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第五章 魔王の遺産と幽霊の算譜 「丞相を継ぐ者」三国志向朗伝  作者: こくせんや
第5章 「魔王の遺産と幽霊の算譜」

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第1話:漢水の停滞と重すぎる棺 その2

4.漢水の殺気と、震える書生


 襄陽の城門を背にし、使節団を乗せた小舟は漢水の河岸へと向かった。


 冬の乾いた風が吹き抜け、川面には白く濁った霧が立ち込めている。その対岸には、主君を失い、飢えと疲弊の中で、かろうじて忠義のみを理性の拠り所にしている孫軍の陣営が広がっていた。


 かつて数万を数えた軍勢は、今や千人余り。兵糧は尽き、多くが散り散りとなったが、残されたのは孫家に(あつ)い恩義を感じる精鋭のみ。それゆえに、その静寂は穏やかな弔いなどではない。今にも弾け飛び、全てを焼き尽くさんとする復讐の炎が凝縮された、重苦しい沈黙であった。


 大車を引いて陣営の境界に近づくと、瞬時に数十の槍先が向けられた。


「止まれ! 劉表の(いぬ)め、何の用だ! 命が惜しくば今すぐ立ち去れ!」


 最前線の兵士たちの眼は血走っている。その殺気に真っ向から立ち向かったのは、正使として先頭を歩く桓階であった。彼は武器を持たず、ただ悲痛な面持ちで一歩前に出た。


「待たれよ! 私はかつて長沙にて孫堅様に推挙された桓階と申す! 恩ある孫堅様の亡骸をお返しするため、劉表様に願い出て参ったのだ!」


 桓階の悲痛な叫びに、陣営の奥から孫堅の甥・孫賁が歩み寄ってきた。鎧の隙間から覗くその表情は、冷徹な怒りに満ちている。


「桓階殿だと……。かつて我が叔父上の恩を受けながら、今は叔父上を殺した劉表の使いとして、どの面を下げて現れた!」


「孫賁殿、罵りは甘んじて受けよう。だが、英雄の魂をこのまま敵地に留め置くことだけは、私の義が許さなかったのだ! どうか、亡骸を受け取っていただきたい!」


 涙ながらに訴える桓階の背後で、副使の向朗はおどおどとした事務官の顔を貼り付けたまま、思わず肩をすくめていた。


(義や情だけで数万の殺意が止まるなら、誰も兵糧の計算なんてしませんよ。さあ、ここからは物理の出番です)


「あの……副使の向朗と申します。桓階様の仰る通り、英雄の魂を無事にお返しするために、私なりに最善の準備を整えて参りました。ね、文長」


 向朗が優しく促すと、魏延が「ふんぬ!」と気合と共に、大車から巨大な木箱を引きずり出した。


5.魏延の咆哮と、若き獅子の涙


 ドォォン、と重低音が響き、地面が僅かに揺れた。

 現れたのは、北方の銘木を幾重にも重ね、継ぎ目を漆と鉄帯で固めた、常軌を逸したほど重厚な棺であった。


「な……これは、何だ」


 孫賁が呆気にとられたように呟く。正使の桓階すらも、その後ろで初めて見る異様な棺の迫力に絶句していた。向朗が口を開くよりも早く、魏延が一歩前に踏み出した。少年の瞳には、嘘偽りのない涙が溜まっていた。


「あんたたちが、孫軍の人たちか! 俺は、章陵の魏延だ! 向朗先生に頼んで、この棺を造らせてもらったんだ!」


 魏延の声は、戦場全体に響き渡るほど力強かった。

「俺は、孫堅様の戦いっぷりをずっと聞いてたんだ。天下の呂布(りょふ)まで倒し、洛陽(らくよう)に誰よりも速く駆け抜けた、あんなに強い、本当の英雄が、こんな湿った戦場の土に塗れて腐っちまうなんて、絶対にあっちゃいけないことだ! 俺は、俺は嫌なんだ!」


 魏延は鼻をすすり、叫ぶように続けた。


「この棺の中には、先生が苦労して集めた、腐敗を防ぐ塩と烏梅、辰砂、秘伝の生薬と鉛が隙間なく詰まってる。これなら、呉郡(ごぐん)まで届く間、孫堅様のお体は決して傷まない。お願いだ、これに納めて、早く故郷へ連れて帰ってあげてくれよ!」


 この子供ならではの、計算のない純粋な敬慕。


 復讐と殺戮のことしか考えていなかった兵士たちの心に、その言葉が鋭い(くさび)となって打ち込まれた。人混みを割り、一人の若者が姿を現した。


 当時十八歳。後に小覇王(しょうはおう)と恐れられることになる若き獅子、孫策(伯符)であった。その端正な顔は涙に濡れ、魏延の言葉を一言も漏らさぬように聞き入っていた。


