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【連作短編054】 蟻 全37話 ―悲しみの有無、不明―  作者: マチャオ (Machao)


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第三十三話 田所、戻る:わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました

わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました

 田所から連絡が来たのは、匂いがゼロになって十日後だった。

「先生、会えますか」

「来い」

 翌日、田所が来た。


 久しぶりだった。

 顔色が普通だった。眠れている顔だった。

 ヘルメットを見なかった。装置を見なかった。椅子に座った。


「どうだ」と夏生は聞いた。

「静かです」と田所は言った。「ずっと静かです」

「匂いは」

「ゼロのままです」

「夢は」

「見ません」

 夏生は田所を見た。

「悪いことか」

「わかりません」田所は少し考えた。「ただ、何かが抜けた気がします。穴ではないです。空いた、という感じでもない。ただ、前とは違います」


---


「先生に聞きたいことがあります」と田所は言った。

「何だ」

「七回目に、私は返事をしました」

「そうだ」

「何に返事をしたんだと思いますか」

 夏生は少し考えた。

「わからない」

「先生も、わからないですか」

「そうだ」

 田所はしばらく黙った。

「私には、少しわかる気がします」

 夏生は田所を見た。

「何に返事をしたんだ」

「コロニーです」田所は静かに言った。「コロニー全体に、返事をした気がします」

 夏生は何も言わなかった。

「先生の父親の論文を、先生に借りて読みました」

「いつだ」

「四回目の前です。先生が置いていたので」

「それで」

「コロニーは個体の死を超えて存続する、とありました」田所は夏生を見た。「私が返事をしたのは、その全体に対してだった気がします。個体じゃなくて」

 夏生はしばらく、田所を見た。

「それで、何が来たんだ」

 田所は少し考えた。

「来た、というより、繋がった気がしました」

「繋がった」

「はい。一瞬だけ。それから先生の声が聞こえて、切れました」


---


「田所」と夏生は言った。

「はい」

「お前は今、どこにいると思う」

 田所は少し間を置いた。

「こちら側にいます」

「確かか」

「確かです」田所はうなずいた。「向こうと繋がったから、こちら側がわかります。繋がる前は、こちら側だと思っていただけでした」

 夏生は何も言えなかった。

「先生は」と田所は聞いた。

「何だ」

「先生は、どちら側にいますか」

 夏生は少し考えた。

「手前にいる」

「手前というのは」

「どちら側かがまだわからない場所だ」

 田所はうなずいた。

「それでいいと思います」と言った。

「なぜだ」

「わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました」

 夏生は何も言わなかった。


---


 田所が帰る前に、ハルが来た。

 夏生の膝ではなく、田所の足元に来た。

 初めてだった。


 田所は少し驚いた顔をした。

 ハルを見た。

 ハルは田所を見た。


 田所がしゃがんだ。

 ハルの顔に手を近づけた。

 ハルは逃げなかった。

 匂いを嗅いだ。


 田所が夏生を見た。

「この猫、いつもいますね」

「そうだ」

「名前は」

「ハルだ」

「ハル」田所はハルを見た。「いつからいますか」

「研究を始める前からだ」

 田所はしばらく、ハルを見た。

「そうですか」とだけ言った。


 何かを知っている顔だった。

 夏生は何も聞かなかった。


---


 田所が帰った後、ノートを開いた。

 今日の日付。

 《田所来訪。匂いゼロ継続。「コロニー全体に返事をした」「繋がった」と発言。》

 次の行。

 《「こちら側がわかる」——繋がったから、わかった。》

 次の行。

 《私はまだ手前にいる。》


 ペンを置いた。

 田所が言った言葉を思い出した。

 「わからないまま見ていた人が、一番多くのことを記録しました」


 父の論文を引き出した。

 最後の赤線を見た。

 「コロニーは個体の死を超えて存続する」


 今日引いた線ではなかった。

 前に引いた線だった。

 ただ、今日は、違う意味に読めた。


 個体の死を超えて存続する。

 田所が繋がったのは、その全体だった。

 夏生が合っていたのも、その全体だったのかもしれなかった。


 村瀬が読まれたのも。

 ハルがずっとここにいるのも。


 全部が、何かの一部だったのかもしれなかった。

 何かの一部、という言葉が正確かどうかはわからなかった。


 ハルが来た。

 膝に乗った。

 夏生はハルを見た。


「田所に会ったな」


 ハルは答えなかった。

 目を細めた。

 それだけだった。

田所は、匂いも夢も失くして戻ってきました。

コロニー全体に返事をした、と彼は言います。

夏生は、まだ手前にいます。

ハルは初めて、田所の足元に行きました。

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