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第1話 殿下、その婚約破棄、承りました

「エレノア・ヴァレンタイン。貴様との婚約を、ここに破棄する!」


 王立学院の大広間に、王太子ジルベルト殿下の声が響き渡った。


 楽団の演奏が止まる。


 杯を掲げていた貴族子女たちの手が止まる。


 卒業舞踏会の華やかな空気は、一瞬で凍りついた。


 わたくしは、ゆっくりと瞬きをした。


 目の前には、金髪碧眼の王太子ジルベルト殿下。


 その腕には、小柄で可憐な男爵令嬢ミリア様が寄り添っている。


 ミリア様は震える肩を両手で抱きしめ、今にも泣き出しそうな顔でわたくしを見ていた。


「エレノア様……わたし、何度もお願いしました。もう意地悪はやめてくださいって……」


 その声に、周囲からざわめきが広がる。


「まあ、やはり……」


「公爵令嬢ともあろう方が、男爵令嬢をいじめていたの?」


「怖い方ね」


 なるほど。


 今夜、わたくしは悪役令嬢になるらしい。


 十八年間、王太子妃となるために礼法を学び、政務を学び、外交史を学び、王太子宮の帳簿の穴を塞ぎ、殿下が忘れた会議の根回しをしてきた。


 その最後が、これ。


 なかなか趣味が悪い。


「エレノア!」


 殿下はわたくしを指さした。


「貴様はミリアの教科書を破り、階段から突き落とし、茶会では彼女のドレスに紅茶をかけたそうだな。これ以上、貴様の悪行を見過ごすことはできん!」


 教科書。


 階段。


 紅茶。


 どれも初耳だった。


 けれど、周囲の視線はすでにわたくしを裁いている。


 真実など、もう必要とされていない。


 必要なのは、可哀想なヒロインと、それを虐げた悪女だけだ。


「殿下」


 わたくしは静かに口を開いた。


「発言をお許しいただけますか」


「言い訳か?」


「確認でございます」


 殿下の眉がぴくりと動いた。


「婚約破棄は、王家の正式なご判断と受け取ってよろしいでしょうか」


「当然だ!」


「わたくしに課せられていた王太子妃教育も、王太子宮での政務補佐も、本日をもって終了ということで?」


「ふん。貴様のような女に、これ以上王家へ関わらせるものか」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 悲しみではない。


 怒りでもない。


 もっと軽いもの。


 長年きつく締めていたコルセットを、ようやく外せたような感覚だった。


「承知いたしました」


 わたくしは膝を折り、完璧な礼をした。


「では本日をもって、王太子宮の政務補佐をすべて辞任いたします」


 広間のざわめきが、少し変わった。


「帳簿管理、各貴族家との折衝、南部水害への備蓄計画、隣国ルーデンとの交易交渉資料、騎士団予算の再配分案。以上、わたくしが担当していたものは、明朝までにすべて王太子宮へ返却いたします」


