第1話:漢水の停滞と重すぎる棺 その1
さてはじまりです。
荊州のいつもの向朗達の話を数話はさみ、少し先で序文につながる長安パートとなります。
1.臨沮の均衡と再招
|西暦一九二年(初平三年)、春。
荊州の山間に位置する臨沮県に、ようやく一時の平穏が訪れていた。
昨年末から年初にかけて、荊州は激動の渦中にあった。北からは袁術が孫堅を先鋒として侵攻し、襄陽は包囲され、孤立無援で寡兵の劉表政権は崩壊の危機に瀕したのである。しかし、章陵郡を拠点とした太守・蒯越の巧妙な迎撃に翻弄された袁術軍は、まるで自壊するように兵站から崩れ去り、猛将たる孫堅も峴山に散った。
赴任したばかりの弱小刺史に過ぎない劉表が、強大な袁術の軍勢を退けたという事実は、瞬く間に天下を駆け巡り諸侯を震撼させた。
だが、その騒乱の裏で、一枚の紙片――章陵札『麦一石』が一時的に流通して物価の暴騰を抑え込み、同時に敵軍を内側から食い破っていたという真実に気づく者は、ほとんどいなかった。
そして、その『紙片』という劇薬の考案者であり、戦局を見えざる帳簿で操った陰の立役者、向朗(巨達)は、数ヶ月ぶりに本来の任地である臨沮へと帰還していた。
「やっぱり、自分の席が一番落ち着きますね」
県庁の執務室。向朗は、使い込まれた椅子の感触を確かめるように深く腰を下ろした。章陵での任務は、あまりにも「出」が多すぎた。数字の収支だけでなく、彼自身の精神的な許容量までもが削り取られていたのである。彼が今、切実に求めているのは、天下の趨勢でも功名でもなく、山積みにされた未読の古竹簡を心ゆくまで捲る、静かな時間であった。
だが、現実は無情であった。彼の目の前には、竹簡の山に埋もれて途方に暮れた顔をしている男がいた。臨沮県長、呉宏である。
「ああ、巨達くん……。ようやく、ようやく戻ってきてくれたのか。もう、私一人では限界だったんだよ」
若き県長は、事務の激流に溺れ、精根尽き果てた様子で力なく筆を置いた。向朗は、その窶れた横顔に同情を覚えつつも、内心では「めんどくさいなあ、『左伝』でも紐解きたいのに」と小さくぼやきながら、のろのろと隣の席へ移動した。
「呉県長。顔色が最悪ですよ。僕がいない間、ここで反乱でも起きたんですか」
「いや、何も起きてはいないよ。ただ、何も起きていないからこそ、こうなっているんだ。君がいなくなってからの数ヶ月、この帳簿の蛇どもが私を飲み込もうとして……見てくれ、この徴発記録の不整合を。去年の収穫量と今年の種籾の計算が、どうやっても合わないんだよ」
呉宏の声は力なく、どこか遠い世界を彷徨っているかのようだった。向朗は、その惨状をひと目見て、呉宏の手から次々と竹簡を奪い取っていった。
「呉県長。そのあたりの記録、僕が引き取ります。あと、そっちの商人や農民からの申し立て資料も」
向朗は茶を啜りながら、まるで手慣れた物語でも読むかのような手つきで竹簡を捲り始めた。
彼がなぜこれほどまでに計算が速いのか、その本質を理解できる者はこの執務室にはいない。それは膨大な記憶力と、過去の膨大な事例の応用が瞬時に火花を散らす、彼独自の思考回路によるものであった。だが、傍目から見るその姿は、計算に没頭する苦学生などではなく、興味深い書物に注釈を書き入れる愛書家のそれであった。
「ここですね。農作物の輸送費に、去年の雨季の補修費が二重に載っています。面白いなあ、誰がやったんでしょう。こっちの商人の不服申し立ては、単なる単位の勘違いです。修正しておきます」
軽やかな筆致で、次々と竹簡の端に小さな注釈が書き込まれていく。彼が息をするようにさらりと筆を走らせるたびに、迷宮のようだった帳簿に一本の筋が通り、不整合が消えていく。
「ああ、助かるよ……。巨達くんが数字に触れると、まるで荒れ狂っていた川が静かな水面に変わるようだ。君がいない間、私は数字が蛇になって噛みついてくる夢を何度も見たんだよ」
「単なる慣れですよ、呉県長。入りと出を正しく扱えば、数字は嘘をつきません。……はい、これは終わりです。次の束を」
一切のミスを出さず、淡々と事務処理をこなしていく向朗。彼が戻ったことで、臨沮の行政機能はようやく本来の均衡を取り戻しつつあった。
だが、その穏やかな時間は、一通の早馬によって唐突に破られる。
「急報。襄陽の蒯越様より、向朗殿へ即刻出頭の命!」
執務室に響き渡った伝令の声に、向朗は持っていた筆をぴたりと止めた。
「…………」
向朗は天を仰ぎ、この世の終わりかのような長い溜息を吐いたのである。
2.襄陽の火種と恐縮する事務屋
