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第五章 魔王の遺産と幽霊の算譜 「丞相を継ぐ者」三国志向朗伝  作者: こくせんや
第5章 「魔王の遺産と幽霊の算譜」

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第2話:江夏監査、黄祖への算譜 その3

8.化かし合いの幕開け:黄射(こうしゃ)の品定め


「そなたが、向朗か?」


 通る声であった。育ちの良さと、人を惹きつける華やかさを備えたその青年は、黄祖の嫡男・黄射(こうしゃ)である。

 彼は(はなだ)(薄青色)の立派な袍服(ほうふく)を身に纏い、腰にはきらびやかな佩玉(はいぎょく)と、さぞ名のある逸品であろう銘刀を帯びた、凛とした長身の青年であった。


 対する向朗はといえば、着古された単服(たんぷく)の上に粗末な無色の袍服を重ね着し、頭も無地の(ずきん)で雑に覆っているだけの、どこにでもいる下級官吏の出立ちである。背丈も容姿も極めて平凡であり、腰にぶら下げているのは威圧的な銘刀などではなく、竹簡と文字を削り消すための書刀(しょとう)、そして筆を突っ込んだ実務用の雑嚢だけであった。


 誰の目から見ても、江夏の次期当主と、その御前の塵にも等しい貧相な小役人という明確な対比であった。向朗は一瞬、心臓の鼓動が跳ね上がるのを感じたが、即座に腰を低くし、徹底して無害な小役人の顔を貼り付けた。


「はい。荷物持ちとして随行しております、臨沮県丞(けんじょう)の向朗と申します。若君からのわざわざのお言葉、恐れ多いことでございます」


「ふむ。任地は臨沮、であったな。だが、私が聞いているのは『章陵(しょうりょう)』の向朗殿だ」


(まずい、まずい、まずい! どこまで知っています? いや、天下の黄氏、全て調べが付いていて近づいたのでしょう。迂闊でした)


 その一言に、向朗の脳裏を凄まじい速度で隠蔽の履歴と弁明の計算式が駆け巡る。


 向朗本人は、これまでの宗賊討伐や章陵での異常な兵站管理において、あくまで司馬徽(しばき)門下の一人として完璧に擬態(カモフラージュ)し、一切目立たぬように処理していたと思い込んでいる。


 だが実際のところ、彼が平和な裏方に徹しきれていたのは、側にいる徐庶や、石韜(せきとう)孟建(もうけん)といった学友たち、果ては師である司馬徽や街の人々による、涙ぐましい庇護と「口裏合わせ」があってこその結果であった。己への評価にどこまでも無頓着な向朗は、周囲の好意による分厚い隠蔽工作に全く気づいていない。


 しかし、目の前に立つ若君の冷徹な眼光は、その隠蔽のベールを容易く突き透かしている。見すぼらしい身なりの向朗を、ただの随員とは見ていないのだ。

 内面では算盤の珠が弾け飛ぶ勢いで焦り散らかしながらも、向朗の表面上の態度は微塵も揺らがない。彼は極めて鈍物らしく、愛想笑いを浮かべて首を傾げた。


「章陵にも一時期、蒯越様のお手伝いで顔を出してはおりましたが。単なる帳簿の整理係に過ぎませんよ。数字の計算ばかりやらされて、ろくに本も読めませんでしたから」


 事務屋らしい不平不満をこぼしてみせたが、黄射の目は笑っていなかった。


 それは、目の前の男が黄氏にとって益となる良材か、あるいは排除すべき害毒かを見極める、冷徹な鑑定人の目であった。


「いや、章陵の向朗殿が来るとあっては、ご挨拶せねばなるまい。色々聞きたいことがあるのだが、お時間よろしいかな? ああ、そんなに警戒せずともよい。お付の少年もご一緒に食事でもいかがかな?」


 黄射は、一歩後ろで、今にも飛びかかりそうな魏延へと視線を向けた。

 魏延は鼻を鳴らして向朗の顔を伺っている。


(蒯越様が相手をしている広間の族長殿はただの表向きの顔で、我々の真の『査定』をする本命はこちらの若君でしたか! 完全に油断していました。末席で寝ていられると思っていたのに!)


