第一夜 繋がる③
ミシン台に置かれた作業中の衣類を見る、少し前に持ち込まれたものだ。
母親の形見の着物を解き西洋の服に作り変えて欲しい、若い女の依頼だった、形見を解くなどと歩夢は不快に思ったが奏人は快く依頼を引き受け、着物は見違える程に美しいものになっていた。
「さすが、仕事が早いですね」
「はは、お褒めに預かり光栄だ。それに、繋がってしまった糸を繋いでおかないと誰かに取られちゃうかもしれないからね、同業者ならまだしも、悪い子達だったら大変だ」
ゆっくりとした足取りで歩夢の前に近付き手を差出す、歩夢はその彼の冷たく大きな掌に小さい手を重ねた。
「行くよ、歩夢」
奏人は優しく手を包み込み、腰を屈めて歩夢の耳に囁いた。
声に反応し琥珀色の瞳が一瞬光り、そして小さく「はい」と呟き頷くと、奏人は歩夢を誘う様に暗い二階へと上がって行った。
余計なものが一つもない書斎、ボルドーの絨毯の上に両袖書斎机と壁には本棚が造り付けされ、本棚にはぎっしりと本が並んでいる。
机に置かれたランプの柔らかい光りが手元の書類を照らす。
天井には錬鉄の飾り彫りが施された照明が取り付けられ、灯りを通して流水桜の模様が浮き上がって見える。
「はぁ……」
勇は大きな溜息を吐き、書類を机に置き肩を回す、処理し終わったものは右端に、まだ確認していないものは左側に置いている、まだまだ未処理の書類の方が多い。
「……はぁ……」
恨めしそうに書類を睨み付け、邪魔にならないように机の端に妻が置いていった番茶は既に冷え切っていたが、疲れ果て乾ききった喉には丁度よかったようで、一気に飲み干し天井を仰いだ。
「なんなんだ今日は」
勇はしばし終わりの見えない作業を中断し、仕事帰りの出来事を思い出していた。
考え事をしながら銀座の大通りを歩いていたら、いつの間にか裏路地に入り、開店休業状態の仕立て直し屋に辿り着いていた。
その店には、だらしのない姿の緋色の瞳を持つ男と、中世的な顔立ちの青年がひっそりと運営しているようだった。
店内はそこまで広くなく職人の店そのものだが、何処と無くこの世と切り離されている雰囲気がそこにはあった。
「変わった店もあるもんだな……」
書斎入口に置かれたコート掛けに掛かるジャケットを見る。
「確かに体と合ってはいないし、若干のヨレもあるか――」
扉を恐る恐るノックする小さい音が聞こえる。
勇は扉の向こう側で緊張しているであろう人物を想像し深い溜息を吐く。
「入れ」
静かに返事を返すとドアノブがゆっくり回り扉が外側に開く。
「何しに来た、もう寝る時間じゃないのか」
薄暗い廊下から顔を恐る恐る覗かせたのは尋常小学校一年、息子の和樹。
小さい体をさらに小さくして怯えた目で、勇を遠慮がちに見る。
「あの……今日」
「私は忙しいんだ、用があるならはっきり言え」
和樹は両手を後ろに隠し俯いた肩は微かに震えている。
何か言いたげに体を揺らしているが黙ったままだ、その姿がとてももどかしく、勇を苛々させた。
「黙っていては分からない、早く言いなさい」
出来るだけ静かに聞く、だがそれも知樹にとってはその静かさも怖く、さらに俯き表情が見えない。
少しの間、辛抱強く返事をまった。しかし、和樹は体を揺らすばかりで黙りっぱなし、無意識に人差し指で机を叩き、足を揺すった。
「和樹、早くしなさい」
和樹は口を開かず立ち尽くし、とうとう痺れを切らした勇が沈黙を裂く。
「いい加減にしなさい!用が無ければ出て行け、仕事の邪魔をするな!」
和樹は身を縮めて目蓋をきつく閉じる、少しきつく言い過ぎたと思ったが出した言葉は戻らない、黙ったままの知樹が悪い、物事をはっきり言わない息子が悪い、時間が止まったようにピリピリとした緊張感が部屋を包み込む。
間もなくして廊下から此方へ向かう足音が聞こえ、そして扉が勢いよく開き妻の良子が息を切らして書斎へ入り二人を交互に見る。
「何事ですか……和樹?」
母親に気付いた和樹は振り返り、着物の袖を握り泣き出してしまった。
良子は和樹の頭を撫で小さく溜息を吐いて勇を見た、彼は鋭い目つきで睨みつけている。
「お仕事の邪魔をしてしまい、すみませんでした。和樹が今日学校で作文を書いたんです、それがとても素晴らしかったと先生に褒めて頂けたと言って喜んでいたんです。出来れば勇さんにも読んで欲しいと思って」
申し訳なさ気に眉を下げて頭を下げる、和樹は鼻を啜り泣いている。