「見ず知らずの、それも敵地の少年が、父上のためにこれほどまで……。ありがたい。誠に、ありがたいことだ」


 孫策は魏延の前に跪き、その小さな手を強く握りしめた。情熱的で、人の情に脆い。その若き英雄の性質が、向朗の用意した「誠意」を完璧に受け入れた瞬間であった。


6.兵站の鎖


 しかし、孫賁だけは冷ややかな目でその棺を見つめていた。千人の将兵が立ち尽くす中、彼は一歩前に出ると、棺の鉄帯に手をかけ、その異様な重さを確かめるように力を込める。


「待て、伯符。この棺、あまりに重すぎはしないか。これほどの重量、中には何が入っている」


 孫賁の言葉に、周囲の将兵の空気が再び張り詰めた。

 桓階は慌てて取り成そうとした。「孫賁殿、それは英雄を鎮めるための手厚い保護ゆえ……」と情に訴えるが、孫賁の疑念を晴らすには弱い。


 向朗は内心で(めんどくさい)とぼやきながらも、動揺を微塵(みじん)も見せず、どこまでも事務的な、頼りなげな笑みを浮かべて前に出た。


「おっしゃる通り、ずいぶんと重くなってしまいました。ですが、これからの季節、南の呉郡までの数千里を、水一滴も染み込ませずにお運びするには、これだけの辰砂と塩による密閉が必要なのです。一つでも減らせば、道中で必ずお体が傷みます。すべて、確実な保護のための仕様書通りです」


 向朗が言葉を継ぐ間、背後の徐庶は一歩も動かず、鋭い眼光を孫賁の手元に固定していた。万が一、この「親切」の裏側を暴こうと剣が抜かれれば、即座に断つ(たつ)構えである。


(別に変な細工をしたわけではありません。ただ、真夏すら超えて腐らずに運べるよう、徹底的に防腐処理の計算を施しただけです。極厚の銘木を使い、隙間なく塩や薬草を詰め込み、鉛を流し込んだ……その実務の積み重ねが、この四百斤(約百キロ)近い致死的な重量を生んだのです。これは謀略ではなく、ただの物理です)


「本当、ただの防腐と保護の積み重ねなんですよ」


 向朗はおどおどと付け加えた。その技術的な説明を聞き、若き孫策が感極まったように棺に(すが)りついた。


「父上のために、それほどの手間を。桓階殿の義、そして貴殿らの誠意、ありがたいことだ」


 涙を流す孫策の姿に、周囲の兵たちも次々と槍を下ろしていく。孫賁は未だ訝しげに向朗の瞳の奥を覗き込もうとしていたが、そこに野心や策略の色は見出せなかった。ただの気の弱い帳簿係にしか見えなかったのだ。


「皆様の忠義があれば、これくらいの重さ、何でもない……と思いますよ。ね?」


 向朗の、逃げ場のないほど穏やかな問いかけ。それに応えたのは、やはり孫策であった。


「左様。父上の遺徳を運ぶのだ、軽々しい箱で済ませるわけにはいかぬ。全軍、武器を収めよ! 槍を捨て、肩を貸せ! 我らはこれより、父上を故郷へ送り届ける葬列となる!」


 孫策の咆哮が、軍の空気を一変させた。孫賁も、若き獅子の決断を前にそれ以上の追求を飲み込み、静かに手を引いた。


(よかった。仕様書の意図を疑われて、ここで計算外の戦闘になるのが一番めんどくさいですからね)


 向朗は内心で安堵の息を吐いた。


 棺を運ぶための準備が始まる中、遠景では奇妙な光景が広がっていた。


「本当か! 孫堅様は、あの洛陽の炎の中を、誰よりも速く駆け抜けたってのは!」


 声を張り上げていたのは、十歳の魏延であった。大車を支えていた時とは打って変わり、目を輝かせて孫家の将兵たちに詰め寄っている。


「ああ、坊主。嘘じゃねえ。あの時、董卓(とうたく)の軍勢を蹴散らし、廃墟となった都に一番乗りを果たしたのは、我が主君の軍だった」


 先ほどまで殺気を放っていた程普(ていふ)韓当(かんとう)ら古参の将が、泥に汚れた袖で目元を拭いながら、誇らしげに語り返す。


「呂布だって追い散らしたんだろ? すげえなあ。俺もいつか、そんな風に戦場を駆けたいんだ!」


「はは……いい気概だ。だがな、我が主君はただ強いだけじゃなかった。部下の一人一人の腹の減り具合まで気にかけるような、温かいお方だったんだよ」


 魏延の混じりけのない英雄譚への渇望が、凍てついていた将兵たちの心を完全に溶かしていた。彼らにとって、亡き主君を称える少年の言葉は、どんな読経(どきょう)よりも救いとなったのであろう。語る将兵の横顔には、誇りと、二度と戻らぬ主への深い思慕が滲んでいた。


