第六章 開拓碑
原稿は昭和四十二年で止まっている。
坂野誠はその年の項をもう一度読んで、また閉じた。二穴のファイルに綴じてある。厚さは五センチほどになった。十二年かかって五センチである。
教員をしていたころ、生徒の作文を五分で読んだ。読んで、直すところに赤を入れた。あのころは速かった。速いのが仕事だと思っていた。いまは一年に、多くて数枚しか書けない。書けないのは遅くなったからではない。書くことが減ったからでもない。書いていいものが、少ないからだった。
表紙には何も書いていない。
題を決めていないからだ。決めていないというより、決めるところまで行っていない。行っていないものに題をつけると、そこで終わる気がする。
昭和四十二年に、この谷から四戸が出た。四戸出て、二十一戸になった。出た理由は、坂野の調べた範囲では、一戸は病気で、二戸は離農で、残る一戸は分からない。
分からないところを、坂野は戸倉さんに訊くつもりでいた。
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戸倉さんへの聞き取りは、十三回した。
一回が一時間半から二時間で、たいていは午後に行った。きよさんが茶を出してくれる。戸倉さんは最初の三十分ばかり関係のない話をして、それから本題に入る。それが毎回だった。
関係のない話のあいだ、坂野はノートを開かなかった。開くと、戸倉さんは口が重くなる。学校で、廊下に立たせると子どもが黙るのと同じだった。相手が話しやすいようにしてやるのも、聞き取りのうちである。それは四十年、教室で覚えたことだった。
十三回で、大正六年の入植から昭和四十年代の頭までを聞いた。
戸倉さんの記憶は正確だった。正確というのは、年号が合っているという意味ではない。年号はよく間違えた。間違えるが、順序は間違えなかった。あの家が出たのはあの家の前で、あの家が出たのはこの水害の年で、という並べ方をする。並べたものを、こちらで年表に当てはめると、たいてい合う。
十四回目は、五月の中ごろにする約束だった。
その前に、戸倉さんは山へ行った。
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坂野は原稿をしまって、外に出た。
六月の末で、草が伸びている。伸びる時期は年に二度あって、六月と八月である。八月のほうが伸びるが、六月のほうが速い。
軽自動車の後ろに刈払機を積んだ。燃料を混合して、タンクに入れた。刃は先週替えた。混合の割合は五十対一で、これも先週やった。手が覚えている。手が覚えているうちは、まだ大丈夫だと思う。竹田さんは去年、混合を間違えて焼き付かせた。あのとき坂野は何も言わなかった。言わないでおくのも、言葉を選ぶうちである。
行き先は、集会所の裏である。
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碑は、集会所の裏の、少し高くなったところに立っている。
自然石である。切っていない。緑がかった灰色の、先の尖った石で、高さは一メートル六十ほど。御影の台座に載せてあるので、全体では二メートル近い。地元の石ではない。旭川から運んだと聞いている。
誰から聞いたのか、坂野はもう思い出せない。聞いたことだけは覚えていて、聞いた相手を忘れている。そういうことが近ごろ増えた。裏の取れない話を原稿には入れない。だからこの「旭川から運んだ」も、原稿には書いていない。頭の中にだけある。頭の中にだけあるものは、坂野が死ねば消える。消えても、誰も困らない。
表に、五文字ある。
開拓五十年
字は彫って、朱を入れてある。朱はところどころ剥げている。剥げたところは、去年、坂野が塗った。塗ったのは坂野だけである。誰かに頼まれたわけではない。
頼まれてやることではない、と分かっている。朱が剥げても字は読める。彫ってあるからだ。それでも塗る。読めるのと、読みやすいのとは違う。この違いは、原稿を書いていて何度も突き当たったものだった。事実があるのと、事実が伝わるのとは違う。碑の朱は、その差を埋める手間の名前だった。
字の左に、小さく彫ってある。
町長 小野寺三郎 書
昭和四十二年に建てた。建てたときは、まだ二十一戸あった。
坂野は碑の前まで来て、エンジンをかけた。
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草を刈るのに、四十分かかった。
碑のまわりだけでいい。参道のようなものはない。集会所からの道が二十メートルほどあって、そこだけ刈っておけば、盆に人が来たときに歩ける。
人は来ない。
来ないが、刈る。刈らないと、来られない。来られない状態にしておくのと、来ないのとでは違う。この違いを説明したことは一度もない。説明する相手がいない。
いたとしても、うまく言えないだろうと思う。教員のころは、言えないことは無いのと同じだと生徒に教えた。言葉にできて初めて分かったことになる、と。いまはそう思わない。言葉にならないまま、四十分かけて刈るものが、たしかにある。
