第2話:江夏監査、黄祖への算譜 その1
本日1話目です。
1.襄陽の謀議:仁義か策謀か
西暦一九二年(初平三年)、春。
孫堅軍を何とか汝南へと退け、一時の静寂を取り戻した襄陽城の一角。荊州刺史・劉表は、険しい表情で二人の智者に向き合っていた。
「荊州は今、宗賊が蜂起して民衆は従わず、先の戦で退けたとはいえ、北には未だに袁術の脅威が迫っておる。軍勢を集めようにも、この混迷の中、果たして民は我らに背を向けるのではないか?」
劉表の切実な問いに対し、まず口を開いたのは蒯良であった。
「民が従わぬは仁愛が不足しているゆえ。つき従いながら治まらぬは信義が不足しているゆえにございます。仁義の道さえ示せば、おのずと民は身を寄せて参りましょう。ご心配には及びませぬ」
儒教的理想を説く兄に対し、弟の蒯越(異度)は、冷徹な現実を突きつけた。
「兄上、それは平時の理。混乱の時代には、策謀こそを第一とすべきです」
彼は劉表へ向き直り、淀みなく言葉を継いだ。
「袁術は大軍を擁すれど決断力がなく、先の敗戦により放っておいても自滅しましょう。問題は内に巣食う宗賊の首領どもです。彼らは貪欲にして乱暴、部下も心服しておりませぬ。利益を餌に誘い出せば、必ずや手下を連れて服属しましょう。南は江陵を占領し、北はここ襄陽を守れば、檄を飛ばすだけで荊州全域が従います。……ただし」
蒯越の言葉が、僅かに重みを増した。
「荊州の東の玄関、江夏郡一の権門名士、黄祖。まず彼を抑えねば、荊州の真の平穏は始まりませぬ」
「名士」という言葉では到底収まりきらない。それが黄祖、江夏黄氏という一族の実態であった。
かつて後漢の腐敗政治に抗った三公・黄瓊。現在、太尉として董卓の暴政に対峙する黄琬。そして襄陽の学問の頂点に立つ黄承彦。その血脈は中央から地方まで網の目のように張り巡らされ、汝南の袁氏にも匹敵する巨大な同族集団を形成している。
その族長たる黄祖は、数千の私兵と水軍を自在に操る、実質的な独立軍閥の長である。それだけではない。江夏郡の物流を担う牙行、金銀財宝を取り扱う銀行など、ありとあらゆる商いは多かれ少なかれ黄氏の影響下にある。
「黄祖を味方につければ、江夏の物流と水軍が手に入り、袁術への強力な盾となる。だが、扱いを誤れば荊州は内側から食い破られましょう」
蒯越の言葉に、広間は重苦しい沈黙に包まれた。
2.末席の事務屋と強引な徴用
その重厚な謀議の末席。
柱の影で、ひたすら手元の竹簡に数字を書き込んでいた男がいた。向朗(巨達)である。
(江夏黄氏ですか。家系図が複雑すぎて、贈答品の宛名書きだけでも三日はかかりそうですね。あそこの物流の仕様を整理するとなれば、帳簿の規格を統一するだけで一年は欲しい。めんどくさい、実に関わりたくない……)
彼は、自分が「そこにいない」かのように気配を消していた。数字さえ合っていれば、自分のような下っ端の役人は、この歴史的な決断の場において空気と同じはずだった。
だが、蒯越の冷徹な視線は、正確に向朗を射抜いた。
「江夏の複雑な利権と、黄氏への膨大な献上品の手配。これには、正確無比な『計算』と、相手に警戒心を抱かせぬ『昼行灯』のような佇まいが必要だ。……向朗殿、君に同行を願いたい」
「……は? いえ、蒯越様。私は臨沮の事務が溜まっておりまして。私のような若輩が、三公を輩出した黄氏の長老の前に出るなど、恐れ多くて足が震えてしまいます」
向朗は精一杯の恐縮を見せたが、蒯越は薄く笑っただけであった。
「足が震えても、指先が算盤を弾ければ問題ない。……準備をしておけ。出発は明日だ」
(……。静かに『漢書』でも紐解きたいだけなのに。江夏の水路なんて、湿気で竹簡が傷むから一番行きたくない場所ですよ)
