第十章 アンテナ
四時五十二分に、ノイズが入った。
和泉直人は椅子の背から身を起こした。
起きていたわけではない。三時に一度目が覚めて、そのまま無線機の前に座っていた。座って、何をするでもなく、七メガのバンドを流していた。
眠れないから座るのではない。座っているから眠らない。どちらが先か、もう分からなくなって久しい。会社の当直も、そういうものだった。
この時期の朝は早い。四時を回れば外は明るい。
ノイズは、いつもと同じ入り方だった。
ざあ、ではない。ばあ、である。何かが立ち上がるような入り方をする。上から降ってくるのではなく、下から持ち上がってくる。周波数を動かしても、どこにでもいる。バンドの端から端まで、同じ強さで乗っている。
直人はメモ帳を引き寄せた。
*
メモ帳は、リグの右横に置いてある。
百円のB6の、罫線だけの安いやつである。表紙に何も書いていない。
高いものを買っても、書く中身は変わらない。書く中身が変わらないなら、安いほうがいい。直人はそう考える質だった。
五月から書いている。正確には、五月から気づいていて、書きはじめたのは七月八日からである。
七月八日に、役所の人が来た。
暦の役所だと言った。名刺をもらった。内閣府大臣官房、暦象事務局、第一観測所。読んでも何の役所か分からなかった。
その人が、畑の隅に箱を置いていった。それから、ノイズの日と時刻を書いておいてくれないかと言った。
直人は、いいですよ、と即答した。
そういうのが好きだからである。
好きというのは、正確には、そういう仕事をしているからである。直人は札幌の会社にリモートで雇われていて、サーバの監視をしている。夜中にアラートが上がったら見る。上がらなければ見ない。見ないあいだも、ログは溜まっている。
異常が起きたら、時刻を書く。それが仕事である。
仕事だと思ってやったことはない。異常のほうが勝手に起きて、こちらは時刻を書くだけである。書けば、あとで誰かが読む。読まなくても、書いておく。書いておかないと、起きなかったことになる。そこだけは、直人にも譲れないところがあった。
だから、書けと言われれば書ける。
*
7/23 04:52 開始
バンド全域。強い。今までで一番。
書いて、時計を見た。
この二週間で、十一回入っている。入らない日もある。入る日は、たいてい四時台か五時台で、二、三十分で消える。
消えるときは、切れるように消える。だんだん弱くならない。
だんだん弱くなるもののほうが、直人には馴染みがある。機械の故障は、たいてい前触れがある。前触れなく切れるものは、故障ではない。故障でないなら、なんだろうと、そこまでは考えなかった。
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二年前の春に、ここへ来た。
直人は札幌のマンションに住んでいて、アンテナが張れなかった。ベランダに短いのを付けて、ノイズだらけのなかで、辛うじて聞いていた。市街地のノイズフロアは、ひどい。エアコンのインバータ、LEDの電源、太陽光のパワコン。近所じゅうが電波を出している。
ここは、静かだった。
最初に見に来たのは十月で、雪の前だった。車を停めて、ハンディ機で聞いてみた。何も聞こえなかった。
何も聞こえないというのは、この趣味では、いちばんいいことである。
直人はその場で買うと決めた。決めるのに、時間はいらなかった。欲しいものがはっきりしている人間は、決めるのが早い。直人は自分のそういうところを、悪くないと思っていた。
家は安かった。土地は、ほとんどただみたいなものだった。
どうしてこんなに安いのか、そのときは考えなかった。
安いのには理由がある。それは監視の仕事でも同じだった。安く上がっている箇所には、たいてい、あとで金のかかる何かが隠れている。分かっていて、そのときは考えなかった。欲しいものが目の前にあると、人は理由を後回しにする。
*
香里は反対しなかった。
反対しなかったが、賛成もしなかった。札幌の仕事を辞めて、ついてきた。いまは在宅で経理の仕事を請けている。
ついてきた、というのが正しいのかどうか、直人は近ごろ考える。連れてきた、のかもしれない。香里は数字を合わせる仕事をしている。合わないものを、合わないと言う人である。あのとき、香里は何も言わなかった。言わなかったのを、賛成だと直人は受け取った。受け取ったことにした。
最初の年は、よかったと思う。
二年目の冬に、香里が一度だけ、静かすぎる、と言った。直人には、それが褒めているのか困っているのか分からなかった。分からなかったので、訊かなかった。
訊かなかったのは、たぶん、答えが分かっていたからである。
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単管で組んだ簡易のタワーが、家の横に立っている。
高さは十二メートル。上にワイヤーを二方向へ張ってある。自分で組んだ。基礎はコンクリートを打った。打つときに、宮下さんが手伝いに来てくれた。
宮下さんは、頼んでいない。勝手に来て、勝手に手を貸して、勝手に帰った。ここの年寄りは、そういうものらしかった。丁寧に礼を言うと、かえって迷惑そうな顔をした。直人はその顔の意味が、二年住んで、少し分かるようになった。
