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第五章 魔王の遺産と幽霊の算譜 「丞相を継ぐ者」三国志向朗伝  作者: こくせんや
第5章 「魔王の遺産と幽霊の算譜」

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第3話:安陸の若君、黄射の慧眼 その1

1.翌朝の無意識な算定と、招かれざる客


 船室の窓から差し込む朝陽が、竹簡の埃を白く照らしていた。


 安陸の黄氏から提供された宿舎の片隅で、向朗は手早く荷造りを進めながら、ひっそりと溜息を漏らした。昨晩の宴の記憶が、不快な数字の羅列となって脳裏を埋め尽くしていたからである。


「……鹿肉が三頭分、秘蔵の老酒が十瓶。それに、あの文長くんが際限なく平らげた霜降りの牛。器の意匠や人足の動員数まで含めれば、あの一晩だけで優に……」


 事務屋の悲しい性であった。黄氏から支払いを求められたわけではない。だが、向朗の頭脳は卓に並んだ贅の総額を勝手に弾き出し、それを己が治める臨沮県の税収と無意識に比較していた。


 結果は無惨であった。昨夜の数時間の狂騒だけで、臨沮の民が泥に塗れて納めた税の数ヶ月分が消えた計算になる。


(あれだけの銭があれば、どれほどの書物が買えることか。全く、名門の金銭感覚というものは、帳簿の均衡を破壊するためだけにあるらしい。早く帰って読書がしたい。この街の空気は、数字が重すぎて胸が焼ける)


 向朗が心底うんざりした顔で筆を片付けようとした、その時である。

 扉の前に控えていた徐庶(じょしょ)が鋭い気配を見せたが、それを制するように風を纏った足取りで一人の青年が部屋へと踏み込んできた。


「なかなかに贅を尽くした宴であったな。巨達殿、楽しまれましたかな?」


 黄氏の嫡男、黄射であった。


 (はなだ)の袍服を鮮やかに翻し、腰の佩玉を涼やかに鳴らすその姿は、朝の光も相まって眩いばかりの華を放っている。対する向朗は、着古した単服に無地の頭巾という、どこにでもいる冴えない下級官吏の姿だ。


(まずい、 なぜ一番厄介な人間が、こんな朝早くから末席の事務官の部屋に来るのですか! 帰ってください!)


 内面ではかつてないほど激しく焦り散らかしながらも、向朗は即座に腰を低くし、徹底して無害な役人の愛想笑いを貼り付けた。


「これは若君。はい、一生分の肉を食べた気分でございます。黄氏の並外れた度量、この向朗、深く感銘いたしました」


 黄射は、向朗のへりくだった態度をじっと見つめていたが、その唇に真意の読めない薄い笑みを浮かべた。


「それは重畳。では、出発の前に少し見てもらいたい場所がある。……なに、事務屋の貴殿なら、きっと興味を惹かれるはずだ」


2.悪銭の隔離市場と、見事なるすれ違い


 連れ出された先は、安陸の港の一角であった。


 そこは頑丈な木の柵で厳重に区切られ、槍を持った私兵たちが鋭い目で出入りを監視している。柵の向こうでは、多くの商人たちがひしめき合い、せわしなく銭貨と荷を交換していた。


「いかがですかな、向朗殿。この街で作った『悪銭取引所』だ」


 黄射が誇らしげに指し示した先では、忌まわしき董卓(とうたく)小銭だけがやり取りされていた。安陸では、この区画内でのみ悪銭の使用を認め、これ以外の場所で劣悪な銅貨を用いた者は重罪に処すという。


 既存の経済網から「毒」を物理的に隔離し、帳簿の汚染を防ぐ。

臨沮で行われていた策を、江夏という巨大な規模で、力技の統制と共に再現した光景であった。


「……驚きました。これほどの規模で運用されるとは、黄氏の強大さが分かるというものです。臨沮は小さな県ですから。県長の呉宏(ごこう)様と共に、日々商人たちに頭を下げてお願いし続け、ようやく皆の協力を得られている状態に過ぎませんので」


 向朗は内心で、この街の諜報能力と実行力の恐ろしさに舌を巻いていたが、言葉にするのはあくまで「泥臭い苦労話」であった。


「…………」

「…………」


 二人の間に、妙な沈黙が流れた。

 黄射は、無造作に立つ向朗の横顔を、値踏みするように凝視している。


(お願い、だと? 聞こえは良いが、臨沮で、ただ頭を下げただけで悪銭の流通を統制できるはずがない。さぞかし的確で、逃げ道を一切許さぬ高度な監視網と取引制限を敷いているに違いない。それを『お願い』の一言で片付けるとは……。やはりこの男、底が知れぬ)


 黄射の内心の評価が、勝手に天井知らずに跳ね上がっていく。

 一方の向朗は、全く別のことを考えていた。


(本当に、呉宏様と一緒に頭を下げて回っているだけですからね。黄氏のように重罪で縛るなんて、摘発や牢の管理、それに伴う膨大な裁判記録の作成……そんな面倒な事務手続きが増える地獄、僕なら絶対に御免被りますよ)


