第4話:政略婚と、友の異変
ヴァルテンベルク公爵邸の応接室は、ため息が出るほど豪奢で洗練された空間でした。
高い天井には金糸雀色の美しいフレスコ画が描かれ、床に敷き詰められた絨毯はふかふかと足先を包み込みます。
壁に掛けられた歴史ある絵画や細やかな彫刻が施された調度品の数々に、わたしの緊張は最高潮に達していました。
お父様に付き添われ、この日のためにあつらえた上質な薄紅色のドレスを身に纏ったわたしは、心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴っているのを感じていたのです。
(どうしましょう、手も足も震えて止まりませんわ……)
やがて、金細工が施された扉が静かに開きました。
「お待たせいたしました」
静謐な声と共にレインハルト様が入室されました。
後ろには彼の父であるライオネル・イル・ヴァルテンベルク公爵様もいらっしゃいます。
「レインハルト・イル・ヴァルテンベルクです。本日はお越しいただき、光栄に存じます」
顔色ひとつ変えず、寸分の狂いもない完璧な貴公子の礼をとるレインハルト様。
炎の中で見た時よりもずっと大人びて見え、仕立ての良い漆黒のジャケットが彼の気品をさらに引き立てています。
そのあまりの美しさと威風堂々とした立ち振る舞いに圧倒されながらも、わたしは顔を真っ赤にして、震える足で必死に淑女の礼をとりました。
「し、シャルロット・エリュシオンと申します。お招きいただき、ありがとうございます……っ」
緊張で声がひっくり返りそうになるのを必死に堪えます。
両家の顔合わせの挨拶が済み、大人たちが和やかに歓談を始めると、レインハルト様はわたしの顔を真っ直ぐに見つめました。
「怪我の具合は、もうすっかりいいのかな」
「はい、おかげさまで。あの節は本当にありがとうございました」
「それは良かった。これから婚約者になるのだから無茶はしないでほしい」
淡々とした言葉の端々に滲む気遣いに、胸がじんわりと温かくなります。
けれど、わたしにはどうしても彼に伝えておかなければならない懸念がありました。
「あの……レインハルト様」
「なんだい?」
「わたし、エリュシオン侯爵家の娘ではありますが、魔力がほとんどないのです。魔法の才能もなく、ただの普通の学生で……。王国最強と謳われるレインハルト様の隣に立つには、あまりにも不釣り合いではないかと……」
言いながら、情けなさで俯いてしまいます。
侯爵家という身分があっても、魔導の名門である公爵家に嫁ぐには、わたしの能力はあまりにも劣っていました。
幻滅されてしまうのではないかと、両手をぎゅっと握りしめます。
しかし、頭上から降ってきたのは予想に反して物腰柔らかな、温かい声でした。
「そんなことは気にしなくていい。僕は魔導の研究には興味があるが、女性の魔力の有無にこだわりはないからね。それよりも、人柄的な部分が合うかどうかが重要だと思うよ」
顔を上げると、彼は少しだけ目元を和らげておりました。
「それに、信頼する父上の勧めであれば異論など無い。これからゆっくり知り合っていければ良いかな」
「は、はい……!」
安堵と嬉しさで、わたしは弾かれたように頷きました。
淡々としているけれど、彼は決して冷たい人ではありません。
彼となら、きっと温かい関係を築いていける。
そう信じて疑いませんでした。
***
しかし学園での現実は、夢のような婚約期間を打ち砕くほどに残酷なものだったのです。
魔導の天才であり、誰もが憧れる公爵家の御曹司であるレインハルト様。
その彼が、魔力を持たない普通科の令嬢と婚約したという噂は瞬く間に学園中に知れ渡りました。
「信じられない。エリュシオン侯爵家の令嬢とはいえ、あんな魔法も使えないような女が選ばれるなんて」
「きっと親同士の政略に決まっているわ。レインハルト様がかわいそうに」
廊下を歩けば他家の令嬢や上位貴族の娘たちから、あからさまな嘲笑と嫉妬の視線が突き刺さります。
すれ違いざまに扇の陰でクスクスと笑われ、聞こえよがしな陰口を叩かれる毎日。
侯爵令嬢であるわたしに対して直接的な危害を加えてくる者はいませんでしたが、徹底した『無視』や『お茶会からの排斥』という陰湿な空気が、真綿で首を絞めるようにわたしを孤立させていったのです。
同じ教室で学んでいた令嬢たちまで上位貴族の顔色を窺い、わたしを遠ざけるようになりました。
まともに言葉を交わしてくれるのは蚊帳の外の男子生徒くらい。
それでも、わたしは耐えることができました。
あの憧れていた彼が婚約者でいてくれるのだから、これくらいの試練は乗り越えなければならないと、自分に言い聞かせていたからです。
けれど、最もわたしの心を抉ったのは周囲の悪意よりも、たった一人の友の態度でした。
「ナディア、一緒にお昼を食べない?」
ある日の昼休み。
いつものように声をかけたわたしに、ナディアは気まずそうに目を伏せました。
「ご、ごめんなさい、シャルロット。今日はちょっと、他の方と約束があって……」
「え……。そう、わかったわ。また明日ね」
ナディアが足早に教室を出て行く後ろ姿を、わたしは呆然と見送りました。
彼女がわたしを避けるようになったのは、婚約の噂が広まってからでした。
不相応な婚約をして周囲から敵視されるわたしと一緒にいれば、上位貴族の娘たちから目をつけられ、ナディアにまで被害が及ぶかもしれない。
彼女は、その無言の圧力に耐えきれなくなってしまったのでしょう。
そう頭では理解していても、一番の親友に距離を置かれることは身を裂かれるほど辛いことだったのです。
休み時間のたびに、わたしは一人で過ごす時間が増えていきました。
賑やかな学園の中で、まるでわたしだけが透明になってしまったかのようです。
誰もいなくなった冷たい教室で、あるいは庭園の隅にある人気のないベンチで、わたしは一人きりになりました。
華やかな笑い声が響く廊下を遠くに聞きながら、ぽつんと置かれた自分の席に座ります。
「……っ」
堪えきれなくなった涙が、膝の上にポタリと落ちました。
憧れの人との婚約という奇跡の代償は、あまりにも重く、孤独なものだったのです。




