第三十三話 田所、戻る:わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました
わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました
田所から連絡が来たのは、匂いがゼロになって十日後だった。
「先生、会えますか」
「来い」
翌日、田所が来た。
久しぶりだった。
顔色が普通だった。眠れている顔だった。
ヘルメットを見なかった。装置を見なかった。椅子に座った。
「どうだ」と夏生は聞いた。
「静かです」と田所は言った。「ずっと静かです」
「匂いは」
「ゼロのままです」
「夢は」
「見ません」
夏生は田所を見た。
「悪いことか」
「わかりません」田所は少し考えた。「ただ、何かが抜けた気がします。穴ではないです。空いた、という感じでもない。ただ、前とは違います」
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「先生に聞きたいことがあります」と田所は言った。
「何だ」
「七回目に、私は返事をしました」
「そうだ」
「何に返事をしたんだと思いますか」
夏生は少し考えた。
「わからない」
「先生も、わからないですか」
「そうだ」
田所はしばらく黙った。
「私には、少しわかる気がします」
夏生は田所を見た。
「何に返事をしたんだ」
「コロニーです」田所は静かに言った。「コロニー全体に、返事をした気がします」
夏生は何も言わなかった。
「先生の父親の論文を、先生に借りて読みました」
「いつだ」
「四回目の前です。先生が置いていたので」
「それで」
「コロニーは個体の死を超えて存続する、とありました」田所は夏生を見た。「私が返事をしたのは、その全体に対してだった気がします。個体じゃなくて」
夏生はしばらく、田所を見た。
「それで、何が来たんだ」
田所は少し考えた。
「来た、というより、繋がった気がしました」
「繋がった」
「はい。一瞬だけ。それから先生の声が聞こえて、切れました」
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「田所」と夏生は言った。
「はい」
「お前は今、どこにいると思う」
田所は少し間を置いた。
「こちら側にいます」
「確かか」
「確かです」田所はうなずいた。「向こうと繋がったから、こちら側がわかります。繋がる前は、こちら側だと思っていただけでした」
夏生は何も言えなかった。
「先生は」と田所は聞いた。
「何だ」
「先生は、どちら側にいますか」
夏生は少し考えた。
「手前にいる」
「手前というのは」
「どちら側かがまだわからない場所だ」
田所はうなずいた。
「それでいいと思います」と言った。
「なぜだ」
「わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました」
夏生は何も言わなかった。
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田所が帰る前に、ハルが来た。
夏生の膝ではなく、田所の足元に来た。
初めてだった。
田所は少し驚いた顔をした。
ハルを見た。
ハルは田所を見た。
田所がしゃがんだ。
ハルの顔に手を近づけた。
ハルは逃げなかった。
匂いを嗅いだ。
田所が夏生を見た。
「この猫、いつもいますね」
「そうだ」
「名前は」
「ハルだ」
「ハル」田所はハルを見た。「いつからいますか」
「研究を始める前からだ」
田所はしばらく、ハルを見た。
「そうですか」とだけ言った。
何かを知っている顔だった。
夏生は何も聞かなかった。
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田所が帰った後、ノートを開いた。
今日の日付。
《田所来訪。匂いゼロ継続。「コロニー全体に返事をした」「繋がった」と発言。》
次の行。
《「こちら側がわかる」——繋がったから、わかった。》
次の行。
《私はまだ手前にいる。》
ペンを置いた。
田所が言った言葉を思い出した。
「わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました」
父の論文を引き出した。
最後の赤線を見た。
「コロニーは個体の死を超えて存続する」
今日引いた線ではなかった。
前に引いた線だった。
ただ、今日は、違う意味に読めた。
個体の死を超えて存続する。
田所が繋がったのは、その全体だった。
夏生が合っていたのも、その全体だったのかもしれなかった。
村瀬が読まれたのも。
ハルがずっとここにいるのも。
全部が、何かの一部だったのかもしれなかった。
何かの一部、という言葉が正確かどうかはわからなかった。
ハルが来た。
膝に乗った。
夏生はハルを見た。
「田所に会ったな」
ハルは答えなかった。
目を細めた。
それだけだった。
田所は、匂いも夢も失くして戻ってきました。
コロニー全体に返事をした、と彼は言います。
夏生は、まだ手前にいます。
ハルは初めて、田所の足元に行きました。




