第2話 王太子宮は、翌朝から傾きました
翌朝、わたくしは王都の屋敷を出た。
荷物は少ない。
衣装箱が三つ。
書類箱が二つ。
母の形見を入れた小箱が一つ。
公爵家の令嬢が領地へ移るにしては、あまりに質素な出立だった。
けれど、今のわたくしにはそれで十分だった。
「本当に、これだけでよろしいのですか」
侍女のリーナが、不安そうに尋ねてくる。
「ええ。王都に置いていくものは、もう必要ありません」
「ですが、お嬢様のお部屋には、まだ殿下から贈られた品が……」
「処分してちょうだい」
わたくしは馬車に乗り込む前に、屋敷を振り返った。
白い壁。
整えられた庭。
毎朝、王太子宮へ向かうために通った門。
ここで暮らした日々に、何の意味もなかったとは思わない。
礼儀を学んだ。
政務を覚えた。
人の顔色を読むことも、嘘を聞き分けることも覚えた。
それらはすべて、これから役に立つ。
殿下の妻になるためではなく、わたくし自身の領地を守るために。
「出してください」
御者が頷き、馬車がゆっくりと動き出した。
王都の石畳を車輪が叩く。
その音を聞きながら、わたくしは窓の外を見た。
朝の王都は、何事もなかったように賑わっている。
パン屋からは焼きたての香りが漂い、商人たちは店先に商品を並べ、子供たちは噴水の周りを走っていた。
きっと誰も知らない。
王太子宮の書庫から、昨日のうちに大量の書類が消えたことを。
もちろん、盗んだわけではない。
わたくしが作成し、わたくしの署名で管理していた写しを、すべて引き上げただけだ。
王家の正式文書は残してある。
ただし、殿下が理解しやすいように整理した補助資料、貴族家ごとの利害一覧、交渉時に避けるべき話題、各領地の収穫量推移、予算の修正案、災害時の優先搬送路。
そうしたものは、すべてわたくしの私的な覚書である。
そして私的な覚書を、元婚約者のために残す義務はない。
「お嬢様」
向かいに座っていたリーナが、少しだけ声を潜めた。
「王太子宮は、大丈夫なのでしょうか」
「大丈夫かどうかは、王太子殿下がお決めになることでしょう」
「お嬢様は、心配ではないのですか」
「心配よ」
そう答えると、リーナは驚いた顔をした。
わたくしは小さく息を吐く。
「王都で混乱が起きれば、困るのは民です。殿下だけが困るなら、心配などしません」
「……お嬢様」
「でも、もうわたくしの仕事ではないわ」
そう。
それだけは、はっきりしている。
昨日までは違った。
殿下が失言すれば、わたくしが裏で謝罪した。
殿下が会議を忘れれば、わたくしが日程を組み直した。
殿下が無理な政策を口にすれば、わたくしが実現可能な形に直した。
けれど、今日からは違う。
婚約を破棄された令嬢が、王太子宮の失敗に責任を持つ必要はない。
馬車は王都の門を抜けた。
遠ざかっていく城を、わたくしは最後まで見なかった。
◇
その頃、王太子宮では小さな混乱が起きていた。
「ない?」
ジルベルト王太子は、執務机の前で眉を寄せた。
「はい。南部水害の備蓄計画に関する詳細資料が見当たりません」
補佐官の一人が、青い顔で答える。
「なぜない。先週、エレノアが持ってきただろう」
「正式な提出文書はございます。ただ、各領地への搬送順、倉庫ごとの備蓄量、橋の耐久確認表などが……」
「それは正式文書ではないのか?」
「恐らく、エレノア様の私的な作業資料です」
ジルベルトは舌打ちした。
「なら作り直せ」
「それが、南部六領の収穫量と街道状態を照合する必要がありまして」
「照合すればいいだろう」
「はい。ただ、各領地から最新の数字を取り寄せるだけで、早くても十日は」
「十日?」
ジルベルトの声が荒くなる。
「雨期は来週だぞ!」
補佐官は返事ができなかった。
そこへ、別の文官が慌てて入ってくる。
「殿下、外務卿より至急の確認です。ルーデン王国との交易交渉について、会談前の論点整理が届いていないと」
「それもエレノアか?」