 恐るべき経済の冷血漢だと確信する若君と、ただ事務負担を減らしたいだけの小役人。二人の認識は、漢水の流れよりも深く、修復不能なまでにすれ違っていた。


3.恐るべき引き抜きと、究極の「逃げ口上」


 黄射は不意に向朗の肩を掴み、その目を覗き込んだ。


「向朗殿。劉表様や蒯越殿の下で、ただの便利な小役人として使い潰されるのは惜しい。我が黄氏の専属書記官になれ。江夏の物流と財政、その全てを君に委ねたい。望むだけの地位と富を約束しよう」


 それは、並の文官であれば感涙して地に伏すほどの破格の勧誘であった。だが、向朗の表情には、一抹の喜びすら浮かばない。それどころか、まるで「明日から休日返上で全件監査を命じる」と言われたかのような絶望の色が、一瞬だけ瞳の奥を過った。


 黄射は、さらなる「名案」を思いついたように、自らの掌をポンと叩いた。


「そうだ。そなたは未婚であったな? 我が一族に黄承彦(こうしょうげん)の娘で、**黄月英(こうげつえい)**という者がおる。少々変わり者と言われるが、算学と機巧の知識は誰よりも優れているそうだ。才知の方は君とこれ以上なくお似合いだと思う。どうだ? 嫁に迎える気はないか」


 その瞬間、向朗は文字通りスッと一歩後ずさった。


 名門黄氏との親戚付き合いという、想像しただけで過労死しそうな人脈のしがらみ。

さらに、算学と機巧に狂った妻。家に帰っても帳簿の計算や得体の知れない機械の製作を手伝わされ、平穏な読書時間が一分一秒たりとも残されない「地獄の未来図」が、一瞬で弾き出された。


「……若君。恐縮ながら、謹んでお断り申し上げます」


 向朗は極めて真面目な、そして心底嫌そうな顔で答えた。


「地位が高くなれば、決裁の印を押す手間が増えます。富を得れば、その監査と管理で夜も眠れません。なにより、算学と機巧に長けた名門の奥方様など迎え入れた日には、家でも仕事をさせられる未来しか見えません。……それでは、私の大切な読書時間が完全に消滅してしまいます」


 向朗は深く溜息をつき、算木を弾くように淡々と言い放った。


「そのような、人生の帳簿が『大赤字』になる契約を、なぜ私が結ばねばならないのですか。私はただの事務屋です。仕事は速く終わらせ、早く帰って本を読みたい。それ以上の利益など、この世に存在いたしません」


 普通の男なら野心に燃えるはずの出世街道を、「労力の損失」というただ一点のみで切り捨てる。その徹頭徹尾「事務屋」に徹した特異な思考に、黄射は呆れるどころか、腹の底から歓喜の大笑いを上げた。


「はは推はは! 面白い、実に面白い男だ、向朗! なるほど、君を動かすには『暇』を対価にせねばならぬというわけか!」


 黄射の目は、獲物を仕留めた確信に満ちていた。


 向朗は内心で血の涙を流しながら、ようやく解放されたことに安堵し、逃げるように船へと足を向けた。

 第一の不渡りは回避した。だが、黄射という「将来的に確実に仕事を持ってくる巨大な負債」を抱え込んでしまったことに、この時の向朗はまだ気づかないふりをしていたのである。


4.すれ違う帰路(荊州名士の勘違いの極み)


 漢水の川面を、朝霧が白く撫でていた。

 安陸の港には、襄陽へと帰還するための船が、数隻の護衛舟を従えて静かに揺れている。

 向朗は、船着き場の石畳を踏みしめながら、誰にも悟られぬよう深々と安堵の息を吐き出した。懐には、昨夜の宴で少しでも読み進めようとして果たせなかった『漢書』の竹簡が、心地よい重みを持って収まっている。


(ようやく終わる……。結局、江夏の書庫を覗く時間は一刻もなかったが、臨沮に帰れば誰にも邪魔されぬ夜が待っている。あの不愉快な数字の山も、黄氏の若君の執拗な視線も、すべてはこの霧の向こうだ)


 使節団の本来の任務は、安陸での交渉を終えた後、その足で北方の雲杜(うんと)周辺を拠点に荒れ狂う宗賊の頭目、張虎(ちょうこ)陳生(ちんせい)の説得に赴くことであった。


 しかし、黄祖(こうそ)との会談は予想を遥かに超える円滑さで決着していた。黄祖は「彼らにはこちらから事前に話を繋いでおこう。劉表様への帰順を促す準備は我が方で整える」と、驚くべき協力を提示したのである。


 その成果に、正使である蒯越(かいえつ)龐季(ほうき)は、安堵の表情を浮かべていた。江夏の龍・黄祖を味方に引き入れただけでなく、厄介な宗賊の処理まで請け負わせた。これは外交上の大勝利と言って差し支えない。


