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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第六話 侵食:目を閉じると、土の匂いがした。

目を閉じると、土の匂いがした。

 村瀬が来たのは午前だった。

 アポなしだった。最近はいつもそうだった。


「先生、第五回のログがないです」

「記録は走らせた」

「バイタルが、ないんです。モニターに繋いでなかったから」

 夏生は何も言わなかった。

「一人で入ったんですか」

「そうだ」

 村瀬はしばらく黙った。窓の外を見た。それから夏生を見た。

「やめてください」

「何を」

「一人で入るのを」


 夏生は村瀬を見た。

 村瀬の目が、何かを計算していた。心配と、怒りと、もう一つ何かが混じっていた。

 役割を果たしている、と夏生は思った。

 思ってから、少し止まった。


「わかった」と言った。

 村瀬は信じていない顔をした。正しかった。


---


 昼、学食に行った。久しぶりだった。

 混んでいた。トレーを持った学生が列をなしていた。


 夏生は列に並んだ。

 前の学生が動いた。夏生も動いた。前が止まった。夏生も止まった。

 列が流れた。全員が同じ速度で動いた。


 気づいたとき、トレーを持っていた。定食が乗っていた。いつ取ったか、覚えていなかった。

 席を探した。空いている席へ、体が向かった。


 座ってから、手が止まった。

 箸を持っていた。持った覚えがなかった。


 食べた。味はわかった。わかったが、記録する前に次の一口が来た。

 食べ終わった。トレーを返した。外に出た。


 どこかへ向かっている自分がいた。研究室へ戻る道だった。

 なぜその道を歩いているのか、考えた。

 匂いだった。

 研究室の匂いを、体が知っていた。


 夏生は立ち止まった。

 学生が横を通り過ぎた。誰も止まらなかった。


---


 研究室に戻ってノートを開いた。

 書いた。

 《地上での行動、匂い誘導の可能性。列への同調、無意識の座席選択、帰路の自動化。》

 ペンが止まった。

 《人間のコロニーか。》


 書いてから、少し見た。

 消さなかった。


---


 夕方、村瀬からメッセージが来た。

「次の潜入、第六回、私も立ち会います。日程決まったら教えてください」


 夏生は返信しなかった。

 しばらくしてから、書いた。

「明日」

 送ってから、適切だったか考えた。

 考えながら、装置の電極を磨いていた。手が動いていた。


---


 夜、眠れなかった。

 眠れない、というより、眠る理由がなかった。


 暗い部屋でハルが動いた。

 窓の外を見ていた。何かを追っていた。虫か、影か、夏生には見えなかった。

 ハルの耳が動いた。何かを聞いていた。夏生には聞こえなかった。


 ハルが振り返った。夏生を見た。

 夏生を見てから、また窓の外を見た。


 夏生は天井を見た。

 《では誰が支配しているのか。》とノートに書いた問いを思い出した。


 答えは出なかった。

 ただ、問いが変わっていた。

 誰が、ではなく、何が。

 何が、ではなく、そもそも。

 そもそも、支配という言葉が正しいのか。


 働きアリは支配されていない。

 命じられてもいない。

 匂いがあって、体が動く。

 それだけだ。


 夏生は目を閉じた。

 土の匂いがした。

 目を閉じたから、したのか。

 目を閉じる前から、していたのか。

 確かめる前に、朝になった。


---


 村瀬が来た。

 夏生はすでに装置の前に座っていた。


「おはようございます」

 村瀬は夏生の顔を見た。何かを言おうとして、やめた。モニターの接続を確認し始めた。


「先生」

「何」

「昨日、眠りましたか」

「少し」

 村瀬は何も言わなかった。

「始めよう」と夏生は言った。

 村瀬はモニターから目を離さなかった。

「バイタル、繋ぎました」

「ありがとう」


 夏生がヘルメットを被った。

 村瀬が最終確認をした。指がキーボードの上にあった。いつでも切れる態勢だった。


「いつでもいいです」と村瀬は言った。

 夏生は何も言わなかった。

 スイッチを入れた。

学食の列、無意識の帰路、眠れない夜。

地上に戻っても、何かが夏生の中に残っていた。

匂いがあって、体が動く。

それだけのことが、問いを変えていく。

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