数日後。急遽、襄陽に呼び戻された向朗を待っていたのは、章陵太守にして劉表軍の筆頭家臣、蒯越(異度)であった。
袁術の大軍を退け、孫堅を討ち取った立役者として、今や荊州でその名を知らぬ者のない智将が、鋭い眼光を向朗に向けていた。
「向朗殿。息災であったかな」
「蒯越様。臨沮に戻って三日、ようやく帳簿の整理に目処がついたところでして。正直に申し上げまして、この呼び出しは僕の『予定』には入っておりませんでした」
向朗は、心底困り果てたように腰を低くして答えた。だが、蒯越の表情に揺らぎはない。
「状況は一刻を争う。孫堅は死んだが、その遺臣である孫賁や若き孫策らは、未だ漢水の対岸に千余の死兵を擁して陣を構えている。彼らは主君を殺された怒りに燃え、玉砕覚悟で襄陽へ攻め込まんとする勢いだ」
「殲滅すればよろしいのでは。千余の残兵の殲滅など、蒯越様の兵法をもってすれば、容易いことかと」
「殲滅は容易いが、死兵と化した千余を相手にすれば、我が軍の損耗も避けられぬ。何より、復讐の炎は物流の喉元を詰まらせる。……君の算盤で、この不要な摩擦を消してほしい」
あまりにも重い「無茶振り」である。向朗は、まるで無理難題を押し付けられた小役人のように、幾重にも丁寧な辞退の言葉を重ねた。
「蒯越様。恐れながら申し上げますが、私は片田舎である臨沮のしがない県丞、ただの事務屋に過ぎません。これほど重大な国の枢機に関わる大役、私なんかで一体何ができるというのでしょうか」
しかし、蒯越は向朗の昼行灯の仮面を見透かすように、静かに、しかし有無を言わせぬ威圧感を持って告げた。
「聞いてくれ。かつて長沙で孫堅の下に仕えていた桓階(伯緒)が、亡き主君への恩義から、遺体返還の使者を自ら志願してきた。義に篤い立派な男だが、彼には『遺体を返せば敵は必ず退く』という情に頼った希望的観測しかない。ある意味で、無策だ」
「……」
「情だけで軍は止まらん。桓階を正使として立たせつつ、君は副使として同行しろ。そして君の算盤で、確実に敵の足を止める手立てを打て。……そもそもこの状況は『麦一石』に騙され、踊らされた孫堅が敗死した結果だ。……引き受けてくれるな」
その一言は、拒絶を許さぬ命であった。
向朗は深い溜息と共に諦めた。やるからには、最小限の労力で帳尻を合わせ、さっさと帰るしかない。
彼は信頼で出来る友人を呼ぶ。一人は、無官ながら章陵で治安を守る徐庶(元直)。そしてもう一人は、章陵の知らぬ者はいない、身の丈を超えるほど巨大な木箱を鼻歌混じりに一人で運び込む十歳の少年、魏延(文長)であった。
「巨達先生。また何か面白い仕事があるのか。俺、この数ヶ月でさらに力がついたぜ」
「文長くん。力仕事があるのは確かですが、面白いかどうかは保証できませんよ。元直さん。またお手を借りることになりました」
「巨達殿。君が動き出すということは、また数字の裏側で誰かが泣くことになるのだな。承知した。私の剣は、君の算盤を守るためにある」
向朗は二人を連れて、襄陽の工匠区へと向かった。
「さて、まずは最高に『重厚な』贈り物を造らせましょうか。本当ですよ、争いがないのが一番ですから」
その瞳には、戦場の狂気も英雄への憧れもなかった。ただ、乱れた世界の収支を、可能な限り低コストで整合させようとする、静かな執念だけが宿っていたのである。
3.工匠区の算段
その日の昼。向朗は襄陽の町外れにある工匠区へと足を運んでいた。
向朗は工匠頭を呼び出すと、蒯越の名を記した木簡を提示し、一振りの仕事を依頼した。
「至急、棺を一つ造っていただきたい。装飾は質素で構いませんが、水一滴、空気一つ通さぬよう、辰砂と鉛、そして漆を幾重にも塗り重ねた特注の密閉品を。明日の朝には受け取りに来ますよ」
工匠頭が「たった一日では無理だ」と口を開きかけるより早く、向朗は帳簿を広げて資材の在庫と人足を割り振り、乾燥時間を逆算した最短の工程をその場で弾き出した。工匠頭は、一切の無駄を省いたその異常なまでに正確な「仕様書」に気圧され、ただ頷くしかなかった。
続いて向朗は襄陽の倉庫へ向かい、大量の塩、烏梅(乾燥した梅)、そして菖蒲を受け取った。
「元直さん。お手数ですが、章陵へ伝達をお願いします。千人余りの人々が南の汝南郡まで通れるよう、最低限の糧秣を道中の要所に手配してほしい、と。廃止した『麦一石』引換券を提示した者のみに、ですよ」
向朗は、仕上がりつつある棺の分厚い縁をそっと撫でた。
「さて、参りましょうか。孫軍の皆様に、最高に重厚な慈悲を届けに。争いがないのが一番ですからね」




