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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第三十七話 不明:それだけで、十分だった。

それだけで、十分だった。

 一週間後、三人が集まった。

 夏生の研究室だった。

 特に理由はなかった。

 村瀬が「一度集まりませんか」と言って、田所が来た。


 三人で、テーブルを囲んだ。

 村瀬がコーヒーを淹れた。

 田所がカップを受け取った。

 夏生も受け取った。


 ハルが来た。

 三人の真ん中に座った。

 誰の足元でもなかった。


---


 しばらく、誰も話さなかった。

 それでよかった。


 田所が先に言った。

「匂いは、まだゼロです」

「そうか」と夏生は言った。

「先生は」

「一だ。変わらない」

 村瀬が言った。

「私は三になりました」

「下がったか」と夏生は言った。

「はい。少しずつ」

「夢は」

「まだあります。ただ、毎晩じゃなくなりました」

 田所が村瀬を見た。

「夢の中で、触角を伸ばしていますか」

 村瀬は少し考えた。

「最近は、伸ばされる前に目が覚めます」

 田所はうなずいた。

「それは、戻ってきているんだと思います」

「そうですか」

「そう思います」

 村瀬は田所を見た。

「田所さんは、どこから言っているんですか」

「こちら側から」と田所は静かに言った。「ちゃんとこちら側から言っています」


---


 夏生はコーヒーを飲んだ。

 温かかった。


「一つ聞いていいか」と夏生は言った。

「何ですか」と田所は言った。

「お前は、繋がった後、何かが変わったか」

 田所は少し考えた。

「変わりました」

「どこが」

「静かになりました。中が」田所は少し間を置いた。「ただ、前より、ここにいる気がします」

「ここにいる」

「はい。前は、ここにいると思っていました。今は、ここにいると知っています」

 夏生は何も言わなかった。

 村瀬が田所を見た。田所はコーヒーを飲んだ。


「先生は」と村瀬が言った。

「何」

「最終回で、何かが変わりましたか」

 夏生は少し考えた。

「一瞬、重なった」

「重なった」

「巣全体と。一瞬だけ」

「怖かったですか」

「いいや」

「よかったですか」

 夏生は少し考えた。

「わからない。ただ、正しかった気がした」

 村瀬はうなずいた。

「先生らしいです」とまた言った。


---


 ハルが動いた。

 テーブルの真ん中から、窓の方へ歩いた。

 窓の前に座った。

 外を見た。


 三人がハルを見た。


 芝生があった。石畳があった。継ぎ目に、土の盛り上がりがあった。

 ハルはその方向を、じっと見ていた。

 耳が動いた。


 田所がハルを見た。

 何かを言おうとした。

 言わなかった。


 村瀬がハルを見た。

 夏生を見た。

 夏生はハルを見ていた。


 誰も何も言わなかった。

 それでよかった。


---


 田所が帰った。

 ドアの前で振り返った。

「先生、論文、楽しみにしています」

「時間がかかる」

「待ちます」田所は少し笑った。「私のデータも入るんですよね」

「当然だ」

 田所はうなずいた。

「また来ていいですか」

「来い」

 田所は出て行った。


 村瀬が残った。

 片付けをした。カップを洗った。テーブルを拭いた。

 いつの間にか、そういうことをするようになっていた。


「先生」と村瀬は言った。

「何」

「研究、終わりましたか」

 夏生は少し考えた。

「終わっていない」

「続けますか」

「記録がある。まだ書いていないことがある」

「潜入は」

「わからない」

 村瀬はうなずいた。

「わからないなら、まだ続くかもしれませんね」

「そうかもしれない」

 村瀬はコートを取った。

「先生、一つだけ」

「何」

「この研究、意味がありましたか」

 夏生はしばらく考えた。

「わからない」

「わからないですか」

「ただ」と夏生は言った。「お前が来た。田所が来た。ハルがいる。それは変わらない」

 村瀬は何も言わなかった。

 少し、目が動いた。

「また来ます」と言った。

「来い」


 ドアが閉まった。


---


 一人になった。


 夏生はノートを開いた。

 今日の日付を書いた。

 《三人、集まった。田所、ゼロ継続。村瀬、三。夏生、一。》


 数字を並べた。

 ゼロ、三、一。

 どれが正しいのか、どれが終わりなのか、わからなかった。

 わからないまま、書いた。


 次の行。

 《ハル、窓の外の巣を見た。三人が見た。誰も何も言わなかった。》


 その行を少し見た。

 ハルが何を見ていたのか、まだわからなかった。

 聞こえていたのかどうかも、わからなかった。

 三年間、ここにいて、何を知っているのかも、わからなかった。


 わからないままにしておくことが、正しい気がした。

 正しい、という言葉が正確かどうかも、わからなかった。


 最後の行を書いた。

 《悲しみの有無、不明。》


 ペンを置いた。


---


 ハルが来た。

 窓から離れた。

 夏生の膝に来た。

 乗った。


 夏生はハルを見た。

 ハルは夏生を見た。


 いつもの目だった。


 土の匂いがした。

 一だった。


 夏生はハルの背中に手を置いた。

 温かかった。

 生きていた。


 窓の外に、巣があった。

 今も、動いていた。

 誰も見ていなくても、動いていた。

 見ていても、動いていた。


 それだけだった。

 それだけで、十分だった。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

三人は、それぞれの場所にいます。

悲しみの有無は、不明のままです。

窓の外では、巣が動いていました。

ハルは夏生の膝の上にいました。

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