刈り終わって、坂野はタオルで顔を拭いた。
それから、碑の裏へ回った。
*
碑文は、石ではなく台座に嵌めてある。
赤い御影の板で、横一メートル、縦五十センチほど。そこにカタカナ交じりの文が彫ってある。
碑 文
此地ハ天塩川ノ上流ニシテ大正六年
渡邊治平翁小坂久右衛門翁等入植ス
密林深ク寒気酷シク開墾ノ業至難ナリシモ
先人ヨク辛苦ニ耐ヘ遂ニ美田ヲ拓クニ至ル
今日ノ豊饒ヲ見ル其ノ偉業ヲ讃仰シ
永ク後世ニ伝ヘントス
昭和四十二年九月吉日
開拓五十年記念事業協賛会建之
坂野はこの文を、たぶん二百回は読んでいる。
二百回読んでも、暗誦しようとは思わない。暗誦すれば読まなくなる。読まなくなれば、字が薄れていることに気づかなくなる。だから毎回、石に目を落として、頭からたどる。たどるたびに、彫った人間の運びが指の先に浮かぶ。会ったことのない石工の手が、この字の払いに残っている。
今日ノ豊饒ヲ見ル。
昭和四十二年に、二十一戸あった。
いま、この谷にいるのは三人である。きよさんと、和泉さんの夫婦。坂野を入れて四人。
永ク後世ニ伝ヘントス、と彫ってある。
坂野はそこを読むたびに、伝わっているのだろうかと思う。思うが、伝わっているかどうかを判定する方法がない。読む人間がいれば伝わっているし、いなければ伝わっていない。それだけである。
この五十九年で、この碑文を通して読んだ人間が何人いたか、坂野は知らない。
少なくとも一人はいる。
*
坂野の原稿は、大正六年から始まっている。
始まっているというより、そこからしか始められない。戸籍と、入植の記録と、町史の古い巻。裏が取れるのは、そこまでである。
その前に人がいなかったわけではない。
安政四年に松浦武四郎がこの川を遡っている。『天塩日誌』に、道々で会った人のことが書いてある。坂野はそれを読んだ。読んだが、書いてあるのはこの川の話であって、この谷の話ではない。この谷に誰がいたかは、どこにも書いていない。
書いていないことを、書いてあるように書くことはできない。
だから坂野の原稿は、大正六年から始まる。
碑文も、大正六年から始まっている。
二つが同じところから始まっているのは、同じ理由による。国が数え始めた年から、記録は始まる。
その前のことは、無いのではない。書いていないだけである。
書いていないものは、無い。
この一行を、坂野は自分に禁じている戒めのように使っている。使いながら、これは戒めではなく、ただの事実だと思い直す。事実だからよけいに始末が悪い。無いことにしてよいという意味には、決してならない。
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板の下のほうに、あとから足した二行がある。
昭和五十六年 分校閉校ニ伴ヒ本碑ヲ校庭ヨリ現在地ニ移設ス
台座ヲ取替ヘ原文ヲ転写シ追記入ス
碑は、もとは分校の校庭にあった。
分校が閉じたのが昭和五十六年で、そのとき校舎を壊した。碑だけ残すわけにいかないので、集会所の裏へ動かした。動かすときに台座が割れて、新しくした。新しい台座に嵌める板も作り直した。
坂野が校長として赴任したのは、そのあとの学校である。谷の分校ではない。麓の本校のほうで、この谷には一度も勤めていない。それでも、いま谷にいる者のうち、字を読むことを職にしていたのは坂野だけだった。だから読む役が坂野に回ってきた。回ってきたというより、ほかに手が挙がらなかった。
だから、いま坂野が読んでいるこの板は、写しである。
原文を彫った板は、そのとき捨てたのか、どこかにあるのか、記録がない。記録がないので、分からない。
写しが正しいかどうかを確かめる方法も、ない。
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坂野の原稿も、昭和四十二年で止まっている。
止まっているのは偶然ではないと、坂野は思っている。思っているが、書いてはいない。
昭和四十二年に構造改善事業が完成して、その年に四戸が出た。事業は、要するに、広くやれる者が広くやるための事業である。広くやれない者は出る。出た者の土地を、残った者が引き受ける。
そう書けば筋は通る。
通るが、坂野は書いていない。書くと、事業のせいだと書くことになる。事業のせいかどうかは坂野には分からない。四戸のうち一戸は病気で、一戸は分からない。分からないものを分かったように書くと、そこから先の全部が信用できなくなる。
これは、教員のころ生徒に何度も言ったことでもあった。一つ嘘を書くと、本当のことまで嘘に見える。子どもはうなずいた。うなずいて、また同じことを書いた。いまその戒めを、いちばん律儀に守っているのは、教えた側の坂野だった。
だから書かない。書かないので、昭和四十二年から先へ進めない。
*
竹田さんの葬式は十一日前だった。坂野が弔辞を読んだ。読む人間が他にいなかった。三浦さんが下から上がってきて、あとは市の職員が二人と、猟友会の人が三人来た。集落からは、坂野と、きよさんと、和泉さんの夫婦である。
六人だった。
