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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第七話 監視:夏生の顔から、その人の輪郭が消えていた。

夏生の顔から、その人の輪郭が消えていた。

 モニターに数字が並んでいた。

 心拍、体温、皮膚電気反応、脳波の簡易指標。村瀬はそれを見ていた。夏生の体は椅子の上で動かなかった。


 最初の三十分は正常だった。

 心拍が少し低かった。緊張ではなく、慣れだと村瀬は思った。五回目の人間が慣れていく速度としては、早すぎる気もしたが、データの範囲内だった。


 三十四分で、脳波が変わった。


---


 変わった、というより、落ち着いた。

 村瀬はその変化を見て、最初は安定したと思った。

 違うと気づいたのは、一分後だった。


 人間が集中しているときの波形ではなかった。

 人間が何かに同調しているときの波形だった。

 村瀬には区別する言葉がなかった。ただ、見たことがない形だと思った。論文でも、教科書でも、見たことがなかった。


 メモに書いた。時刻と数値だけ。

 書きながら、モニターから目を離さなかった。


---


 四十一分で、皮膚電気が上がった。

 上がり方が第三回に似ていた。解体室のときだ、と村瀬は思った。

 指がキーボードに乗った。


 心拍は安定していた。

 体温は平常。

 脳波は、さっきの波形のまま。


 村瀬は切らなかった。

 数字が範囲内だったから、ではなかった。

 切ったとき、夏生が何を失うかを、考えてしまったからだった。


---


 五十分を過ぎたころ、夏生の手が動いた。

 椅子の肘掛けを、指先が叩いた。規則的に。一定のリズムで。

 止まった。また叩いた。止まった。


 村瀬はその動きを見た。

 アリが触角を動かすときのリズムに似ていた。

 第二回の潜入映像を、村瀬は何度か見ていた。だから知っていた。


 「先生」と声に出しかけた。

 やめた。

 潜入中に外から声をかけることの影響が、まだわかっていなかった。


 メモに書いた。《五十分経過。手指の無意識運動。触角様リズム。》

 書いてから、その文字を見た。

 消さなかった。


---


 六十分で、村瀬は切ることを決めた。

 数字が崩れたからではなかった。

 夏生の顔が、変わっていたからだった。


 筋肉が弛緩していた。目は閉じていた。口が少し開いていた。それだけなら眠っているように見えた。

 違ったのは、表情だった。

 表情がなかった。

 人が眠るとき、顔には何かが残る。力が抜けても、その人の輪郭が残る。

 夏生の顔に、それがなかった。


 村瀬は切った。


---


 夏生が戻ってきた。

 目を開けた。天井を見た。ゆっくりと息を吐いた。


 村瀬は何も言わなかった。

 夏生が村瀬を見た。

「切ったのか」

「はい」

「何分だ」

「六十分です」

 夏生はそれ以上聞かなかった。ノートに手を伸ばした。


 村瀬は言った。

「先生、五十分過ぎから、手が動いてました」

 夏生の手が止まった。

「どんなふうに」

「叩いてました。一定のリズムで」

 夏生は自分の手を見た。右手の人差し指と中指を、交互に見た。

「そうか」

「先生」

「何」

「自分では、気づいてましたか」

 夏生は少し考えた。

「いいや」


---


 村瀬が帰る前に、ドアのところで振り返った。

「先生、一つ聞いていいですか」

「何」

「今、土の匂い、しますか」


 夏生は答えなかった。

 すぐには答えなかった。


「少し」と言った。


 村瀬はうなずいた。何もうなずく理由はなかったが、うなずいた。ドアを閉めた。


---


 一人になってから、夏生はノートを開いた。

 今日の日付。

 《第六回。六十分で村瀬が切断。脳波変容、四十分前後。手指運動、自覚なし。》

 次の行。

 《村瀬の判断は正しかった。》

 次の行。

 《続けたかった。》


 ハルが来た。

 膝ではなく、足元に座った。夏生を見上げた。


 夏生はハルを見た。

「何を見ている」


 ハルは答えなかった。

 目を細めた。

 それだけだった。

村瀬は数字ではなく、顔を見て切断を決めた。

続けたかった、とノートに書いた夏生。

監視する側と、される側。

どちらが何を見ていたのか。

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