「くだらん……それならばお前が相手してやればいいだろう、私は仕事で忙しいんだ」
机の上に重ねられた書類に手を伸ばし、視線を降ろす。
「すみませんでした」
消え入るような謝罪が聞こえ、扉が静かに閉じられた。
耳が痛くなるような無音を裂くように、書類にペンを走らせ深い溜息を吐く。
「まるで親父のようだな」
自傷めいた笑みを零す。
「そして、あいつは昔の私か……漸く親父の気持ちが分かったのか、今更か」
母親に抱きつき声を殺し、肩を揺らして泣いていた幼い息子の姿を思い出すと、少々心が痛んだ。
でも仕方ない、家族を養う為には働かなくてはいけない。恐らく父親も同じ気持ちだったのだろうと頭の片隅で思い、それを理解しろと言っても子供は分からないだろう。
大人の苦労など子供は分からない、ましてやまだ六つの子供にそんなこと言ってどうする、勇はそんな考えを消すように頭を振って書類を睨み作業を続けた。
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「すまないね良子さん」
良子の膝の上に顔を埋め、いまだに泣き止まない和樹を見て、勇の母サチコは申し訳なさそうに頭を下げた。
居間には、カブリオールドレッグの革張りソファーが二人用と一人用の二脚がテーブルを挟んで向かい合わせに置かれている。
テーブルの上には焼き菓子と紅茶が置かれ、甘い香りが部屋に染み渡る。
二人掛けに良子と知樹が、一人掛けにはサチコが座っている。天井から部屋を仄かに照らす電気が今は少々眩しく感じた。
「いいえ、そんな、謝らないでください」
サチコは和樹の右手に握り締められている紙に目を向けた、紙には幼い子特有の歪な文字が連なっている。
「読んで欲しかったんだね、作文」
和樹は小さく頷いて更に良子の膝に顔を埋めた。
「少し前まではああではなかったんだけどね、まるであの人を見ているようだよ」
「お義父様ですか?とても厳格で仕事に生きた方だったと勇さんから聞いた事があります」
「……勇の目にはそうやって見えていたんだね、あの人は仕事熱心ではあったし、教育にはかなり厳しかったね、でもそれも――」
サチコは何かを思い出すように目蓋を閉じ、天井を仰ぎ、思い出を振り返った。
儚くも懐かしい色褪せることのない記憶は、頭の中に広がる。
夫との出会い、結婚、出産、そして夫と交わした約束、色々な記憶が巡っていると良子の呼び声に意識が引き戻され目を開け、悲しげに微笑んだ。
「でもこれは、この記憶は……私とあの人との約束だから言えない、言えないね」
「あの、勇さんが今着ている背広はお義父様の物でしたよね。最初で最後の贈り物だったとか」
「ああ、あれかい?あれはあの人が一番大切にしていた物だからね、勇に受け継いで欲しかったんだろう。あの人と勇にはもう少し時間が必要だった、あの子にはあんな思いをして欲しくは無いのだけれど……」
和樹を見ると、泣き疲れたようで寝息をたてて眠っており、二人は顔を見合わせ小さく笑った。
「もう夜も遅いから寝ようかね」
「はい」
良子は和樹を抱き抱えて立ち上がり、サチコはお盆を持ちテーブルの上を片付けた、時計は十一時をさしていた。
ひんやりと冷たい廊下、窓からは夕日が差し込み琥珀色に染める。
勇はぼんやりする意識のまま立ち尽くし、目の前にいる少年を見つめていた。重圧な書斎の扉の前で緊張した表情で立っている、小さな手には一枚の紙が握られていた。
「和樹?……え」
口を動かして発したはずの言葉は、口を伝う事無く脳に響き、頭の片隅でこれは夢の中なのだと理解した、恐らく仕事中に意識を離してしまったのだろう、情けないと小さく息を吐き少年を見据えた。
「あれは、私?私だ……」
声無き声で自問自答した。その少年が自分であると気付くまでに少し時間がかかった、それもそのはずで横顔や背格好が瓜二つだったからだ。幼き頃の自分を見ているというのはどうも不思議な感覚だ。
じっと立っていた少年の勇は意を決した様に扉を叩く。
コン……コン……
遠慮がちに小さく二度叩き返事を待つ、一分、二分、勇にとってはとても長く重い時間が過ぎていくが、なかなか返事が聞えない。
勇は残念そうに肩を降ろして扉の前から離れようとした時、懐かしい声が微かに聞こえた。
「誰だ」
思い出したくても思い出せなくなっていた神経質で重みのある父の声、勇の肩が跳ね上がり足を揃え、背筋を伸ばし姿勢を正して口を開く。
