第八話 閾値:装置には触れなかった。ただ、夢の中では行っていた。
装置には触れなかった。ただ、夢の中では行っていた。
三日後、大学から通知が来た。
研究倫理委員会からだった。被験者が研究者本人である点、安全管理体制の不備、データ開示の不足。文書は丁寧だった。要するに、止まれ、と書いてあった。
夏生は一度読んで、机の引き出しに入れた。
父の論文の上に置いた。
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村瀬が来た。
「委員会から連絡来ましたか」
「来た」
「先生」
「わかってる」
村瀬は何か言おうとして、やめた。テーブルの上のノートを見た。ノートは開いていた。今日の日付があった。その下は空白だった。
「装置、触りましたか」
「いいや」
それは本当だった。
村瀬が帰った。
夏生はノートの空白を見た。
長い時間、見た。
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夜になった。
ハルが装置の椅子に乗った。
珍しかった。いつもは近づかなかった。
夏生はハルを見た。ハルは椅子の上で丸くなった。目を閉じた。
夏生は立ち上がった。
装置に近づいた。ハルをどかそうとした。
ハルは動かなかった。目を開けた。夏生を見た。
夏生はハルを見た。
少しの間、そうしていた。
椅子の横に、もう一つ椅子を引いた。座った。
装置は触らなかった。
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明け方近くに、眠った。
夢を見た。
土の中だった。通路があった。匂いがあった。体が動いた。
夢の中で、夏生は人間だった。アリの体ではなかった。人間の体で、土の中を歩いていた。
天井が低かった。肩が壁に当たった。それでも進んだ。
解体室があった。
中を見た。
一匹が壁に押しつけられていた。
顔があった。
人間の顔だった。
目が合った。
助けを求めていなかった。
ただ、見ていた。
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目が覚めた。
朝だった。研究室の床で眠っていた。椅子から落ちていた。
ハルはいなかった。
装置の椅子が空だった。
夏生は起き上がった。
体中が痛かった。それだけだった。
ノートを開いた。
昨日の空白の下に書いた。
《夢。土。人間の顔。》
次の行。
《止まっていない。眠っている間も。》
ペンを置いた。
装置を見た。
触らなかった。
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昼に村瀬から連絡が来た。
「今日、行きます」
夏生は返信しなかった。
一時間後、村瀬が来た。
夏生の顔を見て、何も言わなかった。床に落ちた跡を見た。椅子が中途半端な場所にあるのを見た。
「眠れましたか」
「少し」
「どこで」
「ここで」
村瀬はしばらく黙った。
「先生、一つだけ聞かせてください」
「何」
「今、やめたら、先生はどうなりますか」
夏生は窓の外を見た。
中庭に学生がいた。歩いていた。どこかへ向かっていた。
「わからない」と言った。
嘘ではなかった。
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夕方、委員会に返答を書いた。
再開のための条件を確認する、と書いた。
手順を踏む、と書いた。
送信した。
村瀬にも転送した。
村瀬からすぐ返信が来た。
「ありがとうございます」
それだけだった。
夏生はノートを開いた。
今日の日付の下に書いた。
《七回目、未遂。》
未遂、という言葉を少し見た。
正確かどうか、考えた。
装置には触れなかった。
ただ、夢の中では行っていた。
どちらが正確か、判断できなかった。
ハルが来て、膝に乗った。
前回は足元だった。
また戻った。
夏生はハルの背中に手を置いた。
温かかった。
それだけを、少しの間、確かめた。
倫理委員会の通知、ハルが椅子を占領した夜、夢の中の解体室。
七回目は、未遂と書いた。
正確かどうか、判断できなかった。




