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天文密奏録 第〇四七号別紙五  作者: 棗田智紘
第一部 気色
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第四章 牧草

 三時に起きて、外を見た。


 沢に霧が下りていた。


 竹田修(たけだおさむ)は台所の窓からそれを二分ばかり見て、下りていると判断した。上がっているのと下りているのとでは意味が違う。上がっているときは崩れる。下りているときはもつ。


 この見方は戸倉(とくら)さんに教わった。四十年前だ。


 教わったときは信用していなかった。役場の予報のほうが当たると思っていた。実際、七割くらいは予報のほうが当たる。ただ残りの三割で、戸倉さんのほうが当たった。三割のほうが大事な場合がある。刈ってしまってから降られると、三日の仕事が捨てになる。


 いまは、戸倉さんはいない。教わったことだけが、修の中に残っている。窓の霧を見るたびに、あの人ならなんと言うか、が先に浮かぶ。浮かんでから、いない、と思い直す。四十年かけて入れたものは、抜けるのに四十年かかるのかもしれなかった。


 修は湯を沸かして、飯を食った。


   *


 牛舎は空である。


 平成二十六年にやめた。四十頭いた。やめるときは一週間で消えた。積み込んで、行って、それきりだ。


 そのあと牛舎をどうするか少し考えて、結局そのままにしてある。潰すのに金がかかる。潰さないと固定資産税がかかる。どちらも金がかかるので、かかるほうを選んだというより、選ばないでいる。


 中は片づいている。掃いてはいないが、散らかってもいない。牛のいない牛舎というのは、思っていたより臭いが残らない。二年で消えた。臭いが消えたときのことを、修は覚えている。ある朝、扉を開けて、いつもの匂いを探して、なかった。それだけのことだった。それだけのことが、やめた日よりこたえた。やめた日は忙しくて、こたえる暇がなかった。


 修は機械を出した。


 トラクターは平成八年のもので、三十年目になる。ラジエーターを一度替えて、クラッチを二度替えた。替えるたびに、これで最後にしようと思う。思って、また替える。この鉄も、たぶん修より長くもつ。もったところで、使う者がいなくなる。それは考えないことにしている。


 モアコンをつないだ。爪は先月見た。三枚替えた。


   *


 四時半に畑に入った。


 二十八ヘクタールある。


 搾っていたころは二十町ほどだった。四十頭を回すのにそれだけ要った。放牧に出す分と、冬のぶんを採る分と、両方要る。この土地は半年雪の下だから、半年ぶんを夏のうちに刈って巻いておかねばならない。


 牛がいなくなってから、畑は増えた。


 出ていった家の畑が、そのつど回ってきた。地権者は札幌にいたり、旭川にいたり、どこにいるか分からなかったりする。分からないところは、地代を払っていない。払う相手がいない。


 畑ごとに、前にそこを作っていた家の顔がある。ここは杉本さんのところ、その上は名前の出てこない家。修は畝を踏むたびに、その家の作り方の癖を思い出す。この一枚は水はけが悪くて、雨のあとは決まってここでぬかった。作っていた本人はもういない。癖だけが土に残っている。


 草は刈らないと三年で藪になる。藪になったら、もう戻らない。ユンボを入れて、根を起こして、石を拾って、また播く。それを一からやる金は誰も出さない。


 だから刈る。


 刈った草は沢の下の三浦(みうら)のところへ持っていく。三浦はまだ搾っている。この谷でまだ搾っているのは三浦だけだ。


 一番草で、一町から五本ばかり巻ける。二十八町で百四十本になる。一本が一万円ほどだ。飼料が上がってから、この値がついた。


 フィルムと軽油と、この春替えたクラッチを引いても、残る。


 残ったぶんは通帳に入る。


 通帳の数字は、この十年、増えるばかりで減っていない。町へ出るのは月に一度で、そのときも大して買わない。修は自分がいくら持っているか、はっきりとは知らない。知らないというのは、見れば分かるのに見ないという意味である。見ないのは、見たところで使うあてがないからだ。金は、行き先があってはじめて数える意味が出る。行き先がなければ、数字は数字のままだ。


 トラクターを新しくする金はある。買っていないのは、買ったところで、という話である。


 三浦は、再来年でやめると言っている。言うたびに、悪いな、と言う。


 修は、いい、と言う。


 三浦がやめたら、この草を持っていく先がなくなる。なくなっても、たぶん修は刈る。刈らないと藪になるからだ。藪になったら誰が困るのかというと、誰も困らない。困らないが、藪になる。


