第三十七話 不明:それだけで、十分だった。
それだけで、十分だった。
一週間後、三人が集まった。
夏生の研究室だった。
特に理由はなかった。
村瀬が「一度集まりませんか」と言って、田所が来た。
三人で、テーブルを囲んだ。
村瀬がコーヒーを淹れた。
田所がカップを受け取った。
夏生も受け取った。
ハルが来た。
三人の真ん中に座った。
誰の足元でもなかった。
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しばらく、誰も話さなかった。
それでよかった。
田所が先に言った。
「匂いは、まだゼロです」
「そうか」と夏生は言った。
「先生は」
「一だ。変わらない」
村瀬が言った。
「私は三になりました」
「下がったか」と夏生は言った。
「はい。少しずつ」
「夢は」
「まだあります。ただ、毎晩じゃなくなりました」
田所が村瀬を見た。
「夢の中で、触角を伸ばしていますか」
村瀬は少し考えた。
「最近は、伸ばされる前に目が覚めます」
田所はうなずいた。
「それは、戻ってきているんだと思います」
「そうですか」
「そう思います」
村瀬は田所を見た。
「田所さんは、どこから言っているんですか」
「こちら側から」と田所は静かに言った。「ちゃんとこちら側から言っています」
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夏生はコーヒーを飲んだ。
温かかった。
「一つ聞いていいか」と夏生は言った。
「何ですか」と田所は言った。
「お前は、繋がった後、何かが変わったか」
田所は少し考えた。
「変わりました」
「どこが」
「静かになりました。中が」田所は少し間を置いた。「ただ、前より、ここにいる気がします」
「ここにいる」
「はい。前は、ここにいると思っていました。今は、ここにいると知っています」
夏生は何も言わなかった。
村瀬が田所を見た。田所はコーヒーを飲んだ。
「先生は」と村瀬が言った。
「何」
「最終回で、何かが変わりましたか」
夏生は少し考えた。
「一瞬、重なった」
「重なった」
「巣全体と。一瞬だけ」
「怖かったですか」
「いいや」
「よかったですか」
夏生は少し考えた。
「わからない。ただ、正しかった気がした」
村瀬はうなずいた。
「先生らしいです」とまた言った。
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ハルが動いた。
テーブルの真ん中から、窓の方へ歩いた。
窓の前に座った。
外を見た。
三人がハルを見た。
芝生があった。石畳があった。継ぎ目に、土の盛り上がりがあった。
ハルはその方向を、じっと見ていた。
耳が動いた。
田所がハルを見た。
何かを言おうとした。
言わなかった。
村瀬がハルを見た。
夏生を見た。
夏生はハルを見ていた。
誰も何も言わなかった。
それでよかった。
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田所が帰った。
ドアの前で振り返った。
「先生、論文、楽しみにしています」
「時間がかかる」
「待ちます」田所は少し笑った。「私のデータも入るんですよね」
「当然だ」
田所はうなずいた。
「また来ていいですか」
「来い」
田所は出て行った。
村瀬が残った。
片付けをした。カップを洗った。テーブルを拭いた。
いつの間にか、そういうことをするようになっていた。
「先生」と村瀬は言った。
「何」
「研究、終わりましたか」
夏生は少し考えた。
「終わっていない」
「続けますか」
「記録がある。まだ書いていないことがある」
「潜入は」
「わからない」
村瀬はうなずいた。
「わからないなら、まだ続くかもしれませんね」
「そうかもしれない」
村瀬はコートを取った。
「先生、一つだけ」
「何」
「この研究、意味がありましたか」
夏生はしばらく考えた。
「わからない」
「わからないですか」
「ただ」と夏生は言った。「お前が来た。田所が来た。ハルがいる。それは変わらない」
村瀬は何も言わなかった。
少し、目が動いた。
「また来ます」と言った。
「来い」
ドアが閉まった。
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一人になった。
夏生はノートを開いた。
今日の日付を書いた。
《三人、集まった。田所、ゼロ継続。村瀬、三。夏生、一。》
数字を並べた。
ゼロ、三、一。
どれが正しいのか、どれが終わりなのか、わからなかった。
わからないまま、書いた。
次の行。
《ハル、窓の外の巣を見た。三人が見た。誰も何も言わなかった。》
その行を少し見た。
ハルが何を見ていたのか、まだわからなかった。
聞こえていたのかどうかも、わからなかった。
三年間、ここにいて、何を知っているのかも、わからなかった。
わからないままにしておくことが、正しい気がした。
正しい、という言葉が正確かどうかも、わからなかった。
最後の行を書いた。
《悲しみの有無、不明。》
ペンを置いた。
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ハルが来た。
窓から離れた。
夏生の膝に来た。
乗った。
夏生はハルを見た。
ハルは夏生を見た。
いつもの目だった。
土の匂いがした。
一だった。
夏生はハルの背中に手を置いた。
温かかった。
生きていた。
窓の外に、巣があった。
今も、動いていた。
誰も見ていなくても、動いていた。
見ていても、動いていた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
三人は、それぞれの場所にいます。
悲しみの有無は、不明のままです。
窓の外では、巣が動いていました。
ハルは夏生の膝の上にいました。