「い、勇です!」
緊張も最高潮、膝と手が小さく震えている。
駄目だ引き返せ、勇はそう少年の勇に言うが声が出ない。ならば近付いて手を引っ張ってこの場から離そうと思ったが、足は床に縫い付けられたように動くことが出来ず、険しい表情で少年を見た。
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
聞えないと分かっているが叫ぶ、しばらくするとドアノブが動き扉がゆっくりと開いた、しかし勇の位置からは父親の顔が見えない。
少年は一度だけ父親の顔を見たが直ぐに俯いてしまった、その目には恐怖の色が見える。
「なんだ?」
「……あ、あの今日、学校で作文があって、そ、その」
少年の姿と和樹の姿が重なった。ぎこちない引き攣った笑顔で手に持っていた作文を差し出している、しかし父親はそれを受け取る気配が一向にない。
「――ッ……今は忙しい、後にしなさい」
「でも、少しだけ。この作文、先生に褒められたんです、お仕事が終わってからでも――」
少年の笑顔が消えた、勇はこれ以上見たくないと顔を伏せて事が終わるのを待つ。
重圧な扉は音も無く静かに閉じられる、残されたのは俯く少年と強く握り締められた作文用紙、夕日に染まる廊下は憎らしくとても眩しかった。
だから引き返せば良かったんだ、期待してはいけなかったんだ、あの人はいつもそうだ家族の事なんて興味が無く仕事一筋、いつもそうだった、なのに何故期待をしてしまったのだろうか、後悔してしまうなんて目に見えていたのに、勇は目を瞑った。
「これは、貴方の深い思い出ですか?」
物腰柔らかな男の声が背後から聞こえ、心臓が一瞬跳ね振り向いた、体は動かないようだが顔は動いた。
振り向くとそこにはインバネスコートを羽織り、黒の山高帽子を被った奏人が立っている、顔は逆光で見えないが、緋色の瞳だけが細く光って見える、笑っているのだろうか。
勇は恐怖よりも、見ず知らずの人間が何故いるのだと言う不愉快さが大きく、敵意ある目で睨んだ。
「誰だ、人の家に勝手に入り込んで!」
「正確には“夢の中”ですね、あぁ!お邪魔してます。飯塚勇様」
奏人は英国風のお辞儀をするが、その姿がどうも芝居じみているのが気になる、最近同じ様な人に会ったような気もするが思い出せない。
「私は紡ぎ師の奏人と申します、以後お見知りおきを。そして、そこにいるのは僕の助手の歩夢です」
誰もいなかった勇の横を指差す、その指差す方を向くとそこには目を疑う生物が立っており、目を見開き咄嗟に壁際に逃げた、さっきまで動くことが出来なかったのが嘘のように自由に動く、これ幸いと奇妙な生き物との距離をとった。
「お、おい。この生き物はなんだ!」
体は熊、鼻は像、目はサイ、尾は牛、脚は虎という異様な存在が少年の勇を見据え立っている。
「その子は獏です」
「獏?獏ってあの?」
「おや、ご存知ですか?それなら話は早い」
声は軽やかに弾んでいる。
「しかし、あれは作り話の存在しない生き物だろ」
「ええ、現実には存在していませんね。でも、此処は夢であって現実ではありません、故に獏は存在する」
奏人は面白いとばかりに口元を吊り上げて勇を見る、歩夢は勇を見て軽く会釈をした、まるで言葉を理解しているように、琥珀色の目はどこか優し気に彼を見る。しかし、獏という存在を始めて見る者の反応は決まっている。
「う、うわっ、見るな!」
優し気な目だろうと、その異様な姿は恐れそのものだ。多くの人は目が合うだけで悲鳴や罵声を上げる。
江戸時代には獏を描いた札は縁起物とされ流行した、獏の形をした獏枕まで作られたと言うのだが、人は見慣れないものを恐れてしまう傾向があるのを歩夢は知っている。
顔を再び前へ向け寂しそうな感情に包まれる、それを見た奏人は笑顔を崩さずも目は笑わずにいる。
「獏は襲いませんよ、この子達は優しいのです。野犬や何かと同じだと思われたくないものですね、まったく……そこまで怯えては彼女に失礼だとは思いませんか?歩夢、人になりなさい」
その声に答えるように、歩夢は淡い光りを放ち人の姿に変えていく。
肩辺りで切り揃えられた髪に花簪を前挿し、琥珀色の瞳。艶やかな蝶の刺繍が施されるている杏色の着物に海老茶袴、裾からは黒の編み上げショートブーツが覗くハイカラ少女の姿になる。
「此方の姿ならば問題ないですよね、そんな壁と一体化しようと試みないで広い方へ来て下さい」
