魔女の護り
静まり返った魔王城で、黒い影が静かに移動する。とある一室の前で、それは不意に立ち止まった。
ドアが開いている。
魔力を辿って来てみれば、彼の予想通り、リリィが無防備に眠っていた。
魔王城に客人を招くことなどないため、寝室があるはずもない。そんな城内でリリィが見つけたのは、ある一室に置かれたソファだった。
その部屋に置かれているのは、窓際に寄せて置かれた大きなソファとサイドテーブルのみ。傍の窓からは城を囲う樹々を見下ろすばかりだが、見上げれば月明かりが差し込む、とても眺めのいい場所だった。
そのことに気付いたリリィは、ソファに腰掛けて外を眺めているうちに眠ってしまったらしい。
部屋に入った魔王は、ソファの背もたれ側に向かって身体を丸めて眠るリリィをただじっと見下ろす。
長めの前髪が赤い眼に被さり、その表情に昏い影を落とす。
この部屋から月はもう見えない。そろそろ朝陽が昇り始める頃だが、それにしてはまだ早い。
薄明の中、魔王は決めかねていた。目の前の魔女の処遇を。
彼が長きに渡って魔王の座に君臨し続けてきたのは、彼の能力に理由があった。
東方の魔王——ヴァルクは、血を介して相手の魔力を奪う。
それは魔力を持つ者にとって致命的となる。ヴァルクに挑んできた星持ちは、その殆どが彼に魔力を奪われた。
「んぅ……」
華奢な体が、随分と余裕のあるソファでころんと寝返りをうった。ヴァルクの側に身体が向いて、リリィの表情が見やすくなる。
何か夢でも見ているのだろうか。あどけない寝顔に、ふわりと笑みが浮かぶ。命を脅かす存在がすぐそばにいるとも知らずに。
ヴァルクはソファの傍に跪いた。
リリィがほんの僅かに身動いで、長いクリーム色の癖毛がするりと顔にかかる。くすぐったいのか、長い睫毛が微かに震える。
まるでシルクのような手触りの髪を指で掬い上げてみた。疲労が溜まっていたのか、彼女が起きる気配はない。顔にかかっていた髪を背中へよけただけで、芳しい花のような香りがした。
その下から傷ひとつないきめ細やかな肌が晒される。同時に、その腕に何かを抱えていることに気付いた。
「……本?」
重厚感のある革表紙の厚い本を、とても大事そうに抱えている。見るからに古びたその本からは、かなり強い魔力を感じた。
魔法がかけられた本というのは存在する。それ自体は珍しいものではない。だが、新米の魔女がここまで強い魔力を纏った本を大事に抱えている、というのは少し不思議に思えた。
本の魔力が彼女のものではないのがわかる。単なる魔法の指南書にしては、それに関する記載が表紙にはない。誰かに譲られたものだろうか。
掛けられている魔法や本の内容が気にはなるが、取り上げればさすがに目が覚めるだろう。それには触れずに、リリィへ再び視線を戻した。
ヴァルクは完全なる悪というわけではない。だが、全くの善人とは彼自身とても言い切ることはできなかった。
無防備を体現したような少女の細い首ごと食い破ってしまいたい。周りに広がる鮮血を見れば、身のうちで永劫燻り続けている蟠りも晴れるだろう。
ヴァルクの本能からくる、元来あり続ける凶暴性が、強烈なまでに訴えてくる。
しかし、実際に行動に移すことはない。
気が遠くなるほどの年月をかけて培った、本能を上回る理性で己の凶暴性を抑えこみ、凄惨な過去を二度と繰り返すまいと、強い意志で自らを律してきた。それは今も、そしてこれからも。
そしてなにより、リリィの無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。鈴を転がしたような声が色鮮やかに蘇る。
穏やかなリリィの寝顔が、ヴァルクに希望を抱かせる。
本当に対話を望んでいるというならば、信じてみたい。リリィにはそう思わせる何かがある。
同時に、出会ったばかりの少女に心揺さぶられるなど、どうかしていると心底思いながら。
——ヴァルクに挑んだ星を持つ者たちは、彼の暗示よって記憶を封じられてきた。主に対峙した際のヴァルクに関する情報を、星持ちが他者に詳細を話すことができないように。
それは魔法ではなく、ヴァルク自身の能力によって施されてきたものだった。
リリィはここにいるべきではない。故郷へ戻るのが彼女にとっての最善だろう。