向朗の内心の絶望とは裏腹に、物語の歯車は音を立てて回り始めた。
剣も持たず、志も語らず。ただ、算木と執着だけを携えた事務屋の、巨大軍閥への「不渡」な挑戦が始まろうとしていた。
3.水上の講義:全ては黄氏の旗の下に
春の穏やかな陽射しを反射し、漢水の水面がゆらゆらと揺れている。船が江夏へと向けて川を下る中、甲板にはのどかな風音が響いていた。
「なあ、巨達の先生。なんで俺たちはこんな少人数でコソコソ行かなきゃなんねえんだ? いっそ劉表様の軍勢を全部連れてって、『仲間になれ!』って脅せば手っ取り早いじゃねえか」
巨大な木箱の上に腰掛け、退屈そうに足をぶらつかせながら、十歳の魏延(文長)が口を尖らせた。
陽翟からの大移動において、一族を救い出した恩人である向朗に対し、魏延は絶大な信頼を置いている。だが、生来の暴れん坊気質ゆえ、その敬意は「先生」という呼び方に辛うじて込められるのみで、口調そのものはどこまでも不遜であった。
船室の入り口近く、風を避けるように座り込み、大量の木簡を広げていた向朗は、筆を置いて顔を上げた。
「……文長くん。軍勢を動かすには、莫大な兵糧と、それを運ぶ人足、さらには彼らに支払う賃金が必要になります。今の劉表様には、そのための予算を計上する余裕が、物理的に不足しているのですよ」
向朗は手元の帳簿を整えながら、淡々と、しかし澱みない口調で続けた。
「現在、劉表様の支配域は襄陽と章陵周辺のみという、極めて不安定な状態です。北の南陽郡には袁術が居座り、本来の州治、南の武陵郡には袁術と同調している厄介な太守・曹寅が我が物顔で割拠しています。」
向朗が卓に広げた荊州の地図に、襄陽と章陵に◯を、南陽郡、武陵郡、長沙郡と✕を書き込む。
「なので劉表様は赴任してすでに二年以上経っているのに、州府の武陵に向かうことができず、襄陽にいるしかない状況なのです。味方を探すより先に、敵に囲まれている状況ですからね。めんどくさいことに、一歩間違えれば詰みですよ」
董卓によって荊州刺史の後任に就いた劉表であったが、周囲は反董卓派であふれ返っている。
明確に董卓派を表明するわけにもいかず、かといって袁術派に組するわけにもいかない。
劉表勢は、襄陽という一点で危うい均衡を保っていた。
「さらに、襄陽と南の各郡の間には、宗賊と呼ばれる武装集団がひしめき合い、物理的な壁となって物流を塞いでいます。劉表様が以前、周辺の宗賊連中を半ば騙し討ちで平らげたせいで、南の賊たちは一様に敵対的です。軍勢を出した瞬間に、背後から補給路を断たれるのが目に見えています」
数年前、掃討作戦に協力した章陵の水鏡党の、ひいては向朗の策略であったが、当時幼かった魏延にはその因縁はよく分からない。
「ふーん。周り全部敵ってことか。なら、なおさら江夏の軍勢を引き入れなきゃなんねえな」
魏延が腕を組んで頷く横で、向朗は地を這うような深い溜息を漏らした。
「文長くん。単純に『江夏の軍勢』と言いますがね、今の江夏郡は頭と胴体が切り離されたような、ひどく歪な状態にあるのですよ。領民からすれば、悪夢のような二重帳簿状態です」
向朗は顔を上げず、手元の墨で汚れた家系図を指先で叩きながら補足した。
「袁術の息がかかった劉詳という男が、勝手に太守を名乗り、江夏郡北西にある西陵を占拠しています。ですが、江夏郡の実際の物の流れと商いのすべては、これから会う安陸の黄氏が握っている。劉詳は表札だけで、中身の財布はそっくり黄氏の懐にある状態です」
船室から顔を出した使者の龐季が、黄氏は私兵数千と水軍を擁する大勢力だと補足すると、向朗は手元の算盤をチャッと鳴らした。その指の動きは、視線を落とさずとも異様なほどに速い。