「おそらく……」
「おそらく、おそらくと、そればかりだな!」
ジルベルトは机を叩いた。
机の上のインク瓶が揺れ、黒い染みが書類に広がる。
文官たちは一斉に口を閉じた。
昨日まで、この部屋には整然とした秩序があった。
必要な書類は必要な場所にあり、会議の前には要点をまとめた紙が置かれ、相手の貴族が嫌がる話題には赤い印が付けられていた。
その便利さを、誰も便利だと思っていなかった。
それが当たり前だったからだ。
ジルベルトも同じだった。
エレノアは冷たく、融通が利かず、いつも正しいことばかり言う退屈な婚約者。
彼はそう思っていた。
けれど今、退屈な婚約者が消えた机の上には、何から手をつければいいのか分からない書類だけが積み上がっている。
「殿下」
柔らかな声がした。
部屋の入口に、ミリアが立っていた。
淡い桃色のドレスをまとい、不安そうに両手を胸の前で組んでいる。
「ミリア」
ジルベルトの表情がわずかに緩んだ。
「大丈夫だ。少し書類が混乱しているだけだ」
「わたし、お手伝いできますか?」
「君は優しいな」
ジルベルトは立ち上がり、彼女の手を取った。
「エレノアとは違う。あの女は、いつも私を責めるような目で見ていた」
「そんな……殿下は悪くありません」
ミリアは目を潤ませた。
「エレノア様はきっと、殿下に頼られるのが嬉しくなかったんです。わたしなら、殿下のお力になれるだけで幸せです」
その言葉に、ジルベルトは満足そうに頷いた。
「そうだな。君がいてくれれば十分だ」
文官たちは黙って視線を落とした。
誰も言わなかった。
優しさだけでは、備蓄計画は作れない。
涙ぐんだ瞳だけでは、交易交渉は進まない。
だが、その場で口に出せる者はいなかった。
◇
王都を出て三日目。
景色は少しずつ変わっていった。
整えられた街道は荒れ、畑はまばらになり、宿場町の建物は低くなった。
北へ向かうほど、風が冷たくなる。
リーナは毛布を膝にかけながら、不安そうに窓の外を見ていた。
「本当に寒いところなのですね」
「まだ入口よ。ノルデンはもっと寒いそうだわ」
「お嬢様は平気なのですか」
「平気ではないわ」
「えっ」
「寒いものは寒いでしょう」
そう言うと、リーナは少しだけ笑った。
わたくしも笑った。
強がっても仕方がない。
わたくしは北の生活を知らない。
雪深い土地での冬の越し方も、魔獣被害の実態も、凍る井戸への対処も、何も知らない。
領主になると言ったところで、現地の人々から見れば王都育ちの小娘である。
歓迎されるとは限らない。
むしろ、されない可能性のほうが高い。
けれど、それでいい。
知らないなら学ぶ。
できないなら、できる者に教わる。
王太子宮で最初に覚えたのは、それだった。
自分がすべてを知っていると思った瞬間、人は失敗する。
「エレノア様」
馬車の外から、カイの声がした。
彼は馬に乗り、ずっと馬車の横を進んでいる。
「この先の宿場で一度止まる。ノルデンに入る前に、話しておきたいことがある」
「わかりました」
宿場は小さかった。
木造の建物が数軒並び、井戸のそばには痩せた犬が丸くなっている。
宿の食堂に入ると、客たちが一斉にこちらを見た。
わたくしの服装で、身分はすぐに分かったのだろう。
好奇心。
警戒。
そして少しの敵意。
それらの視線を受けながら、わたくしは席に着いた。
カイは向かいに座り、地図を広げる。
「ここから北がノルデン領だ」
彼の指が、地図の上を滑った。
「主要な村は五つ。領都と呼べる場所は一応あるが、王都の人間が想像するような町じゃない。石壁は古く、兵は足りない。冬になる前に直さなければならない場所が多すぎる」
「税収は?」
「少ない。代官が中抜きしている」
「証拠は?」
「ある。だが王都に送っても握り潰された」
「なるほど」
わたくしは地図を見つめた。
代官の腐敗。
壊れた道。
足りない兵。
少ない税収。
悪い情報ばかりだ。
