第四話 地上:人間の体に戻っているのに、匂いが残っていた。
潜入の翌々日。
助手の村瀬が来て、データを見せた。
村瀬が研究室に来たのは、翌々日だった。
ノックして、返事を待たずに入った。以前はノックしてから待っていた。
「先生、飯食いましたか」
「食べた」
「いつ」
夏生は答えなかった。
村瀬は机の上を見た。コンビニの袋が二つ、口が閉じたままだった。
「昨日の分ですね」
「今日食べる」
「今日も同じこと言ってました、昨日」
村瀬は袋を開けて、サンドイッチを夏生の手元に置いた。夏生は見たが、食べなかった。
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村瀬は二十六歳で、修士二年だった。
夏生の研究室に来たのは去年の春で、最初の三か月は装置の理屈が信じられないと言っていた。信じられないが面白い、と言っていた。今は何も言わなかった。
「バイタルのログ、整理しました」
村瀬がノートパソコンを開いた。「第三回潜入、離脱十七分前からです」
画面にグラフが出た。心拍、体温、皮膚電気反応。
「ここです」
村瀬が一点を指した。「解体室に入った直後。心拍が跳ねてます。でもその後が変で」
「変」
「落ちすぎてます。興奮じゃなくて、なんか、固まった感じ」
夏生はグラフを見た。
「それから解体係に触られた瞬間、ここ」
村瀬がまた指した。「心拍じゃなくて、皮膚電気だけが上がってます」
「恐怖だ」
「そうなんですけど」村瀬は少し間を置いた。「意識より先に出てます。コンマ四秒」
夏生は何も言わなかった。
「コンマ四秒って、結構大きいですよ。普通の驚愕反応はコンマ二です」
「わかってる」
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村瀬がパソコンを閉じた。
ハルが村瀬の足元に来た。村瀬は少し驚いた顔をした。
「この猫、まだいるんですね」
「追い出してない」
「名前は」
「ハル」
「先生がつけたんですか」
「気づいたらそう呼んでた」
村瀬はハルを見た。ハルは村瀬を見なかった。夏生を見ていた。
「先生」
「何」
「第三回のとき、解体係に触られた後、先生の体が動いたじゃないですか。逃げた」
「そうだ」
「あれ、先生が動かしたんですか。それとも」
夏生は少し考えた。
「わからない」
村瀬は何も言わなかった。
「アリの体が動いた。私の意志かどうかは、区別できなかった」
「それ、怖くないですか」
夏生はサンドイッチを手に取った。袋を開けた。
「怖い、と思う前に動いてた」
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村瀬が帰った後、夏生は窓の外を見た。
大学の中庭だった。学生が何人か歩いていた。
夏生はしばらく見ていた。
歩いている。
それだけだった。どこかへ向かっている。なぜその方向へ向かっているのか、本人たちは知っているだろうか。知っていると思っているだろうか。
夏生は目を離した。
ノートを開いた。第三回の空白のページ。《〇・三パーセントのずれ。たぶん問題なかった。》の下に、今日の日付を書いた。
少し考えてから、一行書いた。
《コンマ四秒。意識より先。》
ペンを置いた。
ハルが机に跳び上がった。ノートの上に座った。
夏生はハルをどかさなかった。
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夜、シャワーを浴びながら、匂いのことを考えた。
土の中の匂い。層をなす匂い。人間の言語に対応する言葉がない、と第一回のノートに書いた。
今もそれは正確だった。
ただ、思い出せた。
目を閉じると、通路の匂いが戻ってきた。幼虫室の甘い重さが戻ってきた。解体室の、別の何かが混じった匂いが戻ってきた。
人間の体に戻っているのに、匂いが残っていた。
夏生はシャワーを止めた。
しばらく立っていた。
残っているのは記憶なのか、それとも別の何かなのか、確かめる方法がなかった。
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翌朝、村瀬からメッセージが来た。
「次の潜入、いつにしますか」
夏生はすぐ返信した。
「明後日」
送ってから、サンドイッチの残りを食べた。
冷たかった。それだけだった。
《コンマ四秒。意識より先。》
人間の体に戻っても、匂いが残っていた。
次の潜入は、明後日に決まりました。