「龐季様、それだけではありません。僕のような事務方から見て本当に恐ろしいのは、『家系図のどこを叩いても、必ず政府の高官か学問の巨頭にぶち当たる』ことですよ」
向朗は、広げた家系図をどこか忌々しそうに指差す。
「先代の三公たる黄瓊。現・太尉の黄琬。襄陽学術界の頂点、黄承彦先生。中央には政権の重鎮がいて、野には知識人の頂点がいて、そしてこれから会う黄祖殿が江夏の武力と銭を握っている。つまり、この一族は政治・学問・武力の全てを血縁という鎖で繋いだ、一つの巨大な怪物のようなものです」
その言葉の重みに、周囲の警護兵たちは押し黙り、魏延は不思議そうに小首を傾げた。
「だからこそ、脅せばいいじゃねえか。軍隊で取り囲んでよ」
「文長くん。自分の家の家宝を、泥足で上がり込んできた男に『大切にしろ!』と脅されて、素直に頷けますか? 彼らにとって江夏は自分たちの庭です。そこに軍勢で踏み込めば、彼らはその巨大なつながりを使って、たちまち荊州の流通を完全に止めてしまうでしょう。……僕が彼らの立場なら、迷わずそうして相手を干し殺しますね」
「先生。黄祖のおっさんというのは、そんなにも強いのか? 俺には、どうもよくわからん」
魏延が首を捻った。
「文長くん。例えば文長くんの着ている服や草履、薬や塩、肉や野菜の売買、学問を教えている師匠から大道芸人、占い師にいたるまで……それら全てに黄氏の息がかかっているとしたら?」
「は? なんだそれ?」
「江夏郡で黄氏に嫌われると、明日から麦も草履すら買えなくなるかもしれません。それどころか我々から物を買う者も、我々に物を売る者もいなくなる。街の大道芸人や占い師は、黄氏が有利になるよう噂を語っているかもしれない。彼らは軍隊ではなく、人々の生活そのものを握っている。……黄氏とは、そのような力です」
向朗の淡々とした、しかし冷徹な「権門の実態」の解説に、警護の者たちが息を呑んだ。名目上の太守よりも、日々の糧を握る黄氏の機嫌こそが、江夏を動かす絶対の法であるという事実。
「それに、この会話ですら黄氏は聞いているかもしれませんね。この船の船頭や船夫が黄氏の息のかかった者かもしれませんし、この旅のために積み込んだ食糧も、黄氏の息がかかった商人が用意したものかもしれません。我らを消したいなら、いつでも、どの頃合いでもできるでしょう。僕ならそうします。……まあ、あまりに大きすぎる相手を気にしても仕事が進みませんから、今は考えないことにしていますが」
「先生、やっぱりアンタ、戦わねえのになんか怖えよ……」
魏延は少しだけ身震いをして、自身の座っていた木箱をさすった。少年の目には、波打つ水面の下に隠された「数字と血筋の迷宮」が、どんな戦場よりも複雑で巨大な城壁に見え始めていた。
「蒯越様、向朗殿。そろそろ今後の方針を擦り合わせたい」
船室から呼びに来た部下に「分かりました」と短く答える向朗の態度は、億劫さを隠そうともしない。
「まあ、この複雑怪奇な交渉という舞台に立って説得するのは、正使である蒯越様たちの仕事です。僕は片田舎の小役人らしく、裏で江夏の帳簿の収支が合うか監査するだけですよ。……さっさと仕事を終わらせて、静かに『春秋左氏伝』の続きでも紐解きたいものです」
向朗は大きなあくびを一つすると、筆や算盤を袋に詰め、竹簡の山を抱えて船室へと消えていった。
水上を渡る風だけが、静かに彼らの会話を攫い、江夏の地へと運んでいった。
黄祖。
史実でも幾度と孫策、孫権軍を敗退せしめた江夏郡に約二十年太守を努めた人物。
その「黄氏」は江夏郡の安陸という地域を収める巨大な豪族名士だったのだとか。
ここで語られている「黄氏」の描写は、かなりオーバーな脚色をしていますが、史実ベースだったりします。




