第3話:チェリーパイと、突然の婚約
講堂の火災事故から十日が過ぎ、ようやくお医者様から学園への復帰のお許しが出ました。
久しぶりに袖を通す制服の感触に、わたしは朝からそわそわと落ち着かない時間を過ごしていました。
両手には可愛らしい薄紅色のリボンをかけた小さな箱が、大切に握られています。
中に入っているのは、わたしが今朝早起きして焼き上げた、お手製のチェリーパイ。
魔力もない、これといった取り柄もないわたしですが、唯一の特技がお菓子作り。
幼い頃からお母様と一緒にお菓子を焼くのが日常でもあったのです。
あの日、命を救っていただいたお礼に、わたしにできる精一杯の感謝を形にしたかったのです。
甘酸っぱい大粒のチェリーをたっぷり詰め込み、サクサクのパイ生地で包んだ自信作でした。
学園に到着したわたしは自分の教室へ向かう前に、そのまま真っ直ぐ魔法専科の棟へと足を向けました。
一般の普通科生徒が立ち入ることは滅多にないその場所は、廊下を歩くだけでピリピリとした濃密な魔力の気配が肌を刺します。
行き交う生徒たちの誰もが優秀な魔導士の卵であり、少し歩くだけでひどく場違いなところに来てしまったと足がすくみそうになりました。
六年生用の研究室の前にたどり着き、わたしは勇気を出して、近くを通りかかった男子生徒に声をかけました。
「あの……すみません。レインハルト・イル・ヴァルテンベルク様は、いらっしゃいますでしょうか?」
「えっ? あ、ああ、ちょっと呼んでこようか」
声をかけられた生徒はわたしの普通科の制服を見て、あからさまに怪訝な顔をしました。
周囲にいた他の魔法専科の生徒たちもヒソヒソと囁き合いながら、一斉にこちらへ視線を向けてきます。
『どうして普通科の生徒がこんなところに?』
『しかも、よりによってレインハルト様を呼び出すなんて……』
言葉にしなくともはっきりと伝わってくる、冷ややかで刺すような視線。
身分不相応な行動をしていることは重々承知で、それでもわたしは、ギュッと箱を持つ手に力を込めました。
逃げ出したくなるような空気に耐えていると、不意に研究室の奥から聞き覚えのある涼やかな声が響きました。
「少し騒がしいと思ったら君か。……エリュシオン嬢?」
奥から姿を現したのは、艷やかな黒髪に金色の瞳を持つ、レインハルト様でした。
いつもの制服の上に白衣のような研究着を羽織ったそのお姿も、ため息が出るほど絵になります。
彼はわたしを見つけると、周囲の冷たい視線など全く気にする素振りも見せず、真っ直ぐにこちらへと歩み寄ってきてくださいました。
「足はもういいのかい? わざわざここまで来てくれるなんて」
「は、はい……っ。おかげさまで、すっかり良くなりました。その、本日はどうしてもレインハルト様に、お礼の品をお渡ししたくて……」
わたしは顔から火が出そうになるのを必死に堪えながら、震える手で箱を差し出しました。
彼は少し驚いたように目を見開き、大きな手でそれを受け取ってくださいます。
「これは……甘い匂いがするね」
「ちぇ、チェリーパイです。わたし、お菓子作りしか取り柄がなくて……。その、お口に合わなかったら申し訳ないのですが、すべて一級品の素材を使ったのです。もしよろしければ……」
たどたどしく言い訳を並べるわたしを、彼はパチリと瞬きをして見つめました。
「君がこれを、作ってくれたのかい?」
「は、はい……。素人の手作りでお恥ずかしいのですが……っ」
「……そうか。ありがとう、とても嬉しいよ」
彼の端正な口元が、ふわりと優しく綻びました。
周囲の生徒たちが、あの貴公子が普通科の女性に向けて笑ったと、信じられないものを見るようにざわめき立ちます。
けれど、わたしの視界にはもう、目の前で優しく微笑む彼しか映っていませんでした。
「ちょうど夜通しの研究で頭が疲れていたところなんだ。君のパイで最高の休憩ができそうだよ」
「ほ、本当ですか……っ? よかったです……」
心臓がバクバクとうるさくて、口から飛び出してしまいそうです。