 向朗は内心で血の涙を流しながらも、どこまでも呑気で頼りなげな口調で振り返った。


「せっかくのお誘いですから。文長くん。武器から手を離しなさい。……若君、恐縮です。僕のような事務屋に聞きたいことなど何もないとは思いますが、お言葉に甘えさせていただきます」


 徹底的に、無害な、数字と自分の読書時間にしか興味のない昼行灯を演じ切る。それしか、この絶体絶命の場を切り抜ける方法はない。


「歓談の場は設けてある。どうぞ、こちらへ」


 黄射が促す先には、見事な饗宴の席が用意されていた。


 だが、その豪勢な料理の匂いは、冷や汗を流す向朗には、致死量の毒饅頭のそれと全く同じように感じられたのである。



9.収支の真理と、一石の信用


 安陸の豪勢な広間。


 運ばれてくる山海の珍味も、今の向朗にとっては、砂を噛むような味にしか感じられなかった。目の前の青年、黄射の瞳には、一切の隙がない。


(これは、全てバレている。ここで下手に「知りません」としらを切るのは、最悪の不渡りを出すのと同じだ……)


 向朗は、脳内の算盤を高速で弾き直し、最も事務屋らしく、かつ誠実に見える回答の線を定めた。


「さて、向朗殿。章陵で流行ったという、あの紙の引換券の話。あれは、実に合理的な弥縫策(びほうさく)だったそうですね。誰が考えたのか、非常に興味があるのだよ」


 黄射の言葉が、向朗の喉元に突き刺さった。


「数ヶ月前の引換券のことですね。若君、あれは苦肉の策に過ぎませんよ」


 向朗は、震える手で茶を啜り、努めて平然と答えた。


「董卓様の放った小銭のせいで、臨沮のような田舎でも物価が跳ね上がりました。蒯越様からご相談をいただいた際、章陵の市場はすでに混乱の極みにありました。まっとうな五銖銭(ごしゅせん)が消え、価値のない悪銭だけが回る。そこで、取引の間から銭そのものを一度切り離すために、あの紙を導入したのです。商人や民たちが、自らの財産を守るために一丸となって導入した……彼らの熱意には、私も驚かされましたよ」


 嘘は言っていない。ただ、その熱意を巧妙に煽り、誘導したのが自分であるという一点だけを、言葉の裏側に隠した。


 黄射は、盃を弄びながら目を細めた。


「ふむ。取引そのものから銭を切り離すか。面白いな。だが、なぜ止めたのだ。あれほどの仕組み、続ければ取引はさらに拡大したのではないか?」


「いえ、所詮は紙ですから。雨季が来れば綻び、滲み、使い物にならなくなります。不渡りが出る前に止めるのが、事務方の義務です。ちょうど袁術様が『それをよこせ』と仰ったので、蒯越様がそのままお渡しになった。ただ、それだけのことですよ」


「………………」

「………………」


 重苦しい沈黙が、広間を支配した。


 背後で控える魏延が呼吸を止めて向朗の背中を見守っている。


(話しすぎたか? いや、これくらいなら調べれば分かるはずだ。下手に隠す方が、この狐には怪しまれる……)


 黄射は不意に、短く笑った。


「それで、いつからそんなことを思いついていたのだ? いや、まあ、それはよい。詰問するために呼んだのではないからな。向朗殿、そなたの意見を聞きたい」


 黄射の目が、鋭い鑑定人の目から、貪欲な指導者の目へと変わった。


「この高騰の中、どの国も、どの街も大変だ。この安陸とて例外ではない。では言い方を変えよう。そなたが仮に黄氏の長老、黄祖殿だったとしたら。この混迷の経済にどう立ち向かう? 董卓という国家規模の負債の押し付けに対し、どう付き合うのだ?」


(やばいやばいやばいやばい……!)


 向朗の脳内で、警報が鳴り響いた。


 これは単なる雑談ではない。

もしここで、黄氏の利益に直結する正解を出してしまえば、自分は二度と臨沮の山間に帰ることはできなくなるだろう。この巨大な権門の「飼い殺しの書記官」として、一生数字の迷宮を彷徨うことになる。


 だが、向朗は逃げることを一旦やめた。事務屋として、これだけは譲れない計算があるからだ。


「若君。私は事務屋ですので、難しい天下の計略は分かりません。ただ、正しく収支を整え、入と出を正しく取り扱うことだけが肝要だと考えています」


「収支、か。この乱世でか?」


「はい。董卓様の小銭が何万枚あろうと、お腹を空かせた民にとっては、一石の麦の方が価値があります。銭の価値がどれほど揺らごうとも、『誰が一番、正確に麦を運べるか』という信用を誰よりも黄氏が持つ。それこそが、何よりの資産となるはずです」


 向朗は、手元の空の器を指し示した。


「入るべき物資を正しく把握し、出るべき場所へ一分の狂いもなく届ける。その物流(ロジスティクス)の正確さにおいて、江夏黄氏の右に出る者はいない……。そのような信用を独占できれば、どのような世の中になろうとも、黄氏は栄え続けるのではないでしょうか。あくまで私のような田舎者が、寝言を言っているだけですが」


