第五話 女王:動けなかった。支配しているのではなく、されていた。
匂いを、知っていた。
明後日、と返信したのに、翌日に装置の前に座った。
村瀬には連絡しなかった。バイタルの監視なし。記録だけ走らせた。
ハルが椅子の横に来た。
夏生はハルを見た。ハルは何も言わなかった。
ヘルメットを被った。
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土の中に入った瞬間、わかった。
匂いを、知っていた。
前回まではゼロから認識していた。饐えた、甘い、層をなす、人間の言語に対応しない。今回は違った。体が先に知っていた。懐かしい、という感覚に近かった。懐かしい、という言葉が正確かどうかはわからなかった。
通路を進んだ。分岐の兵アリが触角を伸ばした。一秒。
通った。
幼虫室を抜けた。解体室の前を通った。
今日は静かだった。中を見なかった。
女王室の手前まで来た。
前回はここで止まっていた。今日は止まらなかった。体が止まらなかった。
扉はなかった。通路が広くなっていた。それだけだった。
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女王がいた。
大きかった。働きアリの四倍か、五倍か。腹部が膨らんでいた。膨らみ続けているのか、すでに限界なのか、判断できなかった。
動いていなかった。
動けなかった。
腹部が大きすぎて、脚が床に届いていなかった。自分の体重を自分で支えられなかった。周囲の個体が支えていた。絶えず、交代しながら、支えていた。
卵が出ていた。
女王の体から、一定の間隔で卵が出た。別の個体がすぐに受け取った。運んだ。また出た。また受け取られた。
女王は何もしていなかった。
されていた。
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夏生は動けなかった。
前回の解体室と同じだった。体が動けなかったのではなかった。見ていた。
女王の触角が動いた。
ゆっくりと、規則的に。何かを読んでいるのか、ただ動いているのかわからなかった。目があった。複眼が、暗い部屋の中で光を反射していた。
見ていた。
何を見ていたのかは、わからなかった。
周囲の個体が動き続けた。卵を運び、女王を支え、部屋を清潔に保った。誰も止まらなかった。女王だけが止まっていた。止まらざるを得なかった。
支配していなかった。
されていた。
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どのくらいそこにいたか、わからなかった。
匂いに変化があった。周囲の個体の動きが速くなった。夏生の体が反応した。出るべきだ、という信号だった。理由はわからなかった。
通路を戻った。
解体室の前を通ったとき、今度は見た。
空だった。誰もいなかった。床に何かの痕跡があった。それだけだった。
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装置を切った。
研究室の蛍光灯が遠かった。天井が遠かった。自分の体が重すぎた。毎回そう感じたが、今回は少し違った。
重いのではなかった。
大きすぎた。
ハルが膝に乗った。
夏生はハルの背中に手を置いた。温かかった。毛があった。爪があった。目があった。
ハルが夏生を見た。
「お前は何をしてるんだ」
声に出た。自分でも驚いた。
ハルは答えなかった。目を細めた。それだけだった。
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ノートを開いた。
今日の日付を書いた。
長い時間、その下に何も書けなかった。
書いた。
《女王、自力移動不可。産卵以外の機能、停止。》
次の行。
《支配者ではない。》
次の行。
《では誰が支配しているのか。》
ペンを置いた。
村瀬に連絡しなかったことを、少し考えた。
次回から連絡する、とは思わなかった。
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父の論文の最後の章に、こんな記述があった。
「女王アリは繁殖機能に特化した結果、コロニーへの依存度が最も高い個体となる。女王なくしてコロニーは存続できないが、女王もまたコロニーなくして生存できない」
夏生は中学生のとき、そこに赤線を引いた記憶があった。
なぜ引いたのかは、覚えていなかった。
今日、少しわかった気がした。
気がした、どまりだった。
女王は動けない。
コロニーの中心にいながら、誰よりも不自由だった。
支配とは何か、と父の論文を思い出す夏生。
気がした、どまりだった。




