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天文密奏録 第〇四七号別紙五  作者: 棗田智紘
第一部 気色
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第十三章 二人

 圭一(けいいち)が来たのは、八月三日の午前だった。


 電話は前の晩にあった。行くから、とだけ言った。何時に、とは言わなかった。昔からそうである。用件だけ言って、あとは切る。勇にそっくりだと、きよ(・・)は前から思っている。似ていると言うと、圭一はいやがる。いやがるところも似ている。


 きよは八時に起きて、掃いた。掃くほどのものはない。二人で暮らしていたころから、掃くほどのものはなかった。それでも、来る前には掃いた。掃いておかないと、来た者に、荒れていると思われる。荒れていると思われると、次に言われることが、決まっている。


   *


 車の音がしたのは、十時過ぎだった。


 圭一は六十四になる。旭川で働いて、去年で定年になった。いまは週に三日、同じ会社に出ている。三日でいい、と本人は言うが、三日だから来られる、というのが本当のところだろうと、きよは思っている。毎日勤めていたころは、盆と正月しか来なかった。


 上がって、仏壇に手を合わせた。位牌は、(いさむ)のはない。


 位牌を作れないからである。


 人が出ていないので、届が出せない。届が出せないので、戸籍が動かない。動かないので、法要ができない。寺には話してあるが、寺のほうでも、それはねえ、と言うだけである。


 圭一は、そのことを言わなかった。言わずに、線香だけ立てた。位牌のないところへ手を合わせるのが、この子には辛いのだろうと、きよは背中を見て思った。辛いなら、しなくていい。そう言おうかと思って、言わなかった。言えば、では母さんも来い、という話に戻る。


   *


 茶を出した。


「母さん」


「うん」


「来てくれ」


 きよは、湯呑みを持った。


 言われるのは初めてではない。三年前からである。三年前は、そろそろどうだ、という言い方だった。去年は、考えてくれ、だった。今日は、来てくれ、である。


 言い方が短くなっていく。短くなるのは、圭一のほうが追い詰められているからだと、きよには分かる。追い詰めているのは、きよである。それも分かっている。分かっていて、動かない。


「冬、道が開かないぞ」


「うん」


宮下(みやした)さんがやってたんだろう。市の分は集会所までだ。その先は誰も来ない」


「そうだね」


「救急車も来ない。ここで倒れたら、誰も来ない」


「うん」


「それは、分かってるのか」


「分かってるよ」


 圭一は、湯呑みを置いた。


「じゃあ、なんで」


 きよは、しばらく考えた。


 考えたが、出てこなかった。出てこないのではなく、言えば圭一に分かるように言うことができない、ということだった。分かるように言えないものを、きよは言わない。それも、勇に似た。


「なんでって、言われてもね」


   *


 圭一は正しかった。


 きよにも分かっている。ひとつずつ、全部正しい。


 竹田(たけだ)さんが乗せてくれていたのが、六月まで。坂野(さかの)さんが紙を書いてくれていたのが、六月まで。宮下さんが道を開けてくれるはずだったのが、この冬から、来ない。


 和泉(いずみ)さんの奥さんは車に乗るが、あの人にそこまで頼めない。頼めないというより、頼むと、あの人がここに縛られる。


 スーパーは町に一軒で、二十四キロある。


 病院は同じ町で、月に一度、血圧の薬をもらう。


 全部、圭一の言うとおりである。


 言うとおりなのだが、行かない。


 圭一は、一つずつ数えて、一つずつ潰していく。数えられるものは、圭一が正しい。数えられないものが一つあって、それが、動けない理由になっている。きよはその一つを、圭一に見せることができない。見せられないものは、無いのと同じである。無いものを理由にして動かない母を、圭一は、ただ強情だと思うだろう。思わせておくよりない。


   *


「あの家、どうすんだ」


「そのままだよ」


「そのままって」


「そのままだわ」


 圭一は、天井を見た。


 この家は、勇の父親が建てたものを、勇が二度直した。屋根は平成の終わりに葺き替えた。まだ持つ。持つが、持たせる人間がいない。


「父さんのこと、あるからか」


 きよは、湯呑みを見ていた。


「山にいるからか」


「そういうんでないわ」


 きよは言った。


 そういうことではない、と自分でも思う。勇が帰ってくるとは思っていない。九十一の人間が、三か月山にいて、帰ってくるわけがない。そんなことは、五月のうちに分かった。


 あの朝、勇は行者ぎょうじゃにんにくを見てくると言って出た。まだ早いんでないの、と言ったら、早くない、と言った。それが最後だった。何を言い残したわけでもない。回覧板をあとで持っていくと言って、持っていかなかった。それだけのことである。それだけのことが、片づかない。