 困る者がいないことのために体を動かすのが、いつからか修の一日になっていた。牛のためでも、金のためでもない。ただ、線が引いてあって、その内と外を分けておく。それだけのことに、朝の三時から日の暮れまでを使う。使うものが、ほかにない。


 そのことを、修はあまり深く考えない。


   *


 一往復目を刈って、修は戻ってきた。


 草の丈は思ったよりあった。今年は雨が良かった。刈っていると匂いが立つ。この匂いだけは四十年変わらない。牛がいなくなっても変わらない。牛のいたころは、この匂いのあとに牛の顔があった。いまは匂いだけがある。匂いのほうが牛より長生きした、と思うことがある。


 二往復目に入るとき、修は山のほうを見た。


 戸倉さんは、五月の九日から帰っていない。ひと月と一週間になる。


 捜索は三日出た。市の職員と、消防団と、猟友会と、旭川から来た警察。修も三日とも出た。四日目からは出なくなった。誰かが決めたわけではない。四日目に人が来なかった。それだけだ。


 沢は二本ある。上のほうで合わさって、その上は天塩の水系に抜ける。修は子どものころ、そこまで行ったことがある。半日かかった。九十一の人間が半日歩くとは思えないが、思えないというのは、こちらが勝手に思っているだけである。あの人の脚を、修は知らない。若いころの戸倉さんが山でどう歩いたかを見た者は、もうこの谷にいない。


 鈴は落ちていた。袋も落ちていた。中に行者にんにくが入っていたが、たいした量ではなかった。採り始めたばかりだったのだろうと猟友会の人が言った。


 修は、その言い方に少しだけ引っかかった。戸倉さんは、採り始めてすぐに袋を置く人ではなかった。四十年、そう見てきた。だが口には出さなかった。出したところで、袋の中身が増えるわけではない。


 人は出ていない。


 人が出ていないので、届が出せない。


 先週、きよさんを町へ乗せていったとき、そういう話になった。届が出せないと年金の切り替えができない。切り替えができないと、いろいろ止まる。役場の人は、まことに申し上げにくいのですが、と三度言ったらしい。


 きよさんは、うちの人はまだ生きとることになってるんだと言った。


 言って、笑った。


 修はどう返していいか分からなかったので、何も返さなかった。助手席のきよさんは、それきり窓の外を見ていた。修は前を見て運転した。二人とも、口をきかないことには慣れていた。この谷の人間は、たいてい黙って隣に乗る。


   *


 昼までに七往復した。


 畑の東の端に、林との境がある。境といっても柵はない。柵は平成のはじめに外した。牛がいなくなれば柵はいらない。


 柵はいらないが、境は残る。


 草地の草と林縁の草は種類が違う。違うから、境は目で分かる。修は毎年、その線がすこしずつ内側に来ているのを見ている。年に三十センチか、四十センチか。二十年で十メートル近く来た。


 どこかで刈るのをやめれば、あとは早い。


 やめれば、という言葉を、修は近ごろよく手の中で転がす。転がして、また戻す。やめる理由も、続ける理由も、はっきりとはない。ただ体が三時に起きる。起きてしまえば、あとは畑がある。


   *


 トラクターを止めたのは、十二往復目の途中だった。


 前方の未刈のところに、何か白いものがあった。


 修は目を細めた。この距離では分からない。鹿の骨かもしれない。冬に死んだ鹿が春に出てくることがある。骨ならいい。骨ならモアコンで飛ぶだけだ。ただ、角や大腿骨だと爪をやる。爪をやると一日仕事になる。


 あるいは、去年落とした標識の支柱かもしれない。あれは鉄だ。鉄は駄目だ。


 白い、というのが、修には少し合わなかった。鹿の骨は、出てすぐは白くない。土の色がつく。年を越して、雨と日に晒されて、はじめて白くなる。この畑は去年も刈った。去年からあるものが、いまごろ出てくるはずはなかった。


 合わないが、白い。


 修はトラクターを降りた。


 エンジンは切らなかった。すぐ戻る。


 草は腰より上まであった。歩くと肩まで濡れる。露はまだ乾いていない。


 修は白いもののほうへ歩いていった。


 足元は見えなかった。


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