けれど、悪い情報が出てくるだけまだいい。
本当に危ない領地は、悪い情報すら上がってこない。
「農地は痩せていると聞きました」
「痩せているが、全部駄目なわけじゃない。川沿いは使える。ただ、春先に水が溢れる」
「治水が必要ですね」
「簡単に言うな」
「簡単ではないから、最初にやります」
カイがわたくしを見た。
「王都の令嬢が、川の工事を分かるのか」
「分かりません」
「おい」
「ですから、分かる者を探します。現地の農民、石工、古い工事記録。使えるものは全部使います」
カイはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「変わった令嬢だな」
「昨日まで悪役令嬢でしたから」
「悪役令嬢は治水をするのか」
「これから流行らせます」
リーナが隣で吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。
カイも小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
「もう一つ、問題がある」
「何でしょう」
「ノルデンの民は、貴族を信用していない」
「でしょうね」
代官が腐っているなら当然だ。
王都の公爵令嬢が突然やってきて、「今日から領主です」と言ったところで、歓迎されるわけがない。
「石を投げられるかもしれないぞ」
「その時は避けます」
「避けられなかったら?」
「痛がります」
カイは今度こそ少し笑った。
「肝は据わっているらしい」
「いいえ。怖いです」
わたくしは正直に言った。
「ですが、王都に残るほうがもっと嫌でした」
あの広間で、わたくしは切り捨てられた。
だが、切り捨てられたからこそ自由になった。
誰かに必要とされるために、自分を削る生活はもう終わりにする。
これからは、自分で選ぶ。
何を守るか。
誰のために働くか。
どこで生きるか。
「カイ」
「何だ」
「ノルデンに着いたら、まず代官に会います」
「危険だぞ」
「ええ。だから、あなたも同席してください」
「俺が?」
「あなたはノルデンの騎士でしょう」
「ああ」
「なら、わたくしの最初の味方になってください」
カイは真顔になった。
簡単に頷かないところが、この人らしいと思った。
少しの沈黙の後、彼は低く答えた。
「分かった」
「ありがとうございます」
「だが、俺は甘いことは言わない。あんたが領民を見下すなら、俺はあんたに剣を向ける」
「構いません」
わたくしは地図から顔を上げた。
「その代わり、わたくしが本気で領地を立て直そうとしている間は、あなたの剣を貸してください」
「約束する」
それは、王都で交わしたどんな誓約よりも簡素だった。
けれど、確かだった。
◇
同じ頃、王都では最初の問題が表に出始めていた。
南部水害対策会議。
そこに集まった貴族たちは、王太子の説明を聞いて困惑していた。
「つまり、備蓄麦はどの倉庫から出すのですかな」
「それは……状況に応じて判断する」
「橋が落ちた場合の迂回路は?」
「騎士団が対応する」
「その騎士団の冬季演習費が不足しているという話を聞きましたが」
「問題ない」
ジルベルトはそう言い切った。
しかし、会議室の空気は重くなるばかりだった。
以前なら、エレノアがこの場にいた。
彼女は発言しすぎなかった。
ただ、必要な時に必要な紙を出した。
貴族が反発しそうになる前に、別案を提示した。
誰の顔も潰さず、しかし結論だけは前へ進めた。
その彼女は、もういない。
「殿下」
南部の伯爵が、慎重に口を開いた。
「失礼ながら、以前エレノア様が作成されていた詳細計画は」
「彼女の名を出すな」
ジルベルトの声が冷たくなった。
「あの女はもう関係ない」
会議室は静まり返った。
その沈黙の意味を、ジルベルトだけが理解していなかった。
◇
北の空は、王都より低く見えた。
馬車が丘を越えた時、カイが言った。
