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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第五話 女王:動けなかった。支配しているのではなく、されていた。

匂いを、知っていた。

 明後日、と返信したのに、翌日に装置の前に座った。

 村瀬には連絡しなかった。バイタルの監視なし。記録だけ走らせた。


 ハルが椅子の横に来た。

 夏生はハルを見た。ハルは何も言わなかった。

 ヘルメットを被った。


---


 土の中に入った瞬間、わかった。

 匂いを、知っていた。


 前回まではゼロから認識していた。饐えた、甘い、層をなす、人間の言語に対応しない。今回は違った。体が先に知っていた。懐かしい、という感覚に近かった。懐かしい、という言葉が正確かどうかはわからなかった。


 通路を進んだ。分岐の兵アリが触角を伸ばした。一秒。

 通った。


 幼虫室を抜けた。解体室の前を通った。

 今日は静かだった。中を見なかった。


 女王室の手前まで来た。

 前回はここで止まっていた。今日は止まらなかった。体が止まらなかった。


 扉はなかった。通路が広くなっていた。それだけだった。


---


 女王がいた。


 大きかった。働きアリの四倍か、五倍か。腹部が膨らんでいた。膨らみ続けているのか、すでに限界なのか、判断できなかった。

 動いていなかった。

 動けなかった。


 腹部が大きすぎて、脚が床に届いていなかった。自分の体重を自分で支えられなかった。周囲の個体が支えていた。絶えず、交代しながら、支えていた。


 卵が出ていた。

 女王の体から、一定の間隔で卵が出た。別の個体がすぐに受け取った。運んだ。また出た。また受け取られた。

 女王は何もしていなかった。

 されていた。


---


 夏生は動けなかった。

 前回の解体室と同じだった。体が動けなかったのではなかった。見ていた。


 女王の触角が動いた。

 ゆっくりと、規則的に。何かを読んでいるのか、ただ動いているのかわからなかった。目があった。複眼が、暗い部屋の中で光を反射していた。

 見ていた。

 何を見ていたのかは、わからなかった。


 周囲の個体が動き続けた。卵を運び、女王を支え、部屋を清潔に保った。誰も止まらなかった。女王だけが止まっていた。止まらざるを得なかった。


 支配していなかった。

 されていた。


---


 どのくらいそこにいたか、わからなかった。

 匂いに変化があった。周囲の個体の動きが速くなった。夏生の体が反応した。出るべきだ、という信号だった。理由はわからなかった。


 通路を戻った。

 解体室の前を通ったとき、今度は見た。

 空だった。誰もいなかった。床に何かの痕跡があった。それだけだった。


---


 装置を切った。


 研究室の蛍光灯が遠かった。天井が遠かった。自分の体が重すぎた。毎回そう感じたが、今回は少し違った。

 重いのではなかった。

 大きすぎた。


 ハルが膝に乗った。

 夏生はハルの背中に手を置いた。温かかった。毛があった。爪があった。目があった。

 ハルが夏生を見た。


「お前は何をしてるんだ」


 声に出た。自分でも驚いた。

 ハルは答えなかった。目を細めた。それだけだった。


---


 ノートを開いた。

 今日の日付を書いた。

 長い時間、その下に何も書けなかった。


 書いた。

 《女王、自力移動不可。産卵以外の機能、停止。》

 次の行。

 《支配者ではない。》

 次の行。

 《では誰が支配しているのか。》


 ペンを置いた。


 村瀬に連絡しなかったことを、少し考えた。

 次回から連絡する、とは思わなかった。


---


 父の論文の最後の章に、こんな記述があった。

 「女王アリは繁殖機能に特化した結果、コロニーへの依存度が最も高い個体となる。女王なくしてコロニーは存続できないが、女王もまたコロニーなくして生存できない」


 夏生は中学生のとき、そこに赤線を引いた記憶があった。

 なぜ引いたのかは、覚えていなかった。

 今日、少しわかった気がした。

 気がした、どまりだった。

女王は動けない。

コロニーの中心にいながら、誰よりも不自由だった。

支配とは何か、と父の論文を思い出す夏生。

気がした、どまりだった。

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