終始緊張でガチガチになってしまっているわたしとは対照的に、彼はひどく余裕のある態度でわたしの赤い顔を見つめていました。
「足の調子は良くなったのかな? 教室まで送ろうか」
「そ、そんな、ご迷惑はおかけできません! あ、あ、あ、足もほとんど完治しておりますのでっっっ!! お渡しできただけで十分ですので、わたしはこれで失礼いたします!」
これ以上彼と一緒にいたら、恥ずかしさで倒れてしまうかもしれません。
わたしは早口でそうまくしたてると、ひらりと身を翻し、逃げるようにその場を走り去りました。
背後から「廊下は走らないようにね」という彼の優しく甘い声が聞こえ、さらに顔が熱くなってしまいます。
(これは、実らない想い)
(期待してはダメ)
わたしはわたしの居場所に戻らなきゃ――、
そう言い聞かせながら、ナディアの待つ普通科の扉を開けたのでした。
***
それから数日後のこと。
わたしはお父様の執務室へと呼び出されたのです。
「お父様、失礼いたします。お呼びでしょうか?」
「ああ、シャルロット。よく来てくれたね。そこへ座りなさい」
重厚なマホガニーのデスク越しに、お父様は少し改まった表情でわたしを促しました。
何事だろうと首を傾げながら、わたしは来客用のふかふかのソファに腰を下ろします。
お父様はヴァルテンベルク公爵家の紋章が押された美しい蝋封の書状を手に取り、ゆっくりと口を開きました。
「単刀直入に言おう。シャルロット、おまえに婚約の話が来ている」
「……婚約、ですか?」
突然の話にわたしは目を丸くしました。
エリュシオン家は由緒ある家柄ですが、わたし自身にこれまで具体的な縁談が持ち上がったことは一度もなかったからです。
しかしそれでも、いずれは政略結婚をしなければいけないことは分かっていました。
不安げな表情でわたしは父を見上げます。
「お相手は……どなたでしょうか?」
恐る恐る尋ねるわたしに、お父様は満面の笑みを向けました。
「ヴァルテンベルク公爵家のご子息、レインハルト・イル・ヴァルテンベルク殿だ」
「…………えっ?」
頭の中が真っ白になりました。
呼吸の仕方を忘れたように息が止まり、心臓が耳元で早鐘のように鳴り始めます。
どく、どく、どく……。
「レ、レインハルト様……?」
「実はな、彼の父親であるヴァルテンベルク公爵とは王宮内でとても親しくさせてもらっているんだ。お互いの執務室を行き来して、よく酒を酌み交わす仲でね」
「えっ……そうだったのですか?」
「ああ。息子は魔導の才能は王国随一だが研究ばかりで浮いた話が一つもないと、よく公爵がぼやいていたよ。……それで、公爵と食事をした折に君が彼をたいそう慕っているようだと話をしてみたんだ。そうしたらヴァルテンベルク公も『そちらのご令嬢なら、ぜひうちの嫁にもらいたい』と大乗り気になってね」
お父様は嬉しそうに目尻を下げ、手元の書状をトントンと机で叩きました。
「もちろん、レインハルト殿本人にも了承を得ている」
信じられない言葉の連続に、わたしはめまいすら覚えました。
あの、王国最強と謳われる彼が。
雲の上の存在で、遠くから見つめることしか許されないと思っていた麗しの君が。
魔力もない、身分しか差し出せないわたしの婚約者になるなんて。
「あ、あの……夢では、ありませんよね……?」
震える両手で口元を覆うと、熱い涙がポロポロとこぼれ落ちました。
――嬉しい。
信じられないくらい、嬉しいです。
「夢ではないさ。よかったね、シャルロット。誰とも知れない相手に嫁ぐよりは万倍良いだろう」
お父様の優しく温かい声が、静かな執務室に響きました。
憧れの人との婚約。
それは、平凡なわたしに突然舞い降りた、甘くて奇跡のような幸福でした。
まさか自分が彼の隣に立てる日が来るなんて。
この奇跡のような出来事が、やがて学園でどのような波紋を呼ぶのか。
わたしはまだ、そんな過酷な未来を想像することもできず、ただ胸いっぱいに広がる喜びに身を委ねていたのです。
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