第2話:空を飛ぶ公爵令息と、熱の引かない初恋
レインハルト様に肩を貸していただいたまま、わたしは学園の救護室へと運ばれました。
清潔な白いシーツが敷かれたベッドに腰を下ろすと、看護の先生が手際よくわたしの右足首に包帯を巻いてくださいます。
「軽い捻挫ですね。痛み止めの魔法も少し効いているようですし、大事には至らないでしょう。ただ、一、二週間は安静にしてください」
先生の言葉に、わたしはホッと胸を撫で下ろしました。
しかしすぐ隣には、ずっと付き添ってくださっているレインハルト様の姿があります。
「あの、レインハルト様。ここまで付き添っていただいて本当にありがとうございました。あとは迎えの馬車を手配いたしますので、どうぞお戻りになってくださいませ」
慌てて頭を下げるわたしを、彼は静かな金色の瞳で見つめました。
「いや、僕が君を家まで送ろう。捻挫だというし、あまり歩かない方が良いだろうからね」
「えっ……? で、でも、エリュシオンの侯爵邸までは馬車でも少し時間がかかりますし、そんなご迷惑は……」
「迷惑ではないよ。元はといえば僕の友人らが作った魔道具が暴走してしまったんだ。……馬車の揺れは足に響くし。それに、僕の魔法ならすぐだ」
彼はそう言うと、ふわりと微笑みました。
そして、ベッドに座るわたしの前に進み出ると、なんの躊躇いもなく、わたしの膝裏と背中に腕を回したのです。
「ひゃっ……!」
ふわりと体が浮き上がり、気がつけばわたしは彼に軽々と腕の中に抱き上げられておりました。
いわゆる、お姫様抱っこというものです。
「レ、レインハルト様!?」
「暴れないで。落ちてしまうからね」
救護室の窓が、彼の魔力に呼応して音もなく開け放たれます。
夕暮れの冷たい風が室内へと吹き込んできたかと思うと、次の瞬間、わたしたちの体はふわりと宙に浮き上がりました。
「え……っ、空を……飛んで……?」
わたしは驚きのあまり、目を丸くして景色を見下ろしました。
学園の尖塔が、みるみるうちに眼下に小さくなっていきます。
「飛行魔法だよ。まだ調整中だけれど、君ひとりくらいなら問題なく運べる。君の邸の場所を教えて」
淡々とした彼の言葉に、わたしは息を呑みました。
飛行魔法。
それは複雑すぎる術式と莫大な魔力を必要とするため、この王国で唯一、彼だけが扱えると言われている伝説級の魔法です。
そんな途方もない魔法を、ただわたしを家まで送り届けるためだけに使ってくださるなんて。
「怖かったら目を閉じて。僕にしっかり掴まっていて」
そう囁く彼の声は、吹きすさぶ上空の風の音の中でも、驚くほど澄んで鼓膜に届きました。
落とさないようにと、わたしを抱く腕の力がいっそう強くなります。
彼のから漂う、微かな香木の香り。
そして、すぐ目の前にある、彫刻のように整った横顔。
密着した体から伝わる温もりに、わたしの心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、もう足の痛みなど完全に意識から飛んでしまっていました。
オレンジ色に染まる王都の空を、二人きりで飛んでいる。
まるで夢の中にいるような、甘くて、くらくらとするような時間でした。
ほんの十数分の空の旅を経て、わたしたちはエリュシオン侯爵邸の立派な鉄門の前に、音もなく降り立ちました。
「着いたよ。足元、気をつけて」
そっと地面に下ろされ、わたしは名残惜しさを隠すように、慌てて衣服の乱れを整えました。
「あ、ありがとうございます……っ。あんなすごい魔法で送っていただけるなんて、一生の思い出になりました」
頬が熱いのが、夕陽のせいだけではないことは自分でもわかっております。
彼は少しだけ目を見開いた後、柔らかく表情を崩しました。
「喜んでもらえたなら良かった。足、お大事に」
「はい。あの……講堂で助けていただいたこと、本当に、ありがとうございました」
「気にしなくていい。さっきも言ったけれど魔法専科の失態だ。また学園で」
二、三の短い言葉を交わすと、彼は踵を返し、再び風を纏って夕闇の空へと飛び立っていきました。
あっという間に小さくなっていくその背中を、わたしは見えなくなるまでずっと見送っていました。
***
その夜。
わたしは両親と共に夕食のテーブルを囲んでいました。
学園からの急報で講堂の火災事故を知っていた両親は、足に包帯を巻いて帰ってきたわたしを見て、ひどく肝を冷やしたようです。
「足の具合はどうだい、シャルロット」