弔辞は前の晩に書いた。書きながら、竹田さんの父親の名前が思い出せなくて、原稿を繰った。昭和三十年代の項に書いてあった。自分で書いたものを自分で読んで、それで思い出した。
書いておいてよかった、と坂野は思った。
思ってから、書いておかなければ思い出せなかったのだ、とも思った。どちらも同じことである。
弔辞のとき、坂野は竹田さんの顔を見なかった。見るところに、もう顔はなかった。そのことには触れないでおく。触れないでおくのが、弔辞というものの書き方だった。書いていいことと、書いてはいけないことがある。長く生きると、後のほうが増えていく。
*
石に名前が出てくるのは、二人だけである。
渡邊治平と、小坂久右衛門。等入植ス、と彫ってある。等、で片づけられた二十五戸の名は、どこにも彫られていない。
二十五の名は、坂野の原稿にある。
いつ来て、どこから来て、いつ出たか。坂野が十二年かけて集めた。集めたものの半分は、戸倉さんから聞いた。
坂野自身は、この二十七戸のどれにも連なっていない。麓から来た余所者である。連なっていないから、書ける。連なっていれば、身内を大きく書きたくなる。書きたくなったところで、たいてい筆は狂う。連なっていないことを、坂野はこの仕事にかぎっては、よかったと思っていた。
二十七のうち、いま谷にいるのは二つだった。
戸倉と、竹田。
戸倉さんは五月から帰っていない。竹田さんは死んだ。
訊く相手がいなくなると、書けなくなる。
書けなくなったところから先は、原稿には入らない。入らないものは、無い。
坂野は、そのことをあまり深く考えないようにしている。深く考えると、五センチのファイルが何なのか分からなくなる。
*
「渡邊」の一字目が読みにくい。
板を作り直したときの彫りが浅い。「渡」に見えるが、旁の下が潰れている。
坂野は三年前にここで一時間かけて、指でなぞった。それから市役所の倉庫へ行って、昭和三十八年の名簿を見せてもらった。名簿にその字があった。それで渡邊だと決めた。
もっとも、名簿が正しいという保証もない。写しの字が正しいという保証もない。二つが一致したというだけである。それ以上は分からないので、坂野は原稿にこう書いた。
渡邊(表記は昭和三十八年名簿による)
典拠を括弧に入れて添えるのは、教員時代からの癖だった。だれかに直されたことは一度もない。読む者がいないからだ。それでも添える。断定を一つ避けるたびに、原稿が少しだけ長く保つ気がした。
その名簿は、去年、廃棄されたと聞いた。年限が来たらしい。
だからいま、この字が渡邊であることを知っているのは、坂野の原稿と、坂野だけである。
*
坂野はポケットからノートを出した。
小さいほうのノートで、現場で使う。家に帰って、原稿に移す。
碑の裏の五行を、指で追いながら確認していった。合っている。三年前と変わっていない。変わるはずがないのだが、確認する。確認しないと、変わっていないことが分からない。
指の腹に、御影の冷たさが伝わった。六月の昼で、日は当たっている。当たっているのに、石はいつも冷たい。石とはそういうものだと分かっていて、それでも指を離すたびに、腑に落ちないものが指先に残った。落ちないものを、坂野は名簿の字のときと同じように、いったん脇へ置く。分からないものは書かない。書かないものは、いま考えることでもない。
最後に、後ろのページを開いた。
沿革の欄がある。年月日と、事項を、一行ずつ書く。
この形にしたのは、いつか誰かが次の碑文を書くとき、そのまま材料になるようにと思ったからだった。碑文には日付と事実が要る。日付と事実さえ揃っていれば、文はあとで作れる。
次の碑文はないだろう、と坂野は近ごろ思う。
台座の板は空いていない。石の裏は空いている。彫る面はある。彫る金もある。彫ることが無い。
開いた。解放された。美田を拓くに至った。豊饒を見た。
そのあとに続く事項を、坂野は十二年書いてきた。書いてきたが、どれも碑に彫る種類のものではない。石に残すのは、増えたことである。この谷で書きためたのは、減ったことだった。減ったことを彫る碑を、坂野は見たことがない。どこにもないのだろうと思う。
いちばん下は五月九日で、こう書いてあった。
五月九日 戸倉勇 山にて行方不明
坂野はその下に、一行足した。
六月十五日 竹田修 死去
書いて、日付を見た。
二人とも、書いた。
自分のことは誰が書くのか、と坂野はふと思った。思ったが、それは考えても仕方のないことだった。誰も書かないなら、無かったことになる。無かったことになるのは、この谷ではべつに珍しいことではない。二十五戸がそうだった。
珍しくないと思うことで、それを少し遠くへ置いた。遠くへ置いたものは、書かなくて済む。坂野は長いあいだ、そうやってきた。
坂野はノートを閉じて、ポケットに入れた。
あとは、碑の向こう側である。
林との境まで、五メートルほど草が残っていた。去年はそこまでやらなかった。今年はやっておこうと思った。伸ばしておくと、来年が大変になる。
刈払機を担ぎ直して、坂野は碑の裏手へ回った。




