付きのベッド、ドレッサーが設置され、ふわふわのラグまで敷かれていた。
それらを目にしたヴァルクは、眉間に僅かに皺を寄せた。魔王城のどこを見渡しても殺風景で冷たい印象しか受けないはずが、この部屋だけはあまりにも異質で浮いている。
部屋に手を加えた者に心当たりしかなかったが、その訳を伝えるつもりは彼にはなかった。昨日出会ったばかりの相手にどう説明したところで、事態がややこしくなるだけなのは目に見えている。
考えるまでもなく、ヴァルクは何も答えないことにした。
「礼はいい。困ることがないのなら、気にするな」
そこで話は終わりだと暗に伝えたつもりで話を切ったヴァルクは、その場で即座に踵を返した。
足早にその場を立ち去ろうとする彼を、リリィが慌てて追いかける。
反応を見るに、彼が部屋に手を加えたわけではないことは察したが、リリィもここで引くわけにはいかなかった。
なんと今朝、焼きたてのパンが寝ていた部屋のテーブルに用意されていたのだ。起きて早々にお腹が空いていたリリィは、それをありがたく頂戴してしまっていた。
「今朝起きた時に気付いたことがあるのですが、わたしがお借りした部屋に、魔王さま以外にも誰かがいたようなんです。その方が用意してくださったのでしょうか。そうだとしたらお礼を伝えたいのですが……!」
彼女が魔力探知を得意としていることを思い出したヴァルクは、同時に、それが時として非常に厄介なものだということにも気付いてしまった。
それも対象者本人だけでなく、一見何もない場所に残っている魔力の痕跡にまで反応することは、容易に想像できた。
「もしかして、昨日いただいたパンを作った方でしょうか。魔王さま以外の魔力も感じるので……。どこかにいるのかな」
ヴァルクの足が唐突に止まる。リリィが彼の服の裾を後ろから掴んでいたからだった。
彼女はヴァルクを足止めしたまま、彼とは正反対の方を向いている。そちらはまさに、ヴァルクが今行きたくない方向だった。
◇
——ヴァルクはリリィを振り払えなかった。
先程、書庫でリリィの傍に歩み寄った時もそうだ。どこまでの距離感であれば許されるのか試していた。事前に何も告げないまま距離を詰めたことを特に気にする様子もなかったリリィに、密かに安堵した。
それらは昨夜のヴァルクの心情の変化が、既に行動に出ている証でもあった。
リリィにはなにひとつ、知る由もないことだが。
魔王城を囲う敷地はそのほとんどを鬱蒼と生い茂る木々に占められている。
城から出るにも向かうにも、日中ですら薄暗い森を進むことを強いられる。もちろん、城へ辿り着くまでは舗装された道などない。平坦なところは少なく、大きな岩や倒木で塞がれて迂回を余儀なくされるような場所も多い。
しかしリリィは魔力を感じる方へ、臆することなく歩み進めていた。
「悪路には慣れているのか」
城を出てから暫く会話が途切れていたところで、唐突に話しかけられたリリィは驚きつつ、ちらりと後ろを見やった。
足取りの軽いリリィの様子を見て不思議に思ったらしい。今はそばにヴァルクがいるとはいえ、確かに、旅慣れているようにはとても見えない少女が、誰の手も借りずに歩けるようなところではない。
それほどの悪路ではあった。
「そうですね。わたしの故郷は山間を抜けた先にあるので、こういうところを歩くのはわけないんです。それに、わたしの記憶の最初は……」
そこまで言いかけて、リリィは後ろを歩くヴァルクに慌てて振り返った。
「魔獣が現れるようになってからは、森にはあまり近付かないようになったのですが」
無意識だった。
昨日出会ったばかりで仕方のないことなのだが、距離感を測りかねていたリリィはヴァルクから話しかけてくれたことが嬉しくて、つい余計なことまで口走りそうになった。
きっと彼には関心のないことだ。話す必要はないと思い、咄嗟に話を逸らしてしまった。
不自然に思われないといいけれど。そう思いつつ再びヴァルクに背を向けようとした瞬間、腕をぐっと引っ張られた。
「今、何を言いかけた」
「えっ……?」
リリィを引き止めたヴァルクが、表情を読もうとするように瞳を覗き込んだ。
まさか問い詰められるとは思っていなかったリリィは、驚きで目を丸くする。
話を逸らしたことに気付いたとはいえ、改めて問いかけたくなるような言い方をしてしまっただろうか?
なにを引き金に興味を惹かれたのか分からず困惑する彼女に、ヴァルクはそっと名を呼んだ。
「——リリィ」
初めて名前を呼ばれたと気付いたリリィだが、同時にぐわん、と脳が揺れるような感覚に襲われた。
視界ははっきりしているが、足元が覚束ず、身体の力が抜けて倒れそうになる。咄嗟にヴァルクが受け止めていなければ、きっと地面に頭を打ちつけていただろう。
ふたりは互いに見つめ合い、事態を把握しようとした。
リリィには魔力の気配が一瞬強まったことだけは気付けていたが、ただそれだけだった。
彼に名を呼ばれた瞬間から、心臓が早鐘を打っている。身体に異変が起きた要因がヴァルクだったとして、それは意図的なものには思えなかった。
何故なら、彼自身も驚いているように見えたから。
一方、ヴァルクは何かに気付いたように微かに息をのんだ。そして一言、視線を落として呟く。
「……すまない」
何を謝られたのかわからないリリィは、先ほど身に起こった不思議な現象も重なり、ただひたすらに困惑する。
バランスを崩したままのリリィを支え立たせたヴァルクは、そのまま静かに距離をとった。
纏めきれていなかった髪が彼の顔にかかり、影を落とす。
改めて見つめた魔王ヴァルクの相貌は、相手を魅了するほど美しい。それはもう、人智を超越し、目にした者を震え上がらせるほどに。
ここに来て初めて、リリィはほんの少しの恐れを感じた。
ヴァルクのことをなにひとつ知らないことに。
——知らなければ。ここまで来たからには、自分に出来うる限りのことがしたい。今まで恵まれ与えられてばかりだったのだから、誰かのためになることを、何かひとつでも成し遂げたい。
いまだおさまらない自身の鼓動を、リリィはどこか他人事のように遠くに聞きながら、視線を落としたままのヴァルクにそっと笑いかけた。
「魔王さま、あちらからいい匂いがします」
リリィが指差した木の合間から煙が見え、大きな物音が聞こえてくる。
少し歩き進めていけば、鬱蒼とした森の中には不釣り合いに思える建物が見えてきた。
唐突に切り開かれた土地の中心にポツンと立つのは、簡素だがかなり立派な丸太小屋だ。
あとから何度か増築でもしたのだろうか。通常、家と呼ばれるものにしては、かなり変わった形をしている。
丸太小屋の近くで足を止めたところで、突然、扉が開いた。
「あっ」
目の前に現れたのは、リリィより少し背の高いセピア色の髪の少女だった。