(文長くんのあの無邪気さは、僕のどんな計算よりも、彼らの『情』という名の不確定な数値を安定させてくれますね)


 魏延という潤滑油(じゅんかつゆ)に感謝しつつ、向朗は改めて、この「葬列」という名の平和な武装解除が完遂されたことを確信したのである。


7.静かなる弥縫


 数刻後。

 漢水のほとりには、亀のような歩みで南東へと進む、異様な大集団の姿があった。


 将兵たちが巨大な棺を囲み、呻き声を上げながら一歩一歩進み始める。彼らの意識はもはや「劉表への復讐」ではなく、「この重すぎる荷物をいかに落とさずに運ぶか」という物理的な苦行にのみ集中していた。


 拱手(きょうしゅ)し、立ち去ろうとする桓階と孫策に、徐庶が伝える。


「章陵郡の徐庶と申します。太守・蒯越様から格別のお許しをいただき、章陵の各(むら)では、先の『麦一石』引換券を提示されたし。最低限の麦の提供をさせていただきます。これで汝南の(えん)氏の本貫の地まで戻れよう」


 そこまでしていただけるのかと、再び感極まる孫策。桓階は万感の思いで頷く。


「……『麦一石』か」

孫賁は何か言いそうになるも、思いとどまり無言で葬列へと戻っていった。


「巨達殿。彼らの足は、通常の三倍は遅いな」

 徐庶が、去りゆく軍勢を見送りながら静かに告げた。


「そうですか。それは良かった。あまりに足が速いと、途中で気が変わって戻ってこられるかもしれませんからね」


 向朗はもはや彼らの方を見ていなかった。懐から取り出した竹簡に目を落とし、文字を追い始めている。

 彼らの記憶には、亡き主君への悲哀と、少年の涙、そして棺の異常な重さだけが残り、それを手配した薄汚れた小役人の顔など、数日もすれば完全に消え去るだろう。


 陣営を去る兵士たちの背中は、ただ「重い荷物を持った葬儀」の列。

 向朗は一つ大きなあくびをすると、どこまでも穏やかに、昼行灯の微笑みを浮かべていた。


「さて。これでしばらくは、静かに『春秋左氏伝』でも紐解けるといいのですが」


 戦は終わった。

 それは、歴史の表舞台には決して名が残らない、名もなき幽霊による静かなる事務処理の成果であった。



【次回予告】


 孫堅を退けたのも束の間、荊州の次なる鍵は巨大軍閥・江夏黄氏が握っていた。政治、学問、武力を血縁で繋いだ「怪物」を味方につけるべく、蒯越はまたも向朗を強引に連れ出す。


 向朗が提示したのは、忠義ではなく「利権の独占契約」という名の毒饅頭。

 だが、安陸の地で待ち構えていたのは、冷徹な鑑定眼を持つ黄氏の嫡男・黄射であった。

 隠蔽し続けてきた向朗の真価を見抜こうとする若き才子。

 算盤の珠を弾く音だけが、静かに、そして鋭く響き渡る。


剣を持たず、実務の刃で乱世の綻びを縫い合わせる「弥縫」の算譜。


第2話:江夏監査、黄祖への算譜


救わず、ただ繕う。破綻のその先まで――。

前章のエンディングに使おうと思っていたエピソードです。

史実での桓階は孫堅の家臣、父の喪に服すため郷里に帰っていたところ、孫堅が戦死したので、危険を冒して、遺体の引き取りを申し出た人物。

とはいえ桓階の郷里は遠く離れた長沙のはずですが、何故襄陽にいたのですかね?そんな史実の隙間から考えたエピソードですね。


この物語の向朗さんの、随所に登場する超人的な記憶力ですが、彼の暗記力や計算の速さは、天才的なものというより、ポケモン全種類の名前、能力、技や相性を覚えているような感覚です。

三国志好きの人だと、登場人物の能力経歴、全部覚えているような人いるじゃないですか。1800年前の人物千人覚えているて凄くないですか?

傍から見ると、おかしな記憶力ですが、本人は至って『普通』なこと。


そんなイメージだったりします笑

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