第十一章 令和〇八年〇七月二三日 〇五時一二分
当直は、七月十五日から入っている。
三交代で、深夜帯は二十三時から翌七時までである。北寮の当直は守辰丁の職掌だが、人が足りないので、伺見も入る。足りないというのは、辞令に書いてある話ではない。当番表を見れば分かる。
これが降格なのかどうかを、私は考えないことにしている。
考えても、訊く先がない。
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観測室は三階の北側にある。
窓がない。窓がないのは、機械のためであって、人のためではない。
壁の一面に古いラックが並んでいて、その前に机が二つある。机の上には、比較的新しい端末が二台。ラックのほうは平成のはじめのものらしい。動いている。動いているものは替えない。
仕事は、見ることである。
画面には、管区内の観測点からの値が流れている。数字と、線と、たまに色が変わる枠。それを見る。
何かが動けば、時刻と値を書く。
何も動かなければ、何も書かない。
何も書かない夜のほうが、圧倒的に多い。
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守辰丁というのは、もとは水時計の番をした役である。
水が落ちるのを見て、時を告げる。それだけの職掌が、律令に置かれていた。
いまは水ではない。だが、やっていることは変わらないのだと思う。
見ていなければならないものがある。見ていなくても、それは進む。進むが、見ていなければ、進んだことを誰も知らない。
知らないことは、無かったことになる。
だから見る。
見ているあいだ、私は何も決めなくていい。落ちるものを見て、時を控える。それだけでいい。
正しいかどうかは、手順のほうが持っている。私はそれに合わせればいい。合っていれば、間違えていない。そう考えると、この役は、私に合っている。
私はこの職掌が、嫌いではない。
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七月二十三日の夜は、静かだった。
二十三時から五時まで、書くことがなかった。
四時を回ると、外が明るくなる。窓はないので分からないが、分かる。廊下の突き当たりの窓が明るくなって、それが観測室のドアの隙間から入ってくる。
四時五十分ごろ、第三観測点の値が上がりはじめた。
上がりはじめたが、閾値には遠かった。
この観測点は、七月八日に私が置いた箱の近くにある。近くにあるだけで、別の系統である。私の置いた箱は記録するだけで、線は来ていない。
値は、ゆっくり上がった。
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五時十二分に、閾値を超えた。
枠の色が変わる。音は鳴らない。音は鳴らない設定になっている。夜に鳴らすと、隣の部屋で寝ている人間が起きる。起きても、できることはない。
私は時刻を控えた。
〇五時一二分 第三観測点 閾値超過
値を控えた。手順では、超過が三分続いたら当直責任者へ連絡する。三分未満なら記録のみ。
私は秒を数えはじめた。
そのときに、鳴った。
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羽が動いた。
何枚もある。近くもなく、遠くもない。距離のないところで鳴っている。
ペンの先が、時刻の欄に降りていた。降ろそうと思う前に、降りていた。私はペンを、止めた。
私は秒を数えていた。
数えていたのは、閾値超過の継続時間である。
三分を数えなければならない。数えながら、値の推移を控えなければならない。控えながら、次の観測点に波及していないかを見なければならない。
私は、そちらを数えた。
数えられるもののほうを、数えた。
羽のほうは、数えなかった。
門司では二、三秒だった。七月二日は、三秒か四秒。八日は十秒。二十日は二十二秒。その数を、私は覚えている。今日の数は、覚えない。
いつやんだのか、分からない。
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三分を超えた。
私は当直責任者に電話をかけた。名取さんだった。名取さんは三コールで出た。寝ていた声ではなかった。
「第三観測点、〇五時一二分より閾値超過。継続中です」
「値は」
私は言った。
「記録して。朝、上げて」
「はい」
それだけだった。
電話を切って、私は席に戻った。
値は五時三十一分に下がった。下がるときは、切れるように下がった。だんだんではない。
私は控えた。
〇五時三一分 正常域へ復帰
十九分間である。
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七時に交代した。
当直日誌を書いて、判を押して、仮眠室で二時間ばかり寝た。
