第2話:江夏監査、黄祖への算譜 その2
4.名分と利害の限界
船室の空気は、漢水の湿り気を含んだ風よりも重く沈んでいた。
揺れる灯火の下、蒯越と外交官である龐季は、広げられた江夏の地図と睨み合っている。
「……劉表様の『徳』と『知』。これを以て荊州の静謐を説く。そして黄祖殿には、現在の江夏における支配権をそのまま安堵し、共存を提案する。これならば、名門たる黄氏の誇りを傷つけることもあるまい」
龐季が、丁寧にまとめられた書状を指で叩きながら言った。
彼は正当な外交官として、非の打ち所のない「美しい和睦案」を組み上げていた。
だが、蒯越は顎に手をやり、冷徹な目で地図を見つめる。
「悪くない。だが、決定打に欠けるな。黄祖にとって、劉表様に臣従する利点が『現状維持』だけでは、動機として弱すぎる。むしろ、誰の傘下にも入らず、三方の勢力を天秤にかけている方が、奴にとっては安全ではないか?」
蒯越の指摘は鋭い。荊州刺史劉表と袁術派の自称江夏郡太守劉祥。
この二者が江夏を奪い合っているからこそ、黄祖は去就を濁し、独自の地位を保っていられるのだ。
「左様。だが、これ以上の譲歩は劉表様の威信に関わる。黄氏の既得権益を侵さず、かつ臣従を促す。この矛盾を解く鍵が、どうしても見当たらぬ……」
5.末席の独り言と支店長契約
「まあ、そうでしょうね。黄祖殿からすれば、その提案は『旨味』がありませんよ。現状追認でしかない」
船室の隅。竹簡の山に埋もれ、算木をパチパチと弾いていた向朗が、顔も上げずにポツリと漏らした。蒯越の鋭い視線が向朗を射抜く。
「向朗殿。現状追認では不服だと言うのか?」
向朗はのろのろと筆を置いた。
「いえ、不服というより、収支が合わないんです。異度様。黄祖殿が今、一番恐れているのは『劉表様が攻めてくること』ではありません。『自分の代わりがどこかに現れること』ですよ」
向朗は、手元の汚い計算書きを二人の前に差し出した。
「いいですか。現在の江夏は、劉祥が太守を名乗っています。黄祖殿は、その『偽物』が勝手に税を徴収し、流通を疲弊させるのを、ただ不機嫌に眺めている。なぜか? 彼には、奴らを追い出す『正当な理由』がないからです」
「向朗、君の言いたいことは……」
「単純な話ですよ。現状追認なんて消極的なことではなく、『江夏郡における全ての徴税権と物流管理権を、劉表様の名前で黄祖殿に独占させる』という契約書を叩きつけるんです。つまり、彼を劉表配下の将にするのではなく、『劉表という看板を掲げた江夏の専売公職』にしてしまう」
向朗は、算盤を置き、ようやく顔を挙げる。
「今、黄祖殿が勝手にやっている徴税は、漢の政府から見れば、ただの『略奪』や『みかじめ』と同じです。太守劉祥と不仲をいいことに、黄氏が集めた税はどこにも納めていないのですから。でも、劉表様の印があれば、それは『正当な国税』に変わる。さらに、北の劉祥を『脱税者』として公式に攻撃する権利まで与える。どうです? これなら黄祖殿は、自分の懐を痛めずに、敵を排除して利益を倍増させられる。旨味、ありますよね?」
蒯越と龐季は顔を見合わせ、言葉を失った。「徳」や「忠義」といった言葉で包まれていた交渉を、向朗は一瞬にして、『競合する取引相手を追い落とした利権の独占契約』という生々しい数字の話に書き換えてしまったのである。
「向朗殿。君は、黄祖という男を相当な強欲と見ているのだな」
蒯越の問いに、向朗は立ち上がり、どこか他人事のような、のんびりとした口調で答えた。
「いえ。ただの算盤を弾く、利に聡い商い人だと思っているだけですよ。名士たるもの、従う家人や食客、領地の民たちを決して飢えさせないようにしなければなりません。安陸の黄氏は、その庇護すべき人々が膨大なだけです」
蒯越やその兄である蒯良らも、襄陽に隣接する中盧県の有力な名士である。そして向朗自身もまた、宜城県の小さな名士の一族であった。向家のような小さな名士であっても、縁者や家人、荘園の農民を含めれば優に百人近い人間を養っている。
黄氏の規模はそれが自分たちの数百倍大きいだけだ、とただの掛け算のように事もなげに語る向朗に、蒯越は軽く頭を抱えた。
「しかし、『劉表という看板を掲げた江夏の公認専売官』になったといえ、今の江夏が抱える負債そのものは残るではないか。どうやって黄祖の赤字を減らすというのだ。そのようなことが容易くできれば、世の領主は誰も苦労などせぬ」
