第三十六話 最後の潜入:変わらないことが、今日は、正しかった。
変わらないことが、今日は、正しかった。
当日の朝、村瀬が早く来た。
何も言わなかった。モニターの接続を確認した。電極を確認した。記録装置を確認した。
全部、正確だった。
夏生はヘルメットを手に取った。
重さを知っていた。
被った。
「バイタル、繋ぎました」と村瀬は言った。
「ありがとう」
「先生」
「何」
「戻ってきてください」
夏生は村瀬を見た。
村瀬は夏生を見ていた。
「そうする」と夏生は言った。
スイッチを入れた。
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土の中に入った瞬間、体が緩んだ。
合った。
久しぶりだったが、久しぶりではなかった。
匂いを知っていた。
通路を知っていた。
壁の感触を知っていた。
体が、帰ってきたように動いた。
列には混じらなかった。
最初から、奥へ向かった。
兵アリの分岐を通った。触角が来た。一秒。通った。
幼虫室の前を通った。
保育係が舐めていた。止まらなかった。
解体室の前を通った。音があった。見なかった。
死体保管室の前を通った。乾いた匂いがした。立ち止まらなかった。
女王室に入った。
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女王がいた。
変わっていなかった。
腹部が膨らんでいた。脚が床に届いていなかった。周囲の個体が支えていた。卵が出た。受け取られた。また出た。
夏生は女王の前に立った。
触角が来なかった。
女王の触角は動いていた。ただ、夏生の方へは来なかった。
夏生を読まなかった。
以前は読んだ。
今回は読まなかった。
なぜかは、わからなかった。
読む必要がなくなったのか。
読んでも意味がなくなったのか。
それとも、すでに知っているのか。
夏生は女王を見た。
女王は別の方向を見ていた。
複眼が、暗い部屋の中で光を反射していた。
夏生ではない何かを、見ていた。
周囲の個体が動き続けた。
卵が出続けた。
部屋が動き続けた。
夏生だけが、止まっていた。
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どのくらいそこにいたか、わからなかった。
何かが変わった。
匂いが変わった。
部屋の匂いの層が、少し動いた。
別の匂いが来た。
知っている匂いだった。
土と、有機物と、その奥にある何か。
巣全体の匂いだった。
以前も嗅いだことがあった。
ただ、今回は届き方が違った。
外から来ていなかった。
内側から来ていた。
夏生は動かなかった。
体が動かなかったのではなかった。
動かなかった。
匂いが広がった。
通路の匂いが来た。
幼虫室の甘さが来た。
解体室の、別の何かが来た。
死体保管室の乾いた古さが来た。
全部が、一度に来た。
一度に来て、重なった。
夏生は、巣全体を、一度に感じた。
個体として動いている自分と、巣全体として広がっている何かが、一瞬、重なった。
一瞬だった。
それだけだった。
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村瀬の声が聞こえた。
「先生」
遠かった。
ただ、聞こえた。
体が動いた。
通路へ出た。
来た道を戻った。
兵アリの分岐を通った。
地上に出た。
光がうるさかった。
装置が切れた。
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研究室の天井が見えた。
夏生は目を開けていた。
いつ目を開けたか、わからなかった。
「先生」と村瀬が言った。「聞こえますか」
「聞こえる」
村瀬が息を吐いた。
「何分だ」と夏生は聞いた。
「三十八分です」
「そうか」
「バイタルは正常でした。ただ、二十五分過ぎから脳波が」
「田所に似ていたか」
村瀬は少し止まった。
「似てました」
「そうか」
「先生、大丈夫ですか」
夏生はしばらく、天井を見た。
「大丈夫だ」
嘘ではなかった。
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村瀬が帰った後、夏生はノートを開いた。
今日の日付。
《最終回。三十八分。女王室。女王、触角を伸ばさず。》
次の行。
《巣全体の匂いが、内側から来た。一瞬、重なった。》
次の行。
《田所が言った「繋がった」は、これだったかもしれない。》
三行目を少し見た。
かもしれない、という言葉を見た。
正確だった。
確かではなかった。
それでよかった。
次の行を書いた。
《悲しみの有無、不明。》
第一回の最後に書いた言葉だった。
今も、不明だった。
ずっと、不明だった。
それだけは変わらなかった。
それだけは、変えなかった。
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ハルが来た。
膝に乗らなかった。
窓の方へ歩いた。
窓の前に座った。
外を見た。
夏生はハルを見た。
ハルは外を見ていた。
窓の外は、キャンパスだった。
芝生があった。
石畳があった。
その継ぎ目に、土の盛り上がりがあった。
ハルはその方向を見ていた。
動かなかった。
耳が少し動いた。
何かを聞いていた。
夏生には聞こえなかった。
ハルには聞こえているのかもしれなかった。
わからなかった。
夏生はノートを閉じた。
窓の外を見た。
芝生があった。
石畳があった。
巣があった。
土の匂いがした。
一だった。
変わらなかった。
変わらないことが、今日は、正しかった。
女王は、夏生を読みませんでした。
巣全体の匂いが、内側から来ました。
一瞬だけ、重なりました。
悲しみの有無は、今も不明のままです。
ハルは窓の外の、土の盛り上がりを見ていました。