それでもなお、勇は壁から離れることはなく奏人は冗談ぽく大げさに肩を竦めた。歩夢は無表情で奏人を見つめ指示を求める。
「まぁ、直ぐに恐れはなくなりませんよね。本日はご挨拶のみにさせていただきます」
「は?」
「我々と貴方には関係と言う糸が生まれ、そして言葉無き依頼を受けました。またお会いしましょう、僕はこれから歩夢を慰めるという任務が発生しいてしまいましたので、じゃあ歩夢は簡単に説明してから戻っておいでね、僕は説明と言うのが苦手で、では」
奏人は踵を返し夕日に包まれ消え、残されたのは勇と歩夢だけになった。
自分の主だが自由過ぎる、面倒な事は全て歩夢に任せる、時々彼が何を考えているのかが分からない、小さく息を吐き勇を見た。
「……えっと、簡単に説明します」
歩夢から出される声は、中性的であり不思議な色を宿しており、聞く者に安心感を与え、先程の恐怖心が薄れていくのを勇は感じた。少し冷静になった頭で、自分が歩夢に対して失礼な行動をとっていた事に気付くと、壁から離れて向き合った。
「先ほど飯塚様が仰っていた通り、これは夢です」
「え?」
「そして私達の存在は幻想です。目が覚めた時には、私達の存在は貴方の記憶には残りませんのでご安心ください、生活に支障ありません、それだけです。では、また」
切なげに微笑み一礼すると、奏人が消えていった夕日に向かって足を進めた。
「あ……」
すると後ろから声がして足を止め、顔を横に向けた。
「何かご質問ですか?」
「いや、その、すまなかった」
「え?」
「失礼な態度をとってしまって、すまなかった」
勇は深く頭を下げる、それを背中で感じた歩夢は一瞬驚いたが振り向くことは無い。
「頭を上げてください、私は慣れていますのでご安心ください。全ては幻想の中に」
眩い光りが空間を包み込んでいき、琥珀色の光りから白の光りへと変わっていく。
勇が立つ廊下も薄れていき、幼い自分も霧の中へ姿を消していくのをただじっと見つめ浮遊感に身を任せて目を閉じた、目が覚める。
それからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか、勇の体がゆらゆらと水面に浮かぶ葉のように揺れている。
「 」
遠くから声がする。優しく慈愛に満ち、全てを包み込む聞き慣れた声色。
「―――さん」
夢から現に戻りかけた意識の中で、声の主が良子だと分かった途端に体が一気に天へ舞い上がり、完全に脳が覚醒した。
「勇さん、起きてください」
目を開けると見慣れた寝室の天井と、窓から差し込む太陽の光り、寝起きの目には沁みる、顔を顰めると光は無くなり影が生まれ、勇は薄っすらと目を開ける、そこには後光を放ち何処か困ったような微笑みをする良子の姿が視界に入った。
「おはようございます勇さん、昨晩も遅くまでお仕事をなさっていたようですね?あまりご無理はなさらないでください、そのうち倒れますよ?」
勇はゆっくりベッドから体を起し、目頭を押さえ小さく欠伸をした。いつ布団に潜り込んだのだろうか、確か意識を放つまでは書類と睨めっこをしていたはずなのに、思い出せず頭を振ると、背中に温かい布が掛けられるのを感じて顔を上げた。
心配そうに見つめている良子が背中に羽織りを掛けたのだ。
「心配など無用だ、私はそこまで柔ではない。……あの父親の子だからな、仕事一筋の」
先ほど見た幼い頃の夢のせいか、勇は自傷染みた笑みを零しベッドから降り、用意されている服に着替えて居間へと向かった。テーブルには温かい朝食と読みやすいように新聞広げられて用意されている。
丁度いい焼き加減の鮭に豆腐と若布の味噌汁、小松菜の胡麻和えお浸しと熱いお茶、勇が好む献立に表情は崩さないものの内心喜び、席に座り手を合わせ茶を啜り、無意識に向かい席を見た。
「和樹は?」
「もう学校へ行きましたよ?」
「そうか」
それ以上なにも言わずに勇は、食事を進め新聞を向け文字を追う。良子も何も言わずに空になった湯飲みにお茶を注ぐ。
しばらくすると新聞を片手に勇は居間を出て書斎へ向かい、書斎机の引き出しから風呂敷を取り出し、入口に掛けていた背広をたたみ風呂敷に包んだ。
「……はぁ」
夢のせいなのか、昨日仕立て直し屋に行ったからなのか、目が覚めた時から背広の事が気になって仕方なかった。
「帰りに寄ってみるか」
風呂敷包みを抱えて、扉を静かに閉じた。