龐季が「言うは易しだ」とばかりに首を振る。
董卓の小銭が引き起こした大暴騰に、売官による賄賂の横行。
まともな政などできず、どこかで負債をごまかさなければ統治が成り立たないのは、劉表とて同じことなのだ。
だが、向朗の表情には微塵の行き詰まりもなかった。
「負債は……そうですね。そっくりそのまま、偽太守の劉詳様に引き取ってもらいましょう」
向朗は、世間話でもするような軽さで恐ろしいことを口にする。
「……さて、方針が決まったのであれば、交渉は蒯越様と龐季様でお願いします。私のような片田舎の小役人など、名門中の名門たる黄祖様にお会いするだけで、かえって不興を買いそうですから」
「待て、言い出した君が交渉の場に来ないというのか?」
「めっそうもございません。僕は末席で、明日の千人分の糧秣の割り振りを計算していなければなりませんので。あとは到着するまで寝かせてください。船酔いで、本当に頭が割れそうなんです」
向朗はそう言うと、そそくさと自分の事務机に戻り、再び山のような書類の中へと潜り込んでしまった。
蒯越は、そのあまりにも頼りなげな背中を眺めながら、思わず苦笑を漏らした。
天下の勢力図を数字一枚で塗り替え、あまつさえ途方もない国家の負債を敵に押し付ける知恵を持ちながら、自らは僻地の小官であることに固執する。その「欲のなさ」こそが、この男の最も恐ろしいところだ。
漢水の波音だけが、静かに夜の船内に響いていた。
江夏の物流と利権を一手に握らせるという、黄祖にとって拒めない「毒饅頭」のような提案が出来上がったのである。
6.安陸への接近:見えざる網の目
漢水の川幅が次第に広がり、水上はむせ返るような活気を帯びていた。
行き交う大小の商船、絹や塩、山積みの木材や麦を載せた平底船がひしめき合い、すれ違うたびに船夫たちの威勢の良い掛け声が水面を叩く。戦乱の世にあっても、江夏が抱える莫大な富と物流の熱量は、決して歩みを止めてはいなかった。
「……巨達の先生。さっきからこの舟、ちっとも進んでねえぞ。周りのボロ舟にどんどん追い抜かされてるじゃねえか」
安陸の港を目前に控え、甲板で暇を持て余していた十歳の魏延(文長)が、不満げに声を上げた。
周囲の商船が風をはらんで滑るように進んでいくのとは裏腹に、使節団を乗せた舟だけが、まるで目に見えぬ泥濘に足を取られたかのように不自然な速度低下を起こしていたのだ。
船室から出てきた向朗は、眩しそうに目を細めながら、魏延の視線の先――舟の最後尾を静かに指差した。
「文長くん、見てごらんなさい。津に着くたびに、あんなに威勢よく櫂を漕いでいた船夫たちが、一人、また一人と別の者に代わっていますよ。……それも、ずいぶんと『不慣れ』な者たちにね」
向朗の指摘に、同乗していた使者の龐季が、苦虫を噛み潰したような顔で身を乗り出した。見れば、新しく乗り込んできた男たちは櫂を握る手つきも危うく、わざと船足を殺しているようにも見える。
「巨達殿……これは、逃げたわけではないのだな?」
「ええ、龐季様。彼らはただ、岸からの合図一つで『仕事をやめた』のですよ。もっと言えば、襄陽から来た我々のために働くことを、街全体が拒み始めたのです。この舟はもう、自力では襄陽へ帰ることすらままならないでしょう」
向朗の乾いた笑いに、船室内で耳を傾けていた正使の蒯越が、険しい表情で甲板に姿を現した。
舟の真横を、日用品を山と積んだ行商の小舟が何事もないかのように追い抜いていく。商いも、人々の生活も、何一つ止まってはいない。ただ「襄陽からの使者」である自分たちだけが、この巨大な血流の中から巧妙に切り離され、血栓のように滞留させられている。
「怖いですね。これが黄氏のやり方ですか。武器を持って襲ってくるよりよほど質が悪い。彼らは、この地の『暮らしと商いの根幹』そのものなんですよ。黄祖殿の機嫌一つで、我々はここから一歩も動けず、干からびるのを待つだけの無用の積荷に成り下がるというわけです」
向朗は、懐の算盤をぎゅっと握りしめた。
「蒯越様。これから我々が交渉するのは、一人の武将ではなく、江夏という土地そのものです。……ああ、めんどくさい。本当に帰りたい。臨沮の川なら、自分の手でも漕いで帰れるのですが」
その言葉に、蒯越と龐季は顔を見合わせ、静かに呻き声を漏らした。
川岸に目をやれば、ひっきりなしに続く荷下ろしを待つ人足たちの長蛇の列や、木簡の帳簿片手に声を張り上げる商人たちの姿が蟻の群れのように連なっている。
