腹が減ってはなんとやら
東方の魔王を打ち倒すべく、数多の強者たち——もちろん、多様な戦士たちも勝負を挑んできた。
しかし魔王を打ち倒した者はいまだ現れず、圧倒的な力の差に打ちのめされたとある剣士は敗走の末、辺境の地に在る小さな村に行き着いた。
そこで自分が魔女だとは気付かず、自身の運命をも知らずに十七年を安穏と生きてきたリリィと出会い、再び魔王を倒すべく二人で手を取り合い戦いに赴く……ことはなかった。
リリィの生まれ育った村は美酒で有名である。
魔王に打ち負かされた末に剣士は酒に溺れていたのだが、噂に聞いていた美酒を口にして大いに感動した彼は、暫く続けていた旅をやめて村に留まることにした。
そこで星を持つリリィが魔女であることや、彼女の本来歩むべき運命を伝え、魔法の使い方をそこそこ教えてから、魔王城への旅路へと送り出した。
とはいえ彼はただの剣士、魔法使いなどではない。ゆえに聞き齧った知識だけをとりあえずリリィに叩き込んだのだが——
◇
「——一体、奴は今なにをしている」
それはいつ頃の話だっただろうか。以前、剣士が単身乗り込んできたことを魔王は思い出した。
戦士は強化された己の肉体と武器で戦うことが基本の戦闘スタイルだが、その剣士は武器を破壊されたところで魔王城から逃げ去った。
彼は星を持つ者でなかったが、それにしてはまずまずの魔力を持つ男だったと記憶している。
「実はわたしの生まれ故郷の村は、他の人里からとても離れたところにあるのですが、必要な物資の調達などで使う道が魔獣の出没でまともに使えなくなっていたところ、その剣士さまが護衛を担ってくれることになったのです」
「……代わりに、お前がここに送り込まれたということか」
「それは違います。わたしは自分の意思でここに来ました。その剣士さまは戦いの最中に大切な剣を失って暫く長旅の予定もないとのことで、わたしに旅路に入り用だろうと資金を分けてくださって——」
——魔王はある場所へ向かうため、リリィを連れて暗い城内を歩いていた。
彼女には戦闘の意思がないことは既に明白だったが、魔王を説得するという強い意思のもと魔王城へ乗り込んできたというのだから、はっきり言ってどう対処すべきか考えあぐねていた。
もちろん、力ずくで城から出すことは可能だ。だが、いいとは決して言えない魔王の愛想の無い反応にも構わず話し続けるリリィに、不思議と感心する域にまできているのも事実だった。
「その剣士さまは本当にすごいんです! 村の外れに現れた凶暴な魔獣を、剣がなくてもその身ひとつで立ち向かって倒してしまわれて……! だからこの方を信じようと思い、故郷の村をお任せしてきたのです」
それにしても、魔王相手にそこまで自身の情報を明け透けに話してもいいものなのか。戦うこともできない者が魔王とふたりきりというこの状況において、あまりにも能天気がすぎる。
リリィの話では魔法を扱う者が周りにいなかったために、師というものもおらず、ただの剣士に魔法の指南をされただけともなれば、膨大な魔力量を持ってしても、まともな戦闘魔法を扱えるわけがなかった。
魔王の話があまり届かないと思われる辺鄙な農村で育ったことによる危機感のなさも、恐怖心を薄れさせる要因なのだろう。
彼女は魔王が今まで出会った者の中では、あまりにも異質であった。
「大切に育ててくれた両親にいつか恩返しがしたかったから、故郷と家族を守ってくださるのならわたしはなんでもしたかった……だからこそここへ来たことに、悔いは少しもありません。剣士さまには感謝してもしきれないのです」
そこで不意に魔王は足を止めた。
魔王と対峙して、剣を破壊された程度で逃げ去った男を何故そこまで信じられる。それは彼にしか知り得ない事実だったが、件の剣士は信用に足る男とは到底思えない。