食後の紅茶を飲みながら、心配そうに眉を下げるお父様に、わたしは微笑んで頷きました。
「だいぶ痛みが引きましたわ、お父様。一、二週間は安静にするようにと言われましたが、ご心配をおかけして申し訳ありません」
「いや、無事で本当に良かった。あのような大事故に巻き込まれたと聞いた時は、私たちも生きた心地がしなかったからね」
お母様も隣で安堵の溜息をつき、目元をハンカチで拭っています。
温かい家族の気遣いに胸が熱くなると同時に、わたしはどうしても、今日あった信じられない出来事を口にせずにはいられませんでした。
「お父様、お母様。実はわたし、ヴァルテンベルク公爵家のご子息、レインハルト様に助けていただいたのです」
ティーカップをソーサーに置き、わたしは真っ直ぐにお父様を見つめました。
「ほう、ヴァルテンベルク公爵の息子殿が?」
「ええ。逃げ遅れてパニックに陥るわたしを、素晴らしい氷の魔法で炎から庇ってくださいました。あの方がいらっしゃらなければ、わたしは今頃大火傷を負っていたかもしれません」
思い出すだけで、熱を帯びた声が自分でも抑えきれずに溢れ出します。
「とても凛々しくて、素敵でしたわ。パニックに陥る生徒たちの中でも、あの方だけは冷静で、まるでおとぎ話の騎士様のように立派でいらして……。それに、歩けないわたしを抱き上げて、彼の飛行魔法でこの屋敷の前まで送ってくださったのです」
気がつけば、わたしはレインハルト様がいかに素晴らしかったかを、我を忘れて夢中で語っていました。
彼の魔法の軌跡がいかに美しかったか。
耳元で囁かれた声が、どれほど安心感を与えてくれたか。
空を飛んだ時の、大きくて温かい腕の感触。
はっと我に返り、淑女らしからぬ饒舌さを恥じて俯いた時でした。
お父様とお母様は顔を見合わせ、何やら意味ありげな微笑みを浮かべていたのです。
「あの……お父様?」
「いや、シャルロットがあれほど熱心に同世代の殿方を褒めちぎるのは珍しいと思ってね。なるほど、ヴァルテンベルク公爵のところのレインハルト殿か」
お父様は顎に手を当て、うんうんと何度深く頷きました。
お父様の目が、ひどく優しく、そしてどこか企むように細められたことに。
恋の熱にすっかり当てられていたこの時のわたしは、まだ気づいていませんでした。
夕食を終えて自室に戻ったわたしは、侍女に手伝ってもらいながら寝間着に着替えると、逃げ込むようにふかふかのベッドへと潜り込みました。
部屋の明かりが落とされ、一人きりの静かな夜が訪れます。
……けれど、先ほどからまったく眠れる気がいたしません。
暗闇の中で目を閉じると、空を飛んだ時のあの大きくて温かい腕の感触や、至近距離にあった彼の整った横顔が、鮮明にフラッシュバックしてくるのです。
「あ~~、もうっ!」
わたしは堪えきれず、枕に顔を押し付けてバタバタと両足を暴れさせました。
「わたしったら、バカバカバカバカッ!」
ボフボフと枕を叩きながら、今日一日の自分の失態を思い返しては悶え苦しみます。
思い返せば、レインハルト様に対してずっと間抜けな姿しか見せておりません。
「なんで、あんなに変な声出しちゃったのよ……っ」
抱き上げられた瞬間の「ひゃっ」という情けない声。
炎の講堂を出る時の「ひゃい」という間の抜けた返事。
彼がくすくすと笑っていたのを思い出して、顔から火が出そうです。
「もっとこう、可憐に『きゃっ』とか、淑女らしく『まあ』とか、可愛く反応できなかったの!? ひゃい、って何ですの、ひゃいって……!」
ベッドの上でごろんごろんと転がり回ります。
空を飛んでいる間も、緊張のあまり彼に縋り付いてガチガチに固まっていたし。
別れ際も気の利いたお礼の一つも言えませんでした。
「きっとレインハルト様に『変な声で鳴く、重たくてガチガチの女だ』って思われたわ……。どうしましょう、絶対に呆れられてる……!」
あんなに素敵で完璧な方に、一生の恥を晒してしまった。
そう思うと、もう明日から学園で彼の顔を直視できる自信がありません。
「あーん、神様、時間を今日の午後に戻してえええ……っ!」
誰にも聞こえない一人舞台の悲鳴を上げながら、わたしは再び枕に顔を埋めました。
足の捻挫のことなどすっかり忘れ、初恋の熱と羞恥心に浮かされながら。
わたしの長くて騒がしい夜は更けていったのです。
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