彼らのような高名な名士であり、州を動かす高官に就く者にとって、泥に塗れた船夫や人足といった下々の者たちが「どこから給金を得て、誰の顔色を窺って動いているか」など、普段は意識の外にある事象であった。彼らは自分たちとは住む世界が違う、単なる風景の一部でしかなかったからだ。
しかし今、向朗の淡々とした解説によって、自分たちがこれから挑む交渉が、高尚な政治の建前や武将同士の軍略の駆け引きなどではないことを痛感させられたのである。泥臭い『日々の暮らしと銭』を支配する者こそが、この江夏という土地における絶対の王なのだと。
「……向朗殿の言う通りだ。我々は少々、天の上から物事を見すぎていたらしい」
蒯越は自戒するように低く呟くと、目前に迫る安陸の巨大な港へと、これまで以上に険しい視線を向けた。
視線の先には、無数の帆柱が林立し、長安の混乱など嘘のように力強く脈打つ、黄氏の巨大な経済の心臓部が待ち構えていた。
「先生……なんか、この街、笑ってるみたいで気色悪いな」
魏延が珍しく不安げに呟くと、向朗は「そうですね」と短く答え、再び船室の影へと身を潜めた。その指先は、すでに目前の巨大な帳簿をどう解き明かすか、無意識に算盤の珠を弾き始めていた。
7.黄氏の庭と、巨大な威容
船が安陸の桟橋に横付けされると、そこには槍を持った兵士ではなく、整然と並んだ「事務官」たちが待ち構えていた。皆、黄氏の家紋を誇らしげに纏っている。
「蒯越様、龐季様。ようこそ我が安陸へ。族長がお待ちです」
案内人の声は礼儀正しいが、そこには「ここは我らの家であり、お前たちは招かれた客に過ぎない」という圧倒的な自負が籠もっていた。
一行は案内人に導かれ、街の中心部へと足を踏み入れた。
そこは戦乱の影など微塵も感じさせぬ、活気に満ちた別世界であった。道沿いには立ち並ぶ商店が軒を連ね、積み上げられた荷の山の間を、商人たちが額に汗して行き交っている。
末席の向朗は、目立たぬように魏延の背後に隠れながら、周囲の蔵や物資の集積状況を鋭く観察していた。
ふと、向朗は足を止め、露店の天秤や、商人が受け取っている銭貨の入った籠へと視線を投げた。
「蒯越様。この街には董卓小銭がないようですね」
その何気ない一言に、先頭を歩いていた蒯越と龐季が足を止め、怪訝そうに周囲を見回した。
「……何、董卓小銭がないだと?」
言われてみれば、商人の手元で鈍く光っているのは、厚みのある正統な漢の五銖銭ばかりであった。あちこちで粗悪な鋳造を施された、クズ同然の薄い董卓小銭を押し付け合っている襄陽や他郡の光景とは、明らかに異なっていた。
(臨沮と同じく、董卓小銭の流入そのものを防いでいるようですね。臨沮のような小さな県ならば、関所を絞るだけで容易ですが……。これほど取引が多く、物資が流れ込んでくる巨大な津でそれを徹底するのは、並大抵の労力ではありません。よほどの統制と、独自の『価値基準』がなければ成し得ないことだ)
向朗は内心で舌を巻いた。
忌まわしき董卓小銭。それは為政者たちが今、最も頭を悩ませている経済の毒であった。名士である蒯越らも、向朗の指摘によって、この街を覆う「清潔な帳簿」の正体に気づき、戦慄を覚えたようだった。黄祖という男は、単に武勇に優れた豪族などではない。江夏の物流と価値を完全に掌握しているのだ。
(やはり。備蓄の量が異常です。董卓小銭の影響を免れようと、絹や麦といった現物をこれほど集めていますか。それだけでなく、この物の値段の高騰すら逆に利用して稼いでいる。黄祖殿は、この国家の混乱を『商い』の好機に変えていますね。全く、敵に回したくない相手です)
やがて到着した安陸にある黄氏の居宅は、もはや一つの城郭であった。
幾重にも入り組んだ回廊、整然と並ぶ私兵、そして忙しなく行き交う膨大な数の家令たち。その圧倒的な権威の中枢、豪華な応接室の片隅で、向朗は石像のように気配を消して座っていた。
奥の広間では、蒯越と黄祖による、荊州の命運を分ける交渉が続いている。
「お茶が冷めても、誰も替えてくれませんね。まあ、末席の荷物持ちなんてそんなものか」
向朗が手持ち無沙汰に算盤の珠を撫でていた、その時である。
風を纏うような優雅な足取りで、一人の青年がこちらへ歩み寄ってきた。
安陸の湊で迎えに来た案内人は「黄忠」だったりします笑
本作5章では、黄忠の出番はなく、フラグですらないので登場させることをやめました。