 ただ、ここを空けると、そこで終わる。


 何が終わるのかを、きよはうまく言えない。言えないので、言わない。勇が帰る場所が無くなる、というのとも、少し違う。帰らないことは分かっている。分かっているのに、帰る場所だけは、置いておきたい。理屈にならない。理屈にならないから、圭一には言わない。


   *


 圭一は一時間半いて、帰った。


 帰り際に、玄関で靴を履きながら、言った。


「また来る」


「うん」


「秋には、もう一回言うから」


「うん」


 きよは、そう言った。


 秋にも同じことを言うのだろう、と思った。同じことを言われて、同じように断るのだろう。それを何回やれるかは、分からない。


 圭一は悪い息子ではない。むしろ、よくやっている。悪い息子なら、来ない。来て、正しいことを言って、断られて、また来る。そういう子である。正しさで母を動かそうとして、正しさでは動かないものにぶつかって、それでも正しさを引っ込めない。引っ込めたら、圭一のほうが崩れる。だから、断りつづけるのは、こちらの役だと、きよは思っている。


   *


 午後に、回覧板が来た。


 和泉さんの奥さんが持ってきた。


 新しいものである。八月の分で、市の広報と、健診の案内と、防災訓練の紙が挟んである。防災訓練は九月で、集合場所は集会所になっている。


「五月のは」


 奥さんが言った。


「戻ってこないですね」


「そうだね」


 五月の回覧板は、宮下さんが持っていった。持っていって、そのままである。


 警察が家を見たときも、車を見たときも、出てこなかったらしい。出てこないというより、誰も探していない。青いビニールの表紙のものを、誰も探さない。


「どうしましょう」


「どうもしないわ」


 きよは言った。


「うちで止まってたんだから、うちの落ち度だわ」


 奥さんは、そんな、と言った。


 きよは、新しいほうを受け取って、判を押した。


 押しながら、この判は次にどこへ回るのだろうと思った。


 五軒あったのが、二軒である。


 二軒で回して、二軒目が役場に返す。二軒目というのは、和泉さんである。


 順番でいうと、いちばん最後に返すのは、いつも奥の家だった。奥の家というのは、うちである。


 いまは、うちが最初で、和泉さんが最後になった。


 誰もそう決めていない。減ったので、そうなった。減ると、順番が変わる。変わっても、誰も気づかない。気づく人間が、減ったからである。


   *


 坂野さんの紙は、七月に来た。


 町から甥という人が来て、家を片づけて、いらないものを処分した。処分するときに、これはどうしましょう、と持ってきたのが、二穴のファイルである。


 厚さが五センチある。


 中を少し見た。字が細かい。きよの目では、もう読めない。眼鏡をかけても、二行読むと目が滲む。


「捨てましょうか」


 甥の人は、そう言った。


「置いといて」


 きよはそう言った。


 いまも、仏間の隅に置いてある。


 読めない。読める人はいない。坂野さんは、これを十二年書いた。十二年書いて、誰にも見せなかった。見せないものを、なぜ十二年書いたのか、きよには分からない。分からないから、捨てられない。分かるものなら、捨てられた。


 小さいほうの手帳は、警察が持っていったらしい。遺体のそばにあったので、そういうことになるという話だった。


 大きいのがここにあって、小さいのが警察にある。


 両方読む人は、どこにもいない。


   *


 三時ごろ、きよは外に出た。


 杖を持って、道を下りた。


 集会所までは、四百メートルくらいである。ゆっくり歩けば十五分で行く。行けるうちは行く。行けるのに行かない、というのが、圭一に言えないことだった。歩ける。四百メートルは歩ける。二十四キロは歩けない。歩ける分だけ、歩いておく。


 途中に、畑の隅の箱がある。


 七月に、役所の人が置いていったものである。暦の役所だと言っていた。


 白い樹脂の箱で、横に細い棒が立っている。音はしない。光もしない。


 置いてから一か月経つ。月に一度来ると言っていたが、まだ来ていない。


 あの人は、ここに五人いたころに来た。


 いまは二人である。


 箱は、そのまま立っている。何を測っているのか、きよは訊かなかった。訊いても分からないだろうと思った。分からないものを、この土地に、また一つ増やして帰った人がいる。それだけのことである。


   *


 集会所の裏に、()がある。


 着いて、きよは足を止めた。


 草が伸びていた。


 膝の上まである。碑の台座が半分隠れている。


 こんなに伸びているのを、きよは見たことがなかった。


 坂野さんが刈っていた。毎年、六月と八月に刈っていた。刈っているところを、何度も見た。あの人は誰にも言わずに刈って、誰にも言わずに帰った。言わずにやることばかりだった人である。書くことも、刈ることも、言わずにやって、言わずにいなくなった。