「見えたぞ」
わたくしは窓の外を見る。
広がっていたのは、灰色の土地だった。
遠くに黒い森。
細い川。
傾いた柵。
雪が残る畑。
そして、その中心に小さな町があった。
豊かではない。
華やかでもない。
けれど煙突からは煙が上がり、人が歩いている。
生活がある。
わたくしは胸の前で、母の形見の小箱をそっと抱いた。
「お母様」
声には出さず、心の中で呼びかける。
わたくしは来ました。
あなたが愛した土地へ。
馬車が町へ近づく。
門の前には、数十人の領民が集まっていた。
歓迎の花はない。
音楽もない。
ただ、疑いの目がある。
その中から、一人の老人が進み出た。
「新しい領主様か」
「はい」
わたくしは馬車を降りた。
冷たい風が頬を刺す。
王都の冬とは違う、本物の寒さだった。
「エレノア・ヴァレンタインです。本日より、ノルデン領を預かります」
老人は頭を下げなかった。
周囲の領民たちも同じだった。
リーナが息を呑む。
カイは黙っている。
老人は、わたくしをまっすぐに見た。
「王都の貴族様が、今さら何をしに来た」
敵意のある声だった。
当然だと思った。
この土地は、長く放置されてきた。
代官に搾られ、王都に忘れられ、それでも生きてきた。
そこへ突然、綺麗な服を着た公爵令嬢がやってきたのだ。
怒らないほうがおかしい。
「謝罪に来ました」
わたくしは言った。
領民たちがざわめく。
「長くこの地を見なかったこと。代官の報告だけを信じ、実際に暮らす皆様の声を聞かなかったこと。領主の血を引く者として、まず謝罪します」
わたくしは膝を折らなかった。
貴族としての礼を失うつもりはない。
けれど、頭を下げた。
深く。
周囲が静まり返る。
「許していただけるとは思っていません」
わたくしは顔を上げた。
「ですから、言葉ではなく仕事で示します」
老人の目が細くなる。
「何をする」
「まず三つです」
わたくしは指を一本立てた。
「一つ。代官の帳簿を調べ、不正があれば罷免します」
ざわめきが大きくなる。
「二つ。冬までに井戸と備蓄倉庫を確認し、食料の不足分を公爵家の私財で補います」
何人かが息を呑んだ。
「三つ。春の川の氾濫を防ぐため、治水工事の計画を始めます。農民、石工、猟師、川に詳しい者。知恵を貸してください。身分は問いません」
老人は黙っていた。
長い沈黙だった。
やがて、彼は低く言った。
「口だけなら、前の代官も立派だった」
「では、今日から見張ってください」
「見張る?」
「はい。わたくしが嘘をつかないか。逃げ出さないか。領民を見捨てないか。あなた方の目で見てください」
老人は驚いたようにわたくしを見た。
わたくしは続ける。
「信じてくださいとは言いません。ですが、判断する時間をください」
風が吹いた。
誰も話さなかった。
やがて老人は、ゆっくりと横へ退いた。
「……入れ」
それは歓迎ではなかった。
けれど、拒絶でもなかった。
今はそれで十分だ。
「ありがとうございます」
わたくしは町の門をくぐった。
冷たい土の匂いがした。
薪の燃える匂いがした。
遠くで子供の泣き声が聞こえた。
ここが、わたくしの領地。
ここから、始める。
王都で悪役令嬢と呼ばれたわたくしが、まず最初に倒すべき相手は、元婚約者ではない。
腐った代官。
壊れた井戸。
空になりかけた倉庫。
そして、この土地に積もった諦めだ。
わたくしは振り返り、カイに言った。
「案内してください。まずは代官の屋敷へ行きます」
カイは短く頷いた。
「休まないのか」
「休むのは、帳簿を見てからです」
「倒れるぞ」
「倒れたら起こしてください」
「人使いが荒い領主だ」
「慣れてください」
そう言って、わたくしは歩き出した。
その時、背後で誰かが小さく呟いた。
「先代様に、少し似ているな」
わたくしは振り返らなかった。
けれど、その言葉だけで、北の風がほんの少しだけ暖かく感じられた。