宮下さんは、三日前に見つかった。
二十日ぶりだった。
どこで見つかったかは聞いていない。聞いていないというより、聞ける相手がいない。この谷で話せる人は、あと一人しかいない。きよさんである。きよさんは八十九で、耳が少し遠い。
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七月八日に、香里が役所の人に訊いた。
うち、出たほうがいいですか、と訊いた。
直人の目の前で訊いた。
役所の人は、私からは申し上げられません、と言った。それは正しい答えだと直人は思った。あの人に責任はない。
ただ、香里が直人にではなく、初めて会う人間に訊いたのは、事実である。
その事実を、直人は責めなかった。責める筋合いがなかった。香里が直人に訊かなかったのは、直人が答えられないと知っていたからである。合わないものを、合わないと言う人は、答えられない人間に訊いたりしない。
その晩、二人で話した。
出よう、ということになった。
なったが、出られない。
家のローンが二十五年残っている。売れる家ではない。買ったときに安かったものは、売るときも安い。安いというより、値がつかない。不動産屋に電話したら、査定はしますが、と言われて、それきり連絡が来ない。
直人の仕事はどこでもできる。香里の仕事もできる。できるが、行った先で家賃を払いながら、ここのローンを払うことはできない。
できないことを、直人は数えられた。監視の仕事は、できることとできないことを分ける仕事でもある。できないことは、できないと出す。あとは上が決める。ここには、上がいない。上がいないと、できないことは、ただできないまま残る。
だから、まだいる。
出ようと決めてから、二週間になる。
決めたことと、できることは、別である。
*
ノイズは続いていた。
直人は、Sメータを見た。振り切っている。
いつもより強い。
これはもしかすると、自分のところかもしれない、と直人は思った。
外に張ったワイヤーのどこかで、被覆が切れているのかもしれない。同軸に水が入ったのかもしれない。ケーブルに水が入ると、条件によっては派手なノイズを拾う。三月に雪が緩んだとき、引き込みの根元が一度浮いた。直したが、直しきれていない可能性はある。
もしそうなら、二週間分の記録は全部、自分の家のせいである。
役所の人に、無駄な紙を渡すことになる。
無駄な紙を渡すのが、直人はいちばん嫌だった。異常でないものを異常として上げる。監視でそれをやると、次から信じてもらえなくなる。信じてもらえない記録は、書かないのと同じである。
直人は立ち上がった。
*
サンダルを履いて、外に出た。
五時二十五分だった。
空はもう明るい。曇っている。風はない。
香里は寝ている。この時間に起きることはない。
起こそうとは思わなかった。自分の設備の不始末を確かめるのに、人を起こす理由がない。それに、と直人は思った。近ごろ香里の眠りは浅い。浅いのを知っていて、直人は知らないふりをしている。知らないふりのほうが、たぶん、二人とも楽だった。
直人はタワーの根元まで行って、しゃがんだ。引き込みの点検口を開けて、コネクタを見た。
濡れていない。
テープの巻きも、緩んでいない。
立ち上がって、ワイヤーの張りを見上げた。二方向とも、たるんでいない。碍子も割れていない。
どこも、悪くない。
*
そのとき、消えた。
直人は家のほうを振り返った。
開けたままの窓から、無線機のスピーカーが見えるわけではない。音も、ここまでは届かない。届かないが、消えたのは分かった。
分かったというのは、正確ではない。
直人は、外にいた。
外にいて、機械に触っていない。触っていないのに、消えた。
つまり、自分のところではない。
二週間分の記録は、無駄ではなかった。
直人は、少しだけ、ほっとした。ほっとしてから、それを妙だと思った。人の家のせいでないと分かって安心する筋合いは、本来ない。自分の設備でないなら、では何なのか、そこは相変わらず分からないままである。分からないものが、安心の裏側に残っていた。
直人は、ポケットからスマートフォンを出した。時刻を見た。
五時三十一分。
あとで書こう、と思った。メモ帳はリグの横にある。
*
書こうと思って、直人はその場に立っていた。
立っていたのは、理由があってではない。
朝の谷は、静かだった。
鳥は鳴いている。沢の音もする。だが、それだけである。それだけというのが、この場所である。
インバータの唸りがない。パワコンの高調波がない。誰かの家のLEDが吐き出す、細かい櫛のようなノイズがない。
誰かの家、と直人は思って、その誰かがもういないことに気づいた。宮下さんの家からは、もう何も出ていない。人が出す電波は、人がいれば出る。いなくなれば、消える。谷が静かになっていくのを、直人はこの二年、機械で聞いていた。聞いていたが、そういうものとして聞いていた。
二年前、これが欲しくて来た。
いま、これしかない。
時計を見ると、五時三十九分だった。
思ったより長く立っていた。
静かだった。




