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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第四話 地上:人間の体に戻っているのに、匂いが残っていた。

潜入の翌々日。

助手の村瀬が来て、データを見せた。

 村瀬が研究室に来たのは、翌々日だった。

 ノックして、返事を待たずに入った。以前はノックしてから待っていた。


「先生、飯食いましたか」

「食べた」

「いつ」

 夏生は答えなかった。

 村瀬は机の上を見た。コンビニの袋が二つ、口が閉じたままだった。


「昨日の分ですね」

「今日食べる」

「今日も同じこと言ってました、昨日」


 村瀬は袋を開けて、サンドイッチを夏生の手元に置いた。夏生は見たが、食べなかった。


---


 村瀬は二十六歳で、修士二年だった。

 夏生の研究室に来たのは去年の春で、最初の三か月は装置の理屈が信じられないと言っていた。信じられないが面白い、と言っていた。今は何も言わなかった。


「バイタルのログ、整理しました」

 村瀬がノートパソコンを開いた。「第三回潜入、離脱十七分前からです」

 画面にグラフが出た。心拍、体温、皮膚電気反応。

「ここです」

 村瀬が一点を指した。「解体室に入った直後。心拍が跳ねてます。でもその後が変で」

「変」

「落ちすぎてます。興奮じゃなくて、なんか、固まった感じ」

 夏生はグラフを見た。

「それから解体係に触られた瞬間、ここ」

 村瀬がまた指した。「心拍じゃなくて、皮膚電気だけが上がってます」

「恐怖だ」

「そうなんですけど」村瀬は少し間を置いた。「意識より先に出てます。コンマ四秒」

 夏生は何も言わなかった。

「コンマ四秒って、結構大きいですよ。普通の驚愕反応はコンマ二です」

「わかってる」


---


 村瀬がパソコンを閉じた。

 ハルが村瀬の足元に来た。村瀬は少し驚いた顔をした。

「この猫、まだいるんですね」

「追い出してない」

「名前は」

「ハル」

「先生がつけたんですか」

「気づいたらそう呼んでた」


 村瀬はハルを見た。ハルは村瀬を見なかった。夏生を見ていた。


「先生」

「何」

「第三回のとき、解体係に触られた後、先生の体が動いたじゃないですか。逃げた」

「そうだ」

「あれ、先生が動かしたんですか。それとも」

 夏生は少し考えた。

「わからない」

 村瀬は何も言わなかった。

「アリの体が動いた。私の意志かどうかは、区別できなかった」

「それ、怖くないですか」

 夏生はサンドイッチを手に取った。袋を開けた。

「怖い、と思う前に動いてた」


---


 村瀬が帰った後、夏生は窓の外を見た。

 大学の中庭だった。学生が何人か歩いていた。

 夏生はしばらく見ていた。


 歩いている。

 それだけだった。どこかへ向かっている。なぜその方向へ向かっているのか、本人たちは知っているだろうか。知っていると思っているだろうか。


 夏生は目を離した。


 ノートを開いた。第三回の空白のページ。《〇・三パーセントのずれ。たぶん問題なかった。》の下に、今日の日付を書いた。

 少し考えてから、一行書いた。

 《コンマ四秒。意識より先。》


 ペンを置いた。

 ハルが机に跳び上がった。ノートの上に座った。

 夏生はハルをどかさなかった。


---


 夜、シャワーを浴びながら、匂いのことを考えた。

 土の中の匂い。層をなす匂い。人間の言語に対応する言葉がない、と第一回のノートに書いた。

 今もそれは正確だった。

 ただ、思い出せた。

 目を閉じると、通路の匂いが戻ってきた。幼虫室の甘い重さが戻ってきた。解体室の、別の何かが混じった匂いが戻ってきた。


 人間の体に戻っているのに、匂いが残っていた。


 夏生はシャワーを止めた。

 しばらく立っていた。


 残っているのは記憶なのか、それとも別の何かなのか、確かめる方法がなかった。


---


 翌朝、村瀬からメッセージが来た。

「次の潜入、いつにしますか」


 夏生はすぐ返信した。

「明後日」


 送ってから、サンドイッチの残りを食べた。

 冷たかった。それだけだった。

《コンマ四秒。意識より先。》

人間の体に戻っても、匂いが残っていた。

次の潜入は、明後日に決まりました。

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