第6話:決定的な境界線
レインハルト様が食堂に現れたあの日の昼休みを境に、令嬢たちのわたしに対する風当たりはさらに苛烈なものとなりました。
雲の上の存在である彼が、わざわざ普通科の教室がある棟の食堂まで足を運んだのです。
その事実は、彼女たちの嫉妬の炎に大量の油を注ぐ結果となってしまいました。
教室にいても、移動中であっても、わざと聞こえるような大きな声で陰口が叩かれます。
すれ違いざまに肩をぶつけられることなど日常茶飯事になり、机の中に心無い言葉が書かれた羊皮紙が入れられていることもありました。
「本当に目障りよね、あの普通科の女」
「公爵家の温情につけ込んで、レインハルト様を誑かしたに決まっているわ」
「自分の身の程をわきまえるべきよ。侯爵家とはいえ、魔力もない落ちこぼれのくせに」
針のむしろのような教室で、わたしはただじっと耐えることしかできませんでした。
反論する気力すらありません。
ただ俯いて、手元の教科書を見つめるふりをしてやり過ごすのです。
「聞こえるように悪口を言うのはやめろよ。婚約が決まる前までは普通に話してただろ」
突然教室に響き渡った大きな声に、周囲がシンと静まり返りました。
声の主は、同級生の男子生徒であるリオネル・ヴァレンティーヌでした。
彼は腕を組み、不機嫌そうに頭を掻きむしりながら、令嬢たちを真正面から睨みつけております。
普段は飄々としている彼が見せた剣幕に、思わぬ庇い手を得た令嬢たちが顔を引きつらせていました。
リオネルの言葉は、ただの正義感から出たものだったのでしょう。
しかし、その言葉の刃は思いがけない人物の胸を深く抉っていたのです。
わたしの視線は教室の入り口付近で遠巻きにこちらを見ていた一人の少女に向かっていました。
「……!」
リオネルの言葉を聞いた瞬間、ナディアの肩がビクッと大きく震えたのです。
まるで罪を暴かれたかのように顔を青ざめさせた彼女は気まずそうに目を逸らすと、逃げるように教室から小走りで出て行ってしまいました。
リオネルに小さくお礼を言いながらも、わたしの胸には重い鉛を飲み込んだような痛みが広がっていました。
ナディアがどんな思いで今の言葉を聞いていたのか、痛いほどにわかってしまったからです。
***
その日の午後、次の教室へと移動する廊下でのことでした。
人波を避けるように端を歩いていたわたしの袖が、ふいに誰かに強く引かれたのです。
振り返ると、そこには血の気を失ったような顔をしたナディアが立っておりました。
彼女は無言のままわたしの腕を引き、人気のない旧校舎の裏へと連れ出しました。
ひんやりとした風が吹き抜ける校舎裏には、わたしたち二人しかおりません。
重苦しい沈黙が降り積もる中、ナディアは俯いたまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めました。
「ごめんなさい、シャルロット……っ。わたし、酷い態度をとって……」
震える声で謝罪を口にする彼女の姿に、わたしも目頭が熱くなりました。
元の仲の良かった二人に戻れるなら、どんなに嬉しいでしょう。
そう思って、彼女の手を優しく握ろうと手を伸ばしかけた、その瞬間でした。
ナディアの口から紡がれた言葉がわたしの手を空中で凍りつかせたのです。
「私たちと同じ普通科で魔法も使えないのに、レインハルト様のような素晴らしい方と婚約できるなんて羨ましくて……妬んでしまったの。ごめんなさい……」
その涙は、純粋な後悔や罪悪感からくるものだけではありませんでした。
彼女の瞳の奥には、明らかな嫉妬の泥濘が渦巻いていたのです。
さらに彼女の怯えたような視線や、そわそわと周囲の気配を気にする態度。
そこからは上位貴族からの陰湿な嫌がらせの『とばっちり』を受けたくない、もう深く関わりたくないという、生々しい自己保身の感情が痛いほどに滲み出ていました。
その瞬間、わたしははっきりと悟ってしまったのです。
ああ、もう駄目なのだ、と。
彼女はもう、一緒に他愛のない話で笑い合い、お菓子を分け合ったあの頃の親友ではありません。
レインハルト様という絶対的な光の隣に立つことを選んだわたしと彼女とでは、決して交わることのない決定的な境界線が引かれてしまったのです。
身分不相応な奇跡は、これまで当たり前にあった日常を無残に壊していきます。
「ううん、いいの。謝ってくれてありがとう、ナディア」
わたしはゆっくりと、宙で止まっていた手を下ろしました。
声は驚くほど平坦で、自分でも不思議なほど冷静でした。
「でも、もう無理に話しかけなくていいわ。あなたが巻き込まれるのは、わたしも辛いから」
突き放すのではなく心からの感謝を込めてそう告げると、ナディアはわあっと声を上げて泣き崩れました。
しばらく泣いた後、彼女は何度もごめんなさいと呟きながら、その場を走り去っていきます。
彼女の背中が見えなくなっても、わたしは一人残された校舎裏で立ち尽くしていました。
一番大切だった友人を手放した痛みは、想像以上に深く胸を抉ります。
今まで当たり前のように並んで歩いていた日々が、もう二度と戻ってこないのだと実感し、ポツリと冷たい涙が頬を伝い落ちました。
息をするのも苦しいほどの孤独が波のように押し寄せてきます。
足元がぐらぐらと揺れるような心細さに襲われ、わたしは縋るように顔を上げました。
視線の先、旧校舎から見下ろす中庭のずっと向こうに、魔導科の演習場が見えます。
そこに、ひときわ目を引く黒髪の青年が立っていました。
レインハルト様です。
彼は友人たちと何やら言葉を交わしておりましたが、ふいにこちらへと顔を向けました。
こんなにも遠く離れているのに、まるで最初からわたしがそこにいるとわかっていたかのように、真っ直ぐに視線が交わります。
彼が小さく手を挙げました。
そして、あの極上の甘い微笑みを、わたしだけに向けてくださったのです。
その瞬間、胸の奥に渦巻いていた悲しみや不安が嘘のようにスッと溶けていくのを感じました。
彼の存在そのものが、わたしの冷たい世界を温かい光で照らしてくれる。
たとえ親友と溝ができようとも。
世界中を敵に回して、この学園で完全に孤立しようとも。
わたしは絶対に、この恋を手放したくはないのです。
あの日、炎の中からわたしを救い出してくれた彼を、今度はわたしが全力で愛し抜くと決めたのですから。