 だが、一行が桟橋に足をかけようとした、その時である。

 背後の街路から、数騎の馬が石畳を激しく叩く音が響いた。


「蒯越殿、お待ちくだされ! 急報です!」


 駆け込んできたのは、(はなだ)の袍服を乱した黄射(こうしゃ)であった。その端正な顔は険しく、瞳には戦塵の予感が宿っている。


「若君、いかがなされた。不吉な騒ぎだが」


袁術(えんじゅつ)派の劉祥(りゅうしょう)が動きました。数万の兵を動かし、江夏への侵攻を伺っているとの報が入ったのです」


 蒯越の眉が跳ね上がった。劉詳。南陽を拠点とする袁術の配下であり、偽の太守を名乗って周辺を脅かしている野心家である。その軍勢が数万となれば、江夏単独での防衛は容易ではない。


「江夏の兵站準備に万全を期さねばなりませぬ。ついては……」


 黄射は、蒯越の返答を待たず、その鋭い視線を列の末席にいる向朗へと向けた。


「劉表様との迅速な連絡役も兼ね、事務と兵站に明るい向朗殿を、我が軍の助言役として安陸に残していただきたい。無論、護衛の少年も共にだ。彼がいれば、我が方の帳簿も淀みなく回る」


 それは、言葉を飾ってはいるが、明白な「人質」の要求であった。劉表側から有能な官吏を預かることで、襄陽からの援軍と協力を担保しようという黄氏の計算である。


 だが、蒯越は別の事実に衝撃を受けていた。


(……驚いた。黄氏の次期当主ともあろう御方が、正使である私や龐季殿ではなく、この名もなき臨沮の小役人を指名したというのか。それも、これほどまでに熱烈な信頼を寄せて)


 蒯越は、熱烈に向朗を引き留める黄射の姿と、それに対して心底嫌そうに、今にも泣き出しそうな顔で竹簡を抱きしめている向朗を交互に見比べる。そして、名士特有の鋭すぎる直感が、彼の中で一つの「真実」を弾き出した。


(やはり向朗、恐るべき男。短時間の会談の裏で、黄氏の懐にここまで深く入り込んでいたのか。私が黄祖殿と外交の建前を論じている間に、彼はすでに『実務』という名の網を次期当主に張り巡らせていたのだな。故に、あれほど早く黄祖殿との交渉が整ったのか。彼が指名されたのではない。彼が自分を指名させたのだ)


 蒯越の自戒と畏怖は、もはや揺るぎないものとなった。


「――相分かった。向朗、江夏の守りは荊州全体の安寧に直結する。君の才を、存分に黄射殿のために役立てるがよい」


「えっ、あ、蒯越様? 私はまだ臨沮の未処理の帳簿が山ほど……」


 向朗の必死の抗弁は、蒯越の重厚な頷きによって遮られた。


(よろしい。向朗、君の真価は私が一番正しく扱ってやろう。君をこれまで通り、目立たぬ地位に据え置いておくこと。それこそが、君という『毒』を無害な事務官の殻に包み、敵の懐へ深く潜り込ませる最善の戦略的偽装になるのだからな)


 向朗を「意図的に冷遇し、隠し持っておく」ことこそが最良の策であると、蒯越はこの瞬間に確信した。

 船着き場での別れの際、黄射は誇らしげに向朗の肩を叩き、船上の蒯越へと声をかけた。


「蒯越殿、江夏はいつでもそなたの『転職』を歓迎するぞ、向朗殿! 戦が終われば、また昨日の算術の続きをしようではないか!」


 船がゆっくりと岸を離れていく。遠ざかる船上から、蒯越が満足げに、そして「すべて分かっているぞ」と言わんばかりの深い信頼を込めた視線を送ってくるのを見て、向朗は立っているのが精一杯であった。


 そんな名士たちの高度な勘違いを知る由もなく、隣で不敵に笑う魏延(ぎえん)が、小声で囁いた。


「先生、あの若造、アンタのこと『すげえ切れる便利な新しい武器』を見るような目で見てたぜ。ありゃあ、絶対に諦めてねえな」


「……文長くん。縁起でもないことを言わないでください。私の武器は、文字を削るこの書刀だけですよ」


 最も目立たず、波風を立てず、早く帰って古の賢者の言葉に浸りたかったはずが、江夏の世継ぎには執着され、州の重鎮からは「裏工作の達人」として確定されてしまった。


 向朗は、船に乗り遠ざかる使節団を、頭を抱えながら見送り、ただ静かに懐の『漢書』を強く握りしめた。これから始まるであろう、平穏とは程遠い狂騒の予感から逃避するために。


絶望的な評価の食い違い。

史実でも、この後西暦209年頃まで臨沮の県令でしかない向朗。あまりにもスロー出世な人物です。

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