起こされたのは九時四十分ごろだった。
名取さんだった。
「S市。行方不明」
私は起きた。
「和泉さん」
「ご主人のほう」
「はい」
「奥さんが八時前に通報。警察が動いてる。あなた、現場を知ってるでしょう」
「はい」
「行って。佐分利さんは午後」
私は靴を履いた。
履きながら、五時十二分のことを考えていた。
靴を履いてから、五時十二分に戻った。考えは、動作のあとに来た。
考えたが、それは、いま考えることではない。
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現地に着いたのが、十二時四十分だった。
林道はもう車で埋まっていた。警察と、市と、消防団と、猟友会。三日前と同じ顔ぶれである。三日前と同じ顔ぶれが、三日で二度目に来ている。
中里さんがいた。
私を見て、軽く顎を上げた。それだけだった。
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和泉さんの家の前に、香里さんが立っていた。
警察の人と話していた。話しているというより、同じことを何度も訊かれていた。何時に起きたか。何時に気づいたか。前の晩に変わったことはなかったか。
変わったことは、ありました。
香里さんはそう言った。
「ノイズが」
警察の人は、はい、と言った。それから、次の質問をした。
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捜索は、その日のうちに範囲を決めた。
家から半径二キロ。沢を二本。林道の両側。
人が入った。夕方まで入った。
出なかった。
翌日も入った。出なかった。
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私が香里さんと話したのは、三日目の夕方である。
家の玄関で、立ったままだった。
香里さんは、私に紙の袋を出した。
中にメモ帳が入っていた。B6の、罫線だけの安いやつである。表紙に何も書いていない。
「これ、たぶん、そちらのじゃないかと」
私は受け取った。
開いた。
日付と、時刻と、二語か三語。それが二週間分ある。数えると、十一回あった。
最後の行はこうだった。
7/23 04:52 開始
バンド全域。強い。今までで一番。
終了の時刻は、書かれていなかった。
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私は、その空白を見ていた。
私の当直日誌には、こう書いてある。
〇四時五〇分ごろより上昇
〇五時一二分 閾値超過
〇五時三一分 正常域へ復帰
彼の記録は、四時五十二分で終わっている。
二つの記録は、同じものを見ている。たぶん、同じものを見ている。
たぶん、というのは、私が確かめていないからである。確かめるには、二つを並べて、同じであると判断しなければならない。判断は所見である。
私は伺見である。
私が書けるのは、二つの記録が存在することだけである。
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「役に立ちますか」
香里さんが言った。
私は顔を上げた。
「書いておけって、言われたって」
「はい」
「言われたのが、嬉しかったみたいで」
香里さんは、そう言った。
責めている言い方ではなかった。責めているのなら、まだよかった。
「ここ来てから、頼まれたこと、なかったんです」
「はい」
「二年で、一回だけでした」
私は、はい、と言った。
それ以外に、言えることがなかった。
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私は礼を言って、メモ帳を鞄に入れた。
入れながら、これをどう綴じるかを考えていた。
住民の私的記録である。初見ではない。気色でもない。私が視たものではない。参考資料として別紙に添付する。それが手順である。
別紙に添付されたものは、本文には入らない。
手順どおりに、私はそう綴じる。
入らないものは、たぶん、誰も読まない。
彼が二週間、毎朝四時に起きて書いたものは、そういう場所に入る。
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車に戻ろうとしたとき、中里さんが道の向こうから歩いてきた。
すれ違いざまに、足を止めた。
「出んな」
「はい」
「あれと同じだ」
あれ、というのが五月の戸倉さんのことだと、私には分かった。分かったが、確認はしなかった。確認すると、それは聴取になる。
中里さんは行った。
*
五人である。
三人は出た。二人は出ていない。出た三人は、みな土をかけてあった。出ていない二人には、それもない。
私が来てから、初めて自分で初見を記した案件が、これである。
初見は取れた。時刻も値も残った。
人は残らなかった。




