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天文密奏録 第〇四七号別紙五  作者: 棗田智紘
第一部 気色
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第七章 令和〇八年〇七月一四日 一六時四五分

 中里(なかざと)さんの家は、町の外れにあった。


 母屋の横に鉄骨の作業小屋があって、そちらへ回るように言われていた。引き戸を開けると、正面に大きな冷凍庫が二台ある。壁に鹿の角が並べてある。数えなかったが、二十本以上あった。数えなかったのは、数えても書く欄がないからである。


 中里さんは奥で何かを研いでいた。手を止めて、こちらを見た。


「役所の人」


「はい。暦象事務局(れきしょうじむきょく)の竹内と申します」


「暦の」


「はい」


 中里さんは、ふん、と言った。名刺は受け取らなかった。手が汚れていたからである。テーブルの端を指した。私はそこに置いた。


 受け取られないのが、機嫌なのか、手の都合なのか、はじめは分からなかった。手を見た。脂で光っている。手の都合だった。私は、端に置いた名刺を、少し、まっすぐに直した。端を指されたのが親切に思えたのは、そのあとである。


「聞き取りだって」


「はい。お手数をおかけします」


「何を書くの、それ」


「記録です」


「記録」


「はい」


 中里さんは、しばらく私を見ていた。それから、椅子を出してくれた。


   *


 七十二だと聞いていた。


 猟を始めたのが二十のときで、五十二年になる。この管内で獲ったヒグマは、通算で四十頭を超える。数は正確に記録していると言った。手帳に書いてあるとも言った。見せてはくれなかった。


 私は聴取の趣旨を説明した。今回の一連の事案について、専門的な見地からの所見を伺いたい。所見は記録として綴じる。公表はしない。


「公表しないなら、何のために聞くの」


「記録するためです」


 中里さんは、また、ふん、と言った。


 それから、話しはじめた。


   *


「あんた、熊が人を食うときの順番、知ってるか」


「存じません」


「知らんならいい。教えるから」


 中里さんは指を折った。


「まず肉だ。腹と胸と、腿と、二の腕と、尻。柔らかいとこ。あと、耳とか、出っぱってるとこな」


「はい」


「腹の肉を食って、その下の内臓に行く。それから腕と脚の肉。あばらとか細い骨は噛む。太い骨は残す。頭は残す。頭蓋は硬いから食わん」


 私は書いた。


「内臓は、あまり食べないと聞きましたが」


「食わんことはない。腹まで行けば食う。だが、そこまで行く前に人が来る。犬が来る。だから残ってることのほうが多い」


「なるほど」


 なるほど、という言葉は、前の聴取で覚えた。自分の言葉で相槌を打つのは、こわい。打って、相手の顔がわずかに動くと、どこで間違えたのかが、私には分からない。覚えた言葉なら、間違えない。