振り向いた魔王を不思議そうに見上げるリリィの目は、人を疑うことを知らない。
本当の恐怖も、きっと知らないのだろう。
「よくもそのような飲んだくれを信用しようと思えたな」
「剣士さまのお父さまは魔法使いだったそうで、彼の記憶にある限りのことを教えてくださろうとはしたのです。でも、わたしがうまく魔法を扱えなかったから、旅の途中で魔法使いや魔女を探した方が早いのではと提案されて……」
そこで複雑な表情の魔王を目にしたリリィは、ここへ来て初めて戸惑いを見せた。
「……怒って、いるのですか?」
「——」
魔王は答えず、再び踵を返して歩き始めた。
リリィは今、故郷を遠く離れている。残してきた剣士が約束を違える可能性を微塵も疑っていないそのあまりにも危うい純粋さが、魔王の心を揺さぶってくる。
あらゆる負の可能性を考えるに至らないリリィに何故か苛立ちを覚えたが、それはもう、出会ったばかりの少女へ抱く感情としては大きすぎた。
その事実に気付いた魔王自身がその感情を扱いきれず、ただ黙って歩みを早めた。
「——入れ」
束の間の沈黙のあと、魔王に連れられた部屋には大きな大理石のテーブルがあり、そこにはいくつかの木の籠に盛りに盛りに盛られたパンが置かれていた。
匂いに誘われてたまらず走り寄ったリリィが、瞳を煌めかせて歓喜の声を上げる。
「こんなにたくさんのパン、初めて見ました……!」
リリィの故郷の村は、パンの材料である小麦が育ちにくい場所だった。小麦を買いに行くにも村から他の人里への道のりは遠く険しく、気軽に手にいれられるものではない。
それほど貴重なものであったがゆえに口にする機会がかなり少なかったため、目の前の光景はリリィにとってはまさに宝の山に見えた。
魔王城への旅路の途中でいくつか買って食べてはきたが、それでも数えられる程度だ。資金は限られていたので贅沢はできなかった。
「好きなだけ食べるといい」
「本当に、本当によろしいのですか……⁉︎」
リリィの近くにはあえて寄らず、部屋の入り口に背を預けた魔王はただ静かに頷く。
心からの感謝を伝えてから椅子に掛けたリリィは、置かれている籠をひとつ大事そうに引き寄せて、乾燥を防ぐためにかけられたであろう布をめくる。
シンプルな丸いパンだが、持っただけでふわふわの柔らかさが伝わってくる。ひとくち齧ってみれば、バターの味わいと香ばしさが口いっぱいに広がった。
「とってもおいしい……! 魔王さまが作られたのですか?」
「違う」
「そうなのですか……?」
リリィは不思議に思いながら手元に視線を落とした。それは明らかに作られてからそう時間は経っていない。パンがほんのりあたたかく、香りも焼きたて特有のものだ。
では誰が作ったのだろう。それにこの量、彼が余程のパン好きでなければ一人で食べきれるとは思えない。
誰か人を招くつもりで用意したのだろうか。もしそうだとしたら、リリィには食べさせないのでは?
考えるほど謎が深まるばかりだったが、ほどなくリリィは思考を放棄した。
好きなものを美味しく食べることに、複雑なことを考えたくはない。突然押し入った誰とも知らない相手だというのに、厚意でここまでしてくれたのだ。純粋に味わって食べていたかった。
それにもう、次にいつこんなに美味しいものを食べられるかわからないのだから。
「おいしくてほっぺたが落ちそう」
頬をもちもちさせて喜びを顔いっぱいに表すリリィを、魔王は直視できなかった。まるで眩しい太陽を直視できないように。
「もうひとつ……いえ、あと三つ、いただいてもよろしいですか?」
「……好きにしろ」
こうして魔王を倒す運命を背負いし少女は、見事に胃袋を掴まれた。