ただし、ヴァルクと関わった際の記憶は持ち帰らせない。魔王への恐怖を植え付けて、二度とここへは来ないように暗示をかけよう。
そう決断したヴァルクの瞳が、紅く底光りする。リリィの顔の横に手をつくと、細い首筋に唇を落とした。
白く薄い肌に鋭い牙が触れる。それだけでほんの一滴、血が滲み出た——が、次の瞬間、異変に気付いたヴァルクが素早く身を引く。
二人の間に淡い光が灯り、そこに魔法陣が現れた。
とても眩く、暖かな光。
「守護魔法か」
それもかなり高度なものだ。
今のリリィにはかけられるはずのない代物で、熟練の魔法の使い手が施したものであることが、魔法陣の複雑な文様によって一目でわかる。
おそらく対象者が傷付くと発動するもので、しかも致命傷に至る以前に、ほんの少しでも傷付けようものなら許さない、と暗に示している。
だからこそ、ヴァルクの牙が首筋に食い込むまでもなく守護魔法が発動したのだ。
この魔法をかけた者は、リリィを誰よりも大切に想っている。彼女を守りたい気持ちが、かけられた魔法の強さに表れていた。
先程、守護魔法が発動したと同時にヴァルクは身を引いたが、その際、現れた魔法陣に僅かに掠った髪が断ち切られたことに気付いていた。少しでも避けるのが遅れていれば、首が飛んでいたかもしれない。
初めて目にするほどの強力な守護魔法に、一体どのような効果があるのかヴァルクは興味をそそられたが、不意にリリィが身動いだことで魔法陣から意識が削がれた。
「んっ……」
相変わらず眠ったままのリリィは、ソファのふちに置いていたヴァルクの手に無意識のまますり寄った。ぴとりと額をくっつけると、更にその冷たい手に縋るように両手で握りしめる。
どこか安堵したように深く息をついたリリィを見て、ヴァルクは魔王にあるまじき感情を抱いた。
——この儚い命を、守りたい。
そこで魔法陣が消失した。まるでヴァルクに攻撃の意思がないことを悟ったように。
故郷へ帰すことがリリィにとって最適解だという考えは変わらない。
しかしたとえ彼女が星持ちとはいえ、魔王城へ行くよう唆した剣士のいる故郷へ、何も策を講じないまま帰していいものなのか。
だが、リリィにかけられた強力な守護魔法を安全に回避する手段が、今のヴァルクにはない。能力を最大限駆使すれば、あるいは魔法陣を突破できるかもしれないが、リリィの身を危険に晒す可能性も高くなる。それでは本末転倒だ。
リリィに手を握られて動けないヴァルクは、仕方なくその場に腰を下ろした。
ヴァルクの冷たい肌が、彼女に触れられているところだけ熱が少しずつ馴染む。限りある命は彼にとってあまりに縁遠く、その熱は脆さの象徴でもあった。
彼女に移される刹那的なぬくもりに、ヴァルクはひそかに感嘆した。
空いている方の手でリリィの頬にかかった髪を避ける。こうして触れるのは問題ないとすれば、別の方法での暗示ならかけられるだろうか。
だが、今は気が進まない。
もう二度と、このような機会は訪れないだろう。
随分と早起きの鳥の囀りを遠くに聞きながら、暫くリリィの寝顔を眺めることにした。
◆
部屋の外で何かが動く気配がする。
「——ヴァルク様」
中性的な声が、静かな城内で空気に溶けるように響く。
顔の半分以上を占める布を眼帯のようにして両目を覆った少年が、部屋には入らずに声をかける。ヴァルクはそちらを注視することなく、リリィの頬をそっと撫でた。
あたたかい。生きている証を感じる。
「あれを見つけました」
それは待ち望んでいた報告だった。
だが、今はここにいたい。リリィのそばに。
ヴァルクは誤魔化しきれない自身の気持ちを押さえつけて、静かに立ち上がる。リリィに握られたままの手を、名残惜しく思いながらもそっと解いた。
ヴァルクが部屋を出ると、少年の隣にもうひとり、ほぼ同じ背丈の少女がひっそりと佇んでいた。セピア色の髪の長さ以外は少年と殆ど似た容姿で、同じように顔の半分以上を覆う大きな眼帯をつけている。
「ツィー、お前は共に来い。ココは残れ」
ココと呼ばれた少女は、音もなくリリィのいる部屋に近付いて中の様子を伺う。相変わらず穏やかな寝息だけが、微かに聞こえてくる。
「すぐに戻るつもりだが……もし、その間にあの魔女が出ていくのなら、その時は好きにさせろ」
肩にかけていた黒の厚い外套に袖を通したヴァルクは、ツィーと呼ばれた少年を連れて静かにその場をあとにした。




