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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第三十六話 最後の潜入:変わらないことが、今日は、正しかった。

変わらないことが、今日は、正しかった。

 当日の朝、村瀬が早く来た。

 何も言わなかった。モニターの接続を確認した。電極を確認した。記録装置を確認した。

 全部、正確だった。


 夏生はヘルメットを手に取った。

 重さを知っていた。

 被った。


「バイタル、繋ぎました」と村瀬は言った。

「ありがとう」

「先生」

「何」

「戻ってきてください」

 夏生は村瀬を見た。

 村瀬は夏生を見ていた。

「そうする」と夏生は言った。


 スイッチを入れた。


---


 土の中に入った瞬間、体が緩んだ。

 合った。

 久しぶりだったが、久しぶりではなかった。


 匂いを知っていた。

 通路を知っていた。

 壁の感触を知っていた。

 体が、帰ってきたように動いた。


 列には混じらなかった。

 最初から、奥へ向かった。


 兵アリの分岐を通った。触角が来た。一秒。通った。

 幼虫室の前を通った。

 保育係が舐めていた。止まらなかった。

 解体室の前を通った。音があった。見なかった。

 死体保管室の前を通った。乾いた匂いがした。立ち止まらなかった。


 女王室に入った。


---


 女王がいた。


 変わっていなかった。

 腹部が膨らんでいた。脚が床に届いていなかった。周囲の個体が支えていた。卵が出た。受け取られた。また出た。


 夏生は女王の前に立った。


 触角が来なかった。

 女王の触角は動いていた。ただ、夏生の方へは来なかった。

 夏生を読まなかった。


 以前は読んだ。

 今回は読まなかった。


 なぜかは、わからなかった。

 読む必要がなくなったのか。

 読んでも意味がなくなったのか。

 それとも、すでに知っているのか。


 夏生は女王を見た。

 女王は別の方向を見ていた。

 複眼が、暗い部屋の中で光を反射していた。

 夏生ではない何かを、見ていた。


 周囲の個体が動き続けた。

 卵が出続けた。

 部屋が動き続けた。


 夏生だけが、止まっていた。


---


 どのくらいそこにいたか、わからなかった。


 何かが変わった。

 匂いが変わった。

 部屋の匂いの層が、少し動いた。


 別の匂いが来た。

 知っている匂いだった。

 土と、有機物と、その奥にある何か。

 巣全体の匂いだった。


 以前も嗅いだことがあった。

 ただ、今回は届き方が違った。

 外から来ていなかった。

 内側から来ていた。


 夏生は動かなかった。

 体が動かなかったのではなかった。

 動かなかった。


 匂いが広がった。

 通路の匂いが来た。

 幼虫室の甘さが来た。

 解体室の、別の何かが来た。

 死体保管室の乾いた古さが来た。


 全部が、一度に来た。

 一度に来て、重なった。


 夏生は、巣全体を、一度に感じた。

 個体として動いている自分と、巣全体として広がっている何かが、一瞬、重なった。


 一瞬だった。

 それだけだった。


---


 村瀬の声が聞こえた。

「先生」


 遠かった。

 ただ、聞こえた。


 体が動いた。

 通路へ出た。

 来た道を戻った。

 兵アリの分岐を通った。

 地上に出た。

 光がうるさかった。

 装置が切れた。


---


 研究室の天井が見えた。

 夏生は目を開けていた。

 いつ目を開けたか、わからなかった。


「先生」と村瀬が言った。「聞こえますか」

「聞こえる」

 村瀬が息を吐いた。

「何分だ」と夏生は聞いた。

「三十八分です」

「そうか」

「バイタルは正常でした。ただ、二十五分過ぎから脳波が」

「田所に似ていたか」

 村瀬は少し止まった。

「似てました」

「そうか」

「先生、大丈夫ですか」

 夏生はしばらく、天井を見た。

「大丈夫だ」

 嘘ではなかった。


---


 村瀬が帰った後、夏生はノートを開いた。

 今日の日付。

 《最終回。三十八分。女王室。女王、触角を伸ばさず。》

 次の行。

 《巣全体の匂いが、内側から来た。一瞬、重なった。》

 次の行。

 《田所が言った「繋がった」は、これだったかもしれない。》


 三行目を少し見た。

 かもしれない、という言葉を見た。

 正確だった。

 確かではなかった。

 それでよかった。


 次の行を書いた。

 《悲しみの有無、不明。》


 第一回の最後に書いた言葉だった。

 今も、不明だった。

 ずっと、不明だった。


 それだけは変わらなかった。

 それだけは、変えなかった。


---


 ハルが来た。

 膝に乗らなかった。

 窓の方へ歩いた。

 窓の前に座った。

 外を見た。


 夏生はハルを見た。

 ハルは外を見ていた。


 窓の外は、キャンパスだった。

 芝生があった。

 石畳があった。

 その継ぎ目に、土の盛り上がりがあった。


 ハルはその方向を見ていた。

 動かなかった。

 耳が少し動いた。

 何かを聞いていた。


 夏生には聞こえなかった。

 ハルには聞こえているのかもしれなかった。

 わからなかった。


 夏生はノートを閉じた。

 窓の外を見た。

 芝生があった。

 石畳があった。

 巣があった。


 土の匂いがした。

 一だった。

 変わらなかった。


 変わらないことが、今日は、正しかった。

女王は、夏生を読みませんでした。

巣全体の匂いが、内側から来ました。

一瞬だけ、重なりました。

悲しみの有無は、今も不明のままです。

ハルは窓の外の、土の盛り上がりを見ていました。

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