 向朗は、再び深く頭を下げた。


 全てを晒したようでいて、具体的な銭の動かし方には一切触れない。

あくまで物流と信用という事務方の理屈に終始する。


 黄射は黙って向朗を見つめていたが、やがて、その口元に深い笑みが浮かんだ。


10.変転する座興と、意外なる結末


 安陸の広間に漂っていた張り詰めた糸が、ふっと緩んだ。


「収支を整え、入と出を正しく扱う、か。面白い。実に面白いな、向朗殿」


 黄射が満足げに手を叩くと、それまで背後に控えていた家令たちが一斉に動き出した。重苦しい空気は霧散し、卓には新たな酒と、湯気を立てる鮮やかな魚料理、黄金色に焼かれた肉料理が次々と運ばれてくる。


「さあ、飲んでくれ。そなたのような男と、これほど理にかなった話ができるとは思わなかった。安陸の酒も、そう悪くはないはずだ」


 黄射の笑みは、先ほどまでの獲物を狙うような鋭さを潜め、年相応の快活なものへと変わっていた。

 それからの二人の会話は、驚くほど和やかなものとなった。


 江夏の水辺に咲く花の話、襄陽で流行っている詩、あるいは臨沮の山に棲む珍しい鳥の噂――。政治や兵站といった毒のある話題は一切排除され、他愛のない世間話が淡々と流れていく。


 向朗は、内心で安堵の溜息を吐きながらも、決して気を緩めることはなかった。


(やっと毒気が抜けましたか。ですが、こういう御仁は他愛のない話からこちらの育ちや教養を測ってくるものです。油断は禁物、あくまで平凡な小役人を貫かねば……)


 隣では、魏延が「なんだ、もう戦わなくていいのか?」と言いたげな顔で、目の前の肉料理を豪快に頬張っている。


 嵐のあとの凪のような、奇妙に穏やかな時間が、安陸の夜を更けさせていった。

 宴が中盤に差し掛かった頃、奥の広間から一人の書記が歩み寄ってきた。向朗の背筋が、無意識に伸びる。


「向朗殿。蒯越様がお呼びです」


 いよいよお叱りか、あるいは交渉が決裂したのか。胃の疼きを覚えながら向朗が立ち上がると、書記は意外な言葉を口にした。


「黄祖様との会談は、滞りなく終了いたしました。お三方とも、今夜は当館の客舎にてお休みくださいとのことです」


(終わった? あの、難攻不落に見えた交渉が、これほど早く?)

 向朗は驚きを隠せなかった。


 黄祖という巨大な軍閥を相手に、これほど短時間で合意に至るとは、蒯越と龐季の外交手腕が常軌を逸しているのか。あるいは、向朗が船中で授けた「劉表名義による利権の独占(支店長契約)」という劇薬が、黄祖の肚に一瞬で染み渡ったのか。


「向朗殿、どうした? 浮かない顔だな」


 黄射が、悪戯っぽく笑いながら声をかけてきた。


「いえ。あまりに話が早くて、私の算盤が追いつかなかっただけですよ。ようやく、ゆっくり眠れそうですね」


 向朗は精一杯の平凡な役人の顔で頭を下げた。


 安陸黄氏という巨大な迷宮に、劉表軍という新たな(くさび)が打ち込まれた瞬間であった。

 だが、事務屋の直感は告げている。

 この滞りない結末こそが、次なる巨大な不渡りへの序曲であることに。


11.化かし合いの余韻


「巨達の先生。あの若造、アンタを逃がす気はねえみたいだぜ」


 隣で豪快に肉を食らっていた魏延が、極めて小さな声で囁いた。


「文長くん。縁起でもないことを言わないで。僕はただ、事実を述べただけですよ」


 向朗は冷や汗を拭いながら、ようやく一口だけ料理を口に運んだ。


 安陸黄氏という巨大な怪物を前に、事務屋・向朗の、命懸けの弥縫は、ひとまず最悪の不渡りを回避したようであった。

 だが、黄射という新たな「負債」を抱え込んでしまったことに、彼はまだ気づいていなかった。


【次回予告】

 安陸の若君・黄射からの執拗な勧誘。提示されたのは破格の地位と富、そして思いもよらぬ人物との縁談。だが、向朗が選んだのは「読書時間を守るための拒絶」だった。


しかし、平穏は束の間。袁術派・劉祥の三万の軍勢が江夏へ侵攻を開始する。人質兼参謀として残留を強いられた向朗が提示した策は、華々しい戦術ではなく、そもそも戦を起こさない策であった。


一方、その頃、長安で権勢を振るう魔王・董卓に、世界を揺るがす事件が迫る。


第3話:安陸の若君、黄射の慧眼


救わず、ただ繕う。破綻のその先まで――。

黄祖と蒯越らの外交交渉はセレモニー的な儀式で、黄射と向朗のこの会話が本命だった。

「我らはどう動くべきか?」という黄射の問いに、向朗の答えは、まず麦を数えよ、そしてむやみに動くなという元末明初、朱元璋の軍師の一人、楓林先生こと朱升の教えのオマージュとなっています。


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