 六月に刈った分が、七月と八月で伸びた。


 碑は、草の上から先だけ出ている。


 開拓五十年、と読める。


 朱が、去年より剥げていた。


   *


 台座の板は、草に埋まって見えない。


 見えないが、何が書いてあるかは知っている。


 永ク後世ニ伝ヘントス。


 坂野さんが、いつだったか、それを声に出して読んだことがある。読んで、こう言った。


 ——伝わってるんですかね。


 きよは、そのとき、なんと答えたか覚えていない。たぶん、そうだねえ、と言った。たいていのことに、そうだねえ、と答えてきた。勇にも、圭一にも、坂野さんにも、そう答えてきた。答えることで、それ以上訊かれずに済む。訊かれずに済むと、考えずに済む。そうやって、九十年近くやってきた。


 いま思えば、あれは訊いていたのかもしれない。


 訊かれていたのに、そうだねえ、で流した。流された坂野さんは、その冬に、いなくなった。訊く相手を間違えたのだと、きよは思う。きよは、答えられる者ではなかった。


   *


 石の裏側は、草がない。


 北向きで、日が当たらないからである。


 裏には何も彫っていない。上から下まで、平らな面がある。


 坂野さんは、ここに彫る面があると言っていた。言っていたが、彫ることが無いとも言っていた。


 六月に四人減った。


 彫ることが無い、というのは、そういう意味ではないのだろうと、きよは思う。


 勇も、この北向きの面を、見たことがあるはずだった。碑のところは、山へ行く道の途中である。六十年、通っている。通っていて、裏の平らな面を、いつか見たかもしれない。見て、何を思ったかは、きよは知らない。訊かなかった。訊けば、そうだねえ、で流されるのは、こちらのほうだった。


   *


 道のほうで、車の音がした。


 和泉さんの奥さんの軽自動車だった。


 停まって、降りてきた。


「おばあちゃん」


「はいはい」


「歩いてきたんですか」


「歩けるうちはね」


 奥さんは、草を見た。


 それから、碑を見た。


 しばらく、そうしていた。


   *


「私、九月に、いっぺん実家に帰ります」


 奥さんは言った。


「そうかい」


「札幌です。母が、来いって」


「行きなさい」


「はい」


 奥さんは、そう言った。


 それから、こう言った。


「二週間くらいで、戻ります」


 きよは、奥さんを見た。


「戻るのかい」


「はい」


 奥さんは、草のほうを見ていた。


「家が、売れないので」


「うん」


「ローンが、あと二十五年あって。うちの人、まだ死んでないことになってるので、保険も下りないんです」


「そうかい」


「役所の人が、三回謝りました」


 きよは、少し笑った。


 笑ってから、笑うところではないと思った。


 だが、奥さんも笑っていた。


 同じだ、と思った。この人も、行けるのに、行かない。行って、戻ってくる。戻ってこられる家が、まだあるからではない。戻ってこないと、いなくなった人が、本当にいなくなる。この人にも、それが分かっている。若いのに、もう分かっている。分かってしまったのだと思うと、きよは、少し気の毒だった。


   *


「それだけでないでしょう」


 きよは言った。


 奥さんは、答えなかった。


 答えないので、きよもそれ以上は訊かなかった。


 訊かなくても、分かる。


 まだ出ていない。


 二キロ四方のどこかにある。人が入って、二日探して、出なかった。それきり、誰も入っていない。


 出るまで、ここを離れられない人間が、いま、二人いる。


 きよの勇は、山にいる。奥さんの旦那は、二キロ四方のどこかにいる。どちらも、出ていない。出ていないので、死んでいないことになっている。死んでいないことになっている者を、待つのではない。ただ、その場所を、空けられない。二人とも、同じことを、別の言い方でしている。


   *


 奥さんが、車のほうへ戻った。


 戻って、後ろのドアを開けて、何か下ろした。


 刈払機(かりはらいき)だった。


「それ」


「うちの人のです」


 奥さんは、それを担いだ。


「使えるのかい」


「宮下さんに、教わったので」


 きよは、うなずいた。


 宮下さんに教わった、と奥さんは言った。宮下さんも、この冬から来ない。教わった者が、教えた者のいなくなった土地で、教わったとおりにやる。勇も、そうだった。刈り方を教えた人間は、とうに死んでいると、いつか言っていた。誰かがいなくなって、その手つきだけが、別の手に移る。移って、また続く。碑には彫らない。彫る面はあるが、彫らない。彫らずに、手だけが伝わる。伝わってるんですかね、と坂野さんは訊いた。伝わっている、と、きよはいま思った。訊かれたときに、そう答えればよかった。


 奥さんは草の手前に立って、燃料のコックを開けた。チョークを引いて、紐に手をかけた。


 引いた。


 一度でかかった。


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