 殿下が目を見開いた。


「待て。帳簿は財務官が見ているはずだ」


「はい。財務官が作成したものを、わたくしが毎月修正しておりました」


「交易資料は外務卿が」


「下案はわたくしです」


「騎士団予算は――」


「殿下が狩猟大会の費用を追加なさったため、冬季演習費が不足しておりました。そちらを補填する案を作成したのも、わたくしでございます」


 今度こそ、広間は完全に静まり返った。


 ミリア様の震えも止まっている。


 殿下は、怒鳴る言葉を探しているようだった。


 けれど見つからなかったらしい。


「そ、それがどうした。貴様の代わりなどいくらでもいる!」


「はい。そうであることを願っております」


 わたくしは微笑んだ。


 別に脅すつもりはない。


 本当に、そう願っている。


 王国が混乱すれば、苦しむのは民だ。殿下ではない。


「なお、わたくしは王都を離れます」


「逃げる気か?」


「いいえ。母が遺した北方のノルデン領へ参ります。長く代官任せになっておりましたので、一度この目で確かめたいと思っておりました」


 ノルデン。


 その名が出た途端、何人かの貴族が顔をしかめた。


 王国北端にある、寒く痩せた辺境領。


 税収は低く、冬は長く、魔獣の被害も多い。


 貴族たちからは「棄てられた土地」と呼ばれている。


 だが、母は生前、よく言っていた。


 あの土地には、強い人たちがいる。


 雪に負けず、風に折れず、春を待つことを知っている人たちが。


「好きにするがいい」


 殿下は吐き捨てた。


「だが覚えておけ、エレノア。貴様のような冷たい女が、領民に慕われるはずがない。王都を追われた悪役令嬢として、一生寂しく暮らすがいい」


 悪役令嬢。


 その言葉に、わたくしは少しだけ笑ってしまった。


 なるほど。


 悪役で結構。


 物語の悪役は、たいてい有能と相場が決まっている。


「ご忠告、痛み入ります」


 わたくしはもう一度礼をした。


「殿下とミリア様の未来に、幸多からんことを」


 そして背を向ける。


 誰も引き止めなかった。


 誰もわたくしを信じなかった。


 それでいい。


 信じてもらうために生きるのは、今日で終わりにする。


 大広間を出ると、夜風が頬を撫でた。


 王城の白い石壁の向こうに、冬の星が光っている。


 その下で、一人の男が立っていた。


 黒い外套。


 腰に剣。


 王都の騎士にしては、礼服も着ていない。


 けれど姿勢だけでわかる。


 強い人だ。


「エレノア・ヴァレンタイン公爵令嬢だな」


「あなたは?」


「カイ・ローレン。ノルデン領騎士団の者だ」


 ノルデン。


 わたくしは目を細めた。


「母の領地から?」


「ああ。先代夫人の命日が近い。毎年、王都の墓前に花を供えに来ている」


 カイは無愛想にそう言って、わたくしの顔を見た。


「中で騒ぎが聞こえた。婚約破棄か」


「ええ。つい先ほど、悪役令嬢になりました」


「そうか」


 彼は驚かなかった。


 慰めもしなかった。


 ただ短く言った。


「なら、北へ来い」


 その言葉は、あまりに簡素だった。


「ノルデンは貧しい。冬は人が死ぬ。代官は腐っている。道は壊れ、井戸は凍り、畑は痩せている」


「ひどい紹介ですこと」


「だが、あんたの母君は、あの土地を見捨てなかった」


 風が吹く。


 カイの黒髪が揺れた。


「俺たちは今でも覚えている。先代夫人が、吹雪の中で子供を抱いて歩いたことを。凍った井戸の前で、領民と一緒に手を血だらけにして氷を割ったことを」


 母の話を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 わたくしは幼い頃に母を亡くした。


 王都で語られる母は、美しく、儚く、病弱な公爵夫人だった。


 けれどノルデンでは違うらしい。


 母は、そこに生きていたのだ。


「ノルデンは、わたくしを受け入れてくれるでしょうか」


「さあな」


 カイは正直だった。


「だが、来るなら守る。あんたが領主として立つなら、俺は剣を貸す」


 おかしな人。


 初対面の令嬢に向かって、甘い言葉のひとつもない。


 でも、不思議と信じられた。


 王太子の百の愛の言葉より、この男の「守る」のほうが、よほど重い。


「では、カイ・ローレン」


 わたくしは手袋を外し、彼へ手を差し出した。


「わたくしをノルデンへ連れて行ってください」


 カイは一瞬だけ目を見開き、それから不器用にわたくしの手を取った。


「後悔するぞ」


「もう十分しました」


 王太子のために生きたこと。


 信じてもらえると思っていたこと。


 泣けば誰かが助けてくれると、心のどこかで期待していたこと。


 そういうものは、全部、今夜ここに置いていく。


「これからは、後悔しないほうを選びます」


 遠くで舞踏会の音楽が再開した。


 きっと今頃、殿下はミリア様の手を取り、勝利を確信して踊っているのだろう。


 どうぞ、お幸せに。


 わたくしはもう、あなたの失敗を先回りして片づけない。


 あなたの遅刻を誤魔化さない。


 あなたの空っぽの政策を、美しい言葉で飾らない。


 あなたが捨てたのは、悪役令嬢ではない。


 王国を支えていた、最後の杖だ。


 そしてその杖は今夜、北へ向かう。


 王都の灯りを背に、わたくしは歩き出した。


 寒く、貧しく、見捨てられた土地へ。


 母が愛した、わたくしの領地へ。


 ここから先は、誰かの婚約者としてではなく。


 エレノア・ヴァレンタインとして、生きていく。

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