「食い切るには何日もいる。だから隠すんだ」


「隠す」


土饅頭(どまんじゅう)だ。草かけて、土かけて、上に乗る。乗って踏む。それで戻ってくる。次の日も、その次の日も」


「戻ってくるのですか」


「戻る。自分のものだと思ってるからな。近づくと出てくる。捜索でいちばん危ないのはそこだ」


「はい」


「いいか。隠すのは、食うためだ」


 中里さんは、そこを二度言った。


「隠して、寝かせて、また食う。それを何日かやって、無くなったら行く。それが熊だ」


 私は書いた。書きながら、この人はこれを何度も見てきたのだと思った。


「服はどうなりますか」


「剥ぐ」


「剥ぐ」


「食う前に剥ぐ。毛も一緒に剥ぐ。あとで腹を開けると、髪と服が出てくる」


 私は書いた。


   *


「顔は」


 私が訊く前に、中里さんが言った。


「顔はな。よくやられる」


「食害でですか」


「食うのと、攻撃するのと、両方だ」


 中里さんは、自分の顔の前で手を横に払った。


「向かってくるとき、あいつら顔を叩く。頭と顔と首。腕もやられるが、あれは庇ったからだ。脚は逃げたからだ。だから傷を見れば、その人が庇ったか逃げたか分かる」


「はい」


「猟師がやられるときは、特に顔だ。しつこくやる。なんでかは知らん。何十年見てても分からんことは分からん」


 私は手を止めた。


 この人は、分からないことを分からないと言う。


 寮の書式でいえば、これは由来を書かない人間の言い方である。


   *


 中里さんは、今回の二体について話した。


 六月に上がったのが二人。竹田(たけだ)と、坂野(さかの)。私はどちらも顔を知らない。着任前である。


 中里さんは知っていた。竹田さんとは若いころから、坂野さんとは分校のころから。戸倉(とくら)さんとは四十年になると言った。


「じいさんのはな」


 中里さんは言った。


「あれは出んわ。沢が二本あって、上で合わさる。あの奥は俺でも入らん。出んもんは出ん」


「はい」


「鈴は落ちてた。袋も落ちてた。中身が少なかった。採りはじめだ」


「はい」


 私は書いた。


   鈴・採取袋を遺留。内容物少量。


 中里さんは、それを覗き込んだ。


「それだけか」


「はい」


「ふん」


   *


「二体はな」


 中里さんが言った。


「見た感じは、まあ、熊だ」


「と、いいますと」


「顔はやられてる。両方とも。肉は食われてる。土は掛かってた。服も剥いである。全部、そのとおりだ」


「はい」


「教科書に書いてあるとおりだ」


 私は書いた。


   顔面損壊、筋部食痕、土砂被覆、衣類剥離。いずれも典型例と一致。


 書いて、読み返した。


 これで所見は取れた。専門家の見立ては、通常のヒグマによる被害である。三件目の遺体はまだ出ていないが、出れば同じだろう。あとは戻って綴じる。


 私は手帳を閉じかけた。


「OSOみたいなのかと思ったんだ」


 中里さんが言った。


「OSO」


「知らんか。何年か前に、道東で牛ばっかりやったのがいた。あれは変だった。土饅頭作らんし、獲ったものに未練がない。食って、行っちまう。熊は普通そんなことせん」


「はい」


「今回もそういうのかと思った。違った。今回のは、ちゃんと熊だ」


「はい」


 私はうなずいた。


 中里さんは、指を鳴らした。それから、こう言った。


「ただな」


   *


「坂野のな」


 中里さんは、テーブルを指で叩いた。


「あれ、見つけてから上げるまで、三日あった」


「はい」


「三日、朝に見に行った。俺と、あと二人で」


「はい」


「三日とも、土が新しかった」


 私は書いた。


「戻ってきていた、ということでしょうか」


「戻ってる。跡もあった。掘って、また掛けてる。掛け直してる」


「はい」


「なのにな」


 中里さんは、テーブルから指を離した。


「減ってねえ」


 私は、顔を上げた。


「減っていない」


「三日、同じだ。増えても減ってもいねえ。掛けた土だけが新しい」


 中里さんは、私を見ていた。


「さっき言ったろ。隠すのは、食うためだ」


「はい」


「食わねえのに、隠すやつはいねえ」


 私は書いた。


 書きながら、これを気色(きしょく)欄にどう書くかを考えていた。書ける。被覆の再形成を確認、欠損部位に変化なし。事実である。事実なので書ける。


 書けるが、書いても、たぶん誰も驚かない。


「ほかの一体は」


「竹田のは、減ってた。戻って、食って、減ってた。あれは普通だ」


「二体のうち、一体だけということですね」


「そうだ」


「その一体について、ほかに何か」


「ない」


 中里さんは、そう言った。それから、少し黙った。


「五十二年やってる」


「はい」


「四十頭以上獲って、人がやられたのも七回見た」


「はい」


「七回とも、減ってた」


「はい」


「掛け直して、食わねえのは、初めてだ」


   *


 私は、それを書いた。


   地元猟友会 中里氏(猟歴五二年)聴取

   一、二体はいずれも典型例と一致

   二、うち一体につき、被覆の再形成を三日連続で確認

   三、同期間中、遺体の欠損部位に変化を認めず

   四、同様の例を見た経験がない旨の陳述あり


 読み返した。


 四行である。


 中里さんは五十二年の話をした。四十頭と、七回と、その七回が全部減っていたという話をした。それが四行になった。


 こうなるように書式ができている。


 私は礼を言って、立った。


 引き戸のところで、中里さんが言った。


「それ、誰が読むの」


 私は、少し考えた。読む者がいるのかどうか、ほんとうは、知らない。だが、いない、と答えるのは、正しくない。中里さんは五十二年の話をして、それが四行になった。その四行を誰も読まない、と、この人に言ってはいけない。それくらいは、分かる。分かるようになったのは、たぶん、最近である。


「必要な者が読みます」


「そうか」


 中里さんは、研ぎに戻った。


   *


 寮に戻ったのが一八時を過ぎていた。


 聴取記録を清書して、苫米地(とまべち)さんのところへ持っていった。苫米地さんは机で読んだ。三十秒くらいだった。何も置いていない机の上で、四行を読むのに、それだけかかった。


 名取(なとり)さんが、隣で別の綴りに印を押していた。


 苫米地さんが、顔を上げずに言った。


「名取さん」


「はい」


「これ、三層扱いになるかもしれん」


 名取さんの手が止まった。


 止まったのは、一秒に満たなかった。それから、また押した。


「はい」


「三体目が上がってからでいい。上がったら、同じところを見てもらえ」


「はい」


「二課に、人を出しておけ」


「はい」


 苫米地さんは記録を綴りに挟んで、私に返した。


「竹内さん」


「はい」


「明日から、当直に入れる。守辰丁(しゅしんちょう)の当番表を見ておいて」


「はい」


 私は自分の席に戻った。


 名取さんは印を押しつづけていた。一秒に満たない止まり方だった。手帳に書くほどのことではない。


 書くほどのことではないので、私は覚えておくことにした。


 人が、一秒に満たず手を止める。そこに何があったのかを、私はいつも、少し遅れて考える。自分がどう思ったかより先に、相手がどう動いたかを、覚えている。順番は